三十六、蓋

 仕事を増やさなきゃ、とマサルさんは言う。穴埋めが必要だから、と。

 急に仕事で外国へ行き、帰ってきてから今後の予定を渡された。それを見てユリが軽く驚いていると、そう付け加えた。


「無理しないで」

「大丈夫。独立したての頃はこれより予定詰まってた。来る仕事は断らなかったからね」


 ユリはじっと夫を見上げる。


「大丈夫だって。それに、約束しただろ。危ないことはしないって」

「もうひとつ」

「えっ」

「もうひとつしたわ。苦労はわたしにも背負わせてって」

「でも、君はこれ以上仕事は増やせないだろ? 文書変換は公の仕事だから割当量が決まってるし」

 マサルさんは腰を下ろした。ユリもとなりに座った。


「心配してくれるのはありがたいけど、これでも余裕ができるくらいなんだから。もうひとつの方を辞めたからね」


 夫を信じたい。でも、あのことがなければいまでもわたしに隠していたはずだ。夫婦だからなにもかも分かり合えるというのは、そうであったらいいなという希望にすぎない。

 まだなにか隠れて行動していないだろうか。


「ねえ、事務所、また家に戻さない? あなたが海外にいる間、事務処理手伝うから。そうすれば負担が減るでしょ。それに、費用浮くし」

「許してくれないのかい?」

 夫はため息をついて続ける。

「君に嘘をついてあんなことをしてたのは謝る。なんどでも謝るよ。でも、もうしないから。それに、現実的なことを言えば、事務所の費用は控除できるからそれほど負担じゃない。あと、自宅を事務所兼用にしてると客になめられるんだ。まだまだ古い考えの人もいるから」

「わかったわ」


 わかってなどいなかったが、そう答えるしかなかった。これ以上は今の安定を崩しかねない。

 ユリは茶を入れた。


「ヒデオは?」

「いつもの通り。部屋よ。論文出したって」

「あいつ、どうだったのかな。先輩と」

「わからない。なんにも話してくれないし」


 マサルさんは急に立ち上がると階段下まで行って風呂に誘ったが、いま忙しいから、と返ってきた。

 ユリは肩をすくめ、声を出さずに口だけ動かして、ほらね、と言った。

「なにが忙しい、だ。子供のくせに」

「もう大人よ。なりかけだけど」

「親子で、おなじ家にいるのに話もできない。近いのに遠いな」


 わたしもあなたに対してそう思ってるのよ、と言いたかったが、そんな嫌味はやめた。歳をとったせいか、そういう抑制がきくようになった。小さな無用の波風は起こさないようにする。それで安定が保たれる。

 けれど、本当は叫びたい。夫の肩をつかんで揺さぶりながら、耳元で、なにも隠してないでしょうね、と怒鳴ってやりたい。


 それから階段を駆け上がってドアを勢いよく開け、ヒデオにもそうする。


 家族三人でそれぞれの思いをぶちまけられたらどんなにいいだろう。隠し事や、ひとりでなにかを背負ったりしないで、みんなでわかちあえばいい。

 そうしたいのに、わたし自身の心には、いつのまにか蓋ができてしまった。


「お茶、おかわりは?」


 そんな言葉しか出てこなかった。

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