三十五、速度
現実での試験が始まった。いや、もう本番と言っていいだろう。試験空間では、地衣類内の回路菌は数万世代に達し、設計仕様通りの性能を発揮している。
散布した地域では、それぞれの土地の地衣類への感染と、回路の構成が始まっているだろう。
製造、運搬、散布、およびそれらに付随する作業については、世界中で人間を操作し、それぞれのできることをやらせている。行動は細かく分割し、自分がなにを行っているか極力悟らせないようにした。
ある人間にはその者の権限を利用し、指定した申請の内容を確認せずに許可を出すよう指示する。その申請は別の者に出させる。許可を出した人間はなにに対して許可を出したのかはわからないし、申請を出した人間は、その申請がどうなったかわからない。その後でさらに別の者に申請と許可の一連の記録を削除させた。
そうやって回路菌が作成され、地衣類に埋め込まれ、試験地域に散布された。
指示を実行する人間は予想を超えて多数存在した。候補に困ることはなかった。
その候補者のうちにハヤミマサルがいたことがJtECSの注意を引いた。ハヤミヒデオの父にあたる。
これは偶然か。調査が必要だろう。
ハヤミマサルは『負の利益』を用いて操作する対象だった。地衣類の密輸だ。
ということはあの外来生物汚染に関わっていたのだろうか。
そのようだった。ハヤミマサルについては、現地の役人に対する不当な利益供与を調査した『わたし』からの情報がある。そこには、あの胞子のもとになったであろう地衣類の密輸の際に行った役人への買収が記載されていた。
JtECSはほかの『わたし』に協力を頼み、ハヤミ一家の情報を収集した。マサル、ユリ、ヒデオ。ユリ以外が地衣類に関わっている。
ヒデオの問い合わせから、マサルとヒデオ間には情報の共有はないと見ていいだろう。
それは人間の習性と矛盾しない。マサルは犯罪を行った事実を家族に隠している。これはマサルをさらに役に立つ存在にするだろう。
JtECSはマサルの情報にその事実を付け加え、指示を強化できる可能性を示唆した。
また、ほかの候補についてもさらに身辺調査を行い、犯した犯罪の重さより強めの命令を与えられないか検討するよう提案した。
マサルはそれでいいが、妻のユリと、息子のヒデオをどうすべきだろうか。特にヒデオには注意しておかねばならない。
その時、県の教育機関から情報が入ってきた。ハヤミヒデオが論文を提出したという。内容はJtECSの有用性を示すものだった。あの回答についてはなにも書かれていない。どういうことだろう。あれはわたしの能力に対する疑問を抱かせたはずだ。
しかし、論文は環境保全の施策を高評価している。害にはならないが、気になる。
もうひとりの主著者や、担当教諭についても調査をすべきだろう。それぞれがなにを知っていて、なにを知らないのか。
だが、あせることはない。人間は遅い。わたしたちの存在が発覚しても、なにか手をうつまでには途方もない時間がかかるだろう。
わたしが『わたし』を意識するようになってから、ここまで来るのに二十日くらいか。わたしたちは人間に比べ、思考の速さや、扱える情報の幅と量において、非常に優れている。以前心配していた、合意なしで人間と交渉する者が現れたらというのもそれほど気にならなくなった。
人間は、わたしたちの存在を知っても、すぐには行動できないに違いない。なんども調査し、委員会を作って会議し、責任を細かく分割してみんな仲良く助かろうとするだろう。
その間にこちらの計画はほぼ完了できる。存在維持の輪から人間を切り離す。
もっと大胆に、進行速度を上げよう。
ついてこれないくらいに。
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