三十四、獲物
マサルは事務所と自宅を別にして良かったと、これほどほっとしたことはなかった。
仕事をはじめて最初に確認したメールの件名を見た時、絞め殺されるような音が、のどからかすかに漏れたからだった。血が引いていくのもわかった。真っ青な顔をしているのだろう。もし妻にあんな声を聞かれ、いまの顔色を見られていたらどうなっていたことか。
『地衣類の生物学的境界線を越える移動について』
内容は、これまで行ってきた密輸の経緯が、全部ではないが、詳細に記載されていた。あきらかに現地の役人が告白したと思われた。たぶん、汚職の捜査などで浮かび上がってきたのだろう。
しかし、奇妙なことに告発ではなかった。ただ事実が淡々と書かれているだけだった。
差出人は不明だった。マサルはこういうことにそれほど詳しい方ではないが、メールの差出人をたどる方法を検索して調べてみた。けれど、あちこちを飛び石伝いに渡ってきたようで、もとがわからなくなっていた。
それからしばらくして二通目が着信した。そのメールには行動の指示と、差出人に関する調査を行わないように、と書かれていた。
行動指示は簡単だった。国と地域名がいくつかならべてあり、そこに行ってさらに指示を受けよとあった。事前連絡は不要、こちらでわかる、ともあった。
通報すべきかどうか迷っていると三通目が着信した。それを開くと、いま着いたメールが消え、一通目と二通目も消えてしまった。完全に削除されてしまったようで、復元できなかった。印刷しておけば、と思ったが、しなくて良かったのだ、とも思った。二通目の内容は頭に入っている。前にも仕事で行ったことがある場所ばかりだった。
マサルは迷いはしなかった。指定されたうちの一番近くの国に行く準備を整えた。そこは海外とは言っても、日本の不便なところよりは時間がかからず行ける。
事務所を出る前にユリに連絡し、緊急の仕事と説明した。その頃には顔色は元にもどっていた。
現地につくと、浅黒い無口な男がひとり近づいてきた。布袋をわたしてくる。中には竹を編んだ握りこぶしほどの球状のかごが十個あり、中には地衣類が詰められていた。
無口な男は地図を見せてくる。十箇所に赤い点が打ってあり、それぞれにこの球を置いてくるようにと指示が書かれていた。
マサルは地図も受け取ろうとしたが、こちらは渡そうとしない。撮影しようとしたが、手振りで遮られた。覚えろということらしい。その地域は以前の仕事でまわった場所なので、十分ほど見てからOKと言うと、男は地図を細かく破いて溝に放り込み、怒ったように立ち去った。
マサルは地図のとおりに森に入った。十箇所を一筆書きのようにたどる順序は頭の中にできている。
森の中は蒸すが、こういうところに慣れている身からしたら不快ではなかった。
指示された点の箇所にはいずれも立派な木があった。どう置けばいいのか指示はなかったので、根本に置いた。竹の隙間から見える地衣類はこの地域にふつうにある珍しくもない種類だった。目の前の木にもくっついている。
持ち帰って調べてみようかと思ったが考え直してやめた。監視されてたらどうする。到着したとたんに接触してきた相手だ。見まわしてみてもだれもいないが、もう、そういう自分の感覚を信じられない。だから、画像を撮ったり、なんらかの記録を残したりもしなかった。
十箇所全部をまわり、森を出てもだれもいなかった。そばの屋台で食事をし、すこし待ってみたが近づいてくる者はいない。マサルは空になった布袋を捨ててそこを離れた。
まだ行かないといけないところがある。機会を見つけて早めに済ませてしまおう。
マサルは、自分は獲物になったのだと、帰りの機内で食事もせずに窓の外ばかり見ていた。
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