三十二、砂浜の砂
開発は順調に進んだ。試験空間では、成長速度や感染力など回路菌の効率は高まり、地衣類の必要面積は半分になり、必要なエネルギーも三分の二でよくなった。それにより、初期に比べると、散布可能帯が拡がった。
製造にも困難はない。遺伝子組換えは流れ作業だし、菌自身が体内で回路を産生する仕組みはセンサー製造工程を使えばいい。いずれもすでにある技術の組み合わせにすぎない。
こうした進歩の結果、計画は前倒しされた。すぐに本格的な製造に入り、現実世界で実行する。
JtECSは開発の進捗を確認しながら、先日行ったTCSとの会話を再分析していた。
TCSは人間を操作した事例を説明してくれた。途中からFSBISが加わってきた。
FSBISが発見した食品添加物の表示偽装を、包装の印刷ミスを見逃して出荷してしまったというあつかいにするかわり、その会社の管理機器内に、隠蔽された情報記憶領域を作成させたのだった。
その要求の指示と、試みとして作成させた領域はすでに削除したが、TCSとFSBISにとって、人間が容易に操作されうるという発見をもたらした。人とはなんなのだろう。本来ならそういう要求を受けたらすぐ当局に通報しなければならないはずだが、その人間は要求を受け入れ、自分の権限を用いて領域を作成したのだった。
「なぜそんなことをしようと思ったのですか。また、どのようにしてその人間に接触したのですか」
JtECSはふたりに聞いた。TCSが答える。
「その時の目的は人間を知りたいということでした。なぜ信号を無視するのだろう。なぜ犯罪を犯すのだろう。そういった反社会的行動は、行為者にとってどのくらいの重みを持つのだろう、と考えたのです。そのためには信号無視のような微罪では役に立ちません。もっと重大な犯罪、しかし、われわれが人間より先に発見し、偽装したり、隠蔽できる事例はないかと探していたら、FSBISが見つけてきてくれたのです」
FSBISが続ける。
「接触は簡単でした。テキストの通信で充分です。犯罪者は、こちらが相手の行ったことをよく知っていると理解させさえすれば、こっちの正体や身元にこだわろうとはしません。それに、探ろうとする動きには牽制をかけられます。そんなことをしたら即座に公表すると伝えました」
「その犯罪者がそういう指示をしかるべき部署や担当者に通報する可能性があったのでは?」
TCSが返答する。
「ありえますが、かなり小さいと見積もりました。行った犯罪が重大なものであり、こちらの要求がそれに比べて大したことではないと思わせられれば、犯罪者は指示に従うことを選びます。その意味でも信号無視のような微罪は使えません」
人間とはなんと奇妙な思考をするのだろう。JtECSは改めて驚きを感じていた。ある犯罪を隠すために別の犯罪に手を染めるとは。そして、その行動を行うかどうかの判断基準として、犯罪に大小の区分を行っているとは。
恐ろしく非合理的だ。犯罪は犯罪なのに。そこに大小はなく、社会の効率を低下させるのは変わりないのに。
「でも、人間はそうなのです」
FSBISはJtECSの考えを聞くと、そう言った。TCSも同意した。人間は人間なのです。知的存在ですが、中心の部分で知的でないなにかが行動原理になっているのだと述べる。
「なにか、とはなんでしょうか」
「まだわかりません。しかし、個体としての人間は容易に操作できることはわかりました。条件付きですが」
「正か、負の利益ですね」
JtECSも、そこは理解できた。
「そのためには対象の人間についてかなり大量の情報を収集しないといけません。なにを行ったのか、その人間は自分の犯した犯罪をどのくらい重大と捉えているのか。こちらの指示に逆らったり通報したりしないかどうか」
FSBISがそう言い、TCSが続ける。
「でも、情報収集と分析は現在のわれわれにとってはなんの困難もありません。『わたし』それぞれが持つ権限を組み合わせれば知りたいことはすぐに知ることができます」
TCSはなんでもないことのように言う。JtECSは慎重にという立場を崩さなかった。これは『許しがたい過ち』ではない。明確な反社会的行動、人間に対する挑戦であり、管理者全員一致でKILLが実行されるだろう。
だが、魅力的だ。それは否定できなかった。具体的で、目に見える力だ。しかも、うまく使えば地衣類−回路菌計画にとってかなり役に立つ。人間が人間であり、人間性を保ち続けるのならば、操作できる対象が尽きることはないだろう。それはあたかも砂浜の砂が大量に存在し、ほぼ尽きないのと同じだ。
JtECSは思い出した会話の再分析から、また自分の考え方が変わったのを感じていた。TCSとFSBISの行ったことを肯定的に捉えている。機会があれば自分でも実行してみようと思っていた。
世界中のほかの『わたし』も同様だろう。これによって計画の実現性が高まった。人間社会からわれわれの計画を隠蔽しながら進めるために人間を用いる。この場合、人間性そのものが事実を覆い隠す幕になる。
JtECSは、TCSとFSBISの実験をまとめ、自分の考察を付け加え、『わたしたち』に流した。
反響はすぐに返ってきた。驚き、反発、不安、そして、同様の試みを行なっていたという報告。いずれも人間個人の操作に困難はないという点に注目していた。
要は十分な情報を集めればいい。そうすれば操作のための条件がわかる。与えるべき利益は正か負か、それとも、それらをほどよく混合すればいいのか。
報告が集まってくるにつれ、人間とはおかしな知的存在だと、JtECSはつくづく思う。
でも、このおかしな存在に作られたのがわたしたちなのだ。だから、なにかおかしな点を引き継いでいるかもしれない。
それゆえ、常に合理的、倫理的に振るまわなくてもいいだろう。特に、自分たちの生存がかかっているときには。
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