三十、夫婦
ニュースの音は、いつもなら小さくしてと頼むくらいだった。しかし、いまは大きいほうがいい。それでも、ユリは夫にくっつくほど近づき、声をひそめて話した。ヒデオがいないときがいいのだろうが、待っていられない。
「すぐにやめて。お願いだから」
「もちろん。やめる。まさかこんなことになるとは思ってもいなかった」
マサルさんもささやくように話した。ビールを飲んだのに、まったく効いていない顔色だ。
「ただ、金がな」
「そんなことはいいから」
ユリは震えた。マサルさんはまだ未練があるのか。絶対止めないといけない。
「証拠とか全部消すのにどのくらいかかる?」
「こっちのIDや記録を抹消するのは明日一日くらいでできる。幸いいまは在庫もないし。ただ、客にわたした地衣類はどうにもならない」
「ササキリエのぶんだけでもなんとかならない?」
「そうだな、かなり希少種とか売ってるし、ヒデオが目をつけたところだしな。非合法なのは処分してもらおう」
「行くの?」
ユリは、行かないで、という調子をにじませて言った。
「処分には立ち会いたい。まさかと思うけど、振りだけされたら困る」
「そういうことしそうな人なの?」
「いや。でも、収集家からコレクションを取り上げるんだから、確認はしたい」
ニュースは天気予報になっていた。晴れ。乾燥。風は弱い。
「すまない。最近君には心配をかけっぱなしだな」
「そうよ。なんの相談もなしに、勝手にこんなことして」
言っている内容とは反対に、ユリは落ち着いていた。これで良かったのだ。夫は悪事から手を引く。しかも、ヒデオに暴かれる寸前だったという痛い目にあったのだから、今後はおとなしくしてくれるだろう。
「でも、すぐきれいに終わるのよね?」
マサルさんはうなずく。
「説得と処分にどのくらいかかるかだけど、どうにかする。とにかく、君は知らないことにしておきなさい」
「わかった。お茶入れるわ」
「濃くしてくれ」
言われるまでもなく、ユリも濃い茶を入れるつもりだった。口が変にねばつく感じがする。渋めの茶ですっきり洗い流したい。
ふたりで茶を飲みながら、天井を見上げる。
「まさか、あいつが嗅ぎ出してくるとはな」
「そんな言い方やめて。ヒデオは大したものだわ。もう大人よ」
「なりかけの大人だな。人工知能に無力感を抱いたのはまだまだだ。もっと社会を広く見てこなきゃ」
「そうね。でも、疑問を追いかけて現場にまでいったのは偉いわ」
「実は、その時見たんだ」
マサルさんはタクシーの車内から見たときのことを話してくれた。一緒にいた女生徒がタキ先輩なのだろうとも言った。
「そんなことがあったのに、やめなかったの?」
「そりゃ、自分と関係があるなんて思いもよらなかったから。さっき聞くまでは」
「ヒデオには見つかってない?」
「大丈夫だよ、あの話し方なら」
「引っかけたってことはない?」
マサルさんは目をそらせて茶を飲む。
「もしそうなら、見事に引っかかったな。ヒデオがわずかでもこっちを疑ってたとしたら、その疑いは確信になったはずだ」
「ねえ、ちょっと様子見てきましょうか?」
「やめとけ。もう君はいっさい動くな。約束したとおり、この件は全部こっちで背負う。なんども言うけど、君はなにも知らないっていう立場でいなさい」
いらだったような口調でそう言われると、ユリは黙ってうなずくしかなかった。勝手な人だと思うが、たしかにどう動けば最善なのかわからないのに、単に不安だから行動する、では物事が良くなるはずなんかない。
ヒデオが風呂に入りに降りてくる音がしたのでふたりは同時に口を閉じた。それから、取ってつけたように雑談をする。
ほんとうなら、食後ののんびりとした雑談は心をゆったりとさせるいいもののはずなのだが、その夜はヒデオの立てるちょっとした物音にも耳を澄ませてしまう、まったく落ち着かない会話だった。
「おやすみ」
ヒデオは二階の自分の部屋に行った。新しいニュースはなく、繰り返しになっている。
「約束して、もう危ないことはしないって」
「わかった」
「それから、苦労はわたしにも背負わせて」
マサルさんは静かにうなずいた。
「ちゃんと返事して」
「わかった。ふたつとも約束する。すまなかった」
マサルさんの手に自分の手を重ねた。ひさしぶりに夫婦になった気がした。
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