二十九、冷たい水
論文は完成に近づいている。データは十分に集まった。もう頭はいらない。単調な、論文としての体裁を整える作業だけだ。
「例の誤判定、どうします?」
「迷うところね。このままだとJtECSは完璧っていう論文になっちゃうけど、あれを加えたところで、ねぇ……」
タキ先輩は小さな声で言う。どうやらヒデオとおなじ無力さを感じているらしい。さすがにここまで人工知能が有能だとは予想しなかったのだろう。
「どう思う? なんで勉強するのかしら」
作業をしながらJtECSについて話をしていると、タキ先輩が突然そう言った。
やはり、おなじことを考え、おなじように叫びたいようだ。その叫びたさに反比例するような、かすかな声だった。
「もう、昔とちがって、仕事をして、社会に貢献するためじゃないですね」
ヒデオは問いにまともに答えられないので、『なんのためではないか』という逆の方向から自分の意見を言った。
「そうよね。まだわたしたちが大人になるくらいの時代ならまだなにかやること残しておいてくれそうだけど、次の世代はどうなるのかな」
「そもそも、いまのような社会が存在しているでしょうか」
「そっか、社会が解体するかもね。もう群れて暮らす必要なし、か」
「人工知能を作った人たちはそこまで考えてたんでしょうか」
「さあね。でも、新しいなにかを作った人たちに、それから発生したことの責任をなにもかもかぶせるのは無茶よ。社会はそんなに単純なものじゃないし」
「もういちど、朝起きたら狩りに行くっていう暮らしにもどれたらな」
「そしたら必ず、狩りの道具の改良をしたり、獲物の行動パターンの調査をしたりするわ。人間だから」
「だれだよ、そんなこと始めたやつ。のんびりしてたらいいのに」
タキ先輩がヒデオを指差して笑う。ヒデオもすぐにタキ先輩を指差して笑った。
「じゃ、誤判定は追加せずに仕上げますか」
「そうしましょう。意味ないわ」
その日の夕食時、父さんが前に話したことを聞いてきた。
「結局、なんの手も加えないで書いた。機器を新しくしたらはっきり結果が出すぎてさ。タキ先輩も納得したよ。このまま行こうって」
「ふうん。どんな結果?」
母さんが聞いた。
「JtECSは投入した税金に見合うか、それ以上に優秀だった」
その口調の平板さに両親とも気づいた。
「なにかひっかかるのか」
父さんがビールを飲み干し、母さんがおかわりを注ごうとするのを手振りで断って言った。
「人工知能がこんなに優秀だとは思わなかった」
「優秀だと、なにか問題あるのか」
「なんで勉強するのかなって。JtECSみたいなのがたくさんいるのに」
「『あるのに』でしょ。『いるのに』じゃない」
母さんが細かいことを指摘する。ヒデオはそう言ったことに気づいていなかったので意外そうな顔をした。
「人工知能って言ったって、道具よ。優秀で役に立つでしょうけど。気に入らなかったらすぐに処分して置き換えられるわ。人間じゃないんだから」
父さんは腕を組んでいる。
「ヒデオの考えてることはわからないでもない。世界中、商業交渉のために行くようなところではどこでも人工知能が……あるしな」
組んでいる腕をほどき、茶を飲んで、母さんの顔をちらりと見て言った。
「でも、ヒデオの論文とは違って、そこまで優秀だと思ったことはない。資源探査とか、地質調査とか、データを集めれば集めるほどいい結果が出る仕事は得意だけど、交渉のような硬軟必要な仕事はまだまだって感じだ。要は世間話ができないんだな」
「でも、それだっていまは必要がないからやってないだけで、やる理由ができたら人間の反応のデータを集めるとかしてあっという間にできるようになると思うよ」
「いや、それは疑問だな。データを多量に集めるだけで世間話ができるもんじゃない。あれはかなり特殊な技術だ。多分、生まれて、育って、死ぬっていう要素を持たないと完璧にはこなせないな」
「世間話ってそんなすごいの?」
母さんがわざとおどけたように聞いた。重くなりかけた雰囲気を戻そうとしているのだろう。でも、まじめに話をしたいヒデオにとっては鬱陶しかった。
「父さん、なんでそう考えるようになったの?」
ヒデオは母を無視して言った。
「うん、人間は群れてるだろ。その群れの仲間と常にくっついていないといけない。そのくっつく強さは群れの性質で変わる。家族はかなり強くくっついてるけど、国って群れはいまはそれほど強くくっついてはいない。でも、どの群れも必要で、維持していかなきゃならない。その仕組みにはその家の慣習とか、法律とか色々ある」
父さんは言葉を切ってまた茶を飲んだ。考えながら話している。父さん自身、きちんと整理できていないのだろう。
「人間はおたがい同士、なにを考えているか本当のところはわからない。心は読めないから。それで、話をする。表情や、身振り手振り、声の調子も使って。内容はあったほうがいいけど、なくてもいい。目的なんかなくても話をすることが大事なんだろうな。それが世間話だ」
母さんがなぜか小さく笑った。
「そして、人間は生まれて、育って、死ぬことを行う知的存在だ。人工知能も知的かもしれないけど、そういうことはしない。生まれも育ちも死にもしないんだから、群れもしないだろう。いつまでもひとりで、世間話もせず仕事だけをする。だから、高度な人間的問題は解決できないよ」
「『高度な人間的問題』って?」
「たとえばおまえの先輩さ。一度はデータをいじろうとした。その理由を考えて、解決しようとしただろ。結局は最新の機器が問題そのものをうやむやにしたけど、仮に機器が交換されなかったとしても、なんらかの解決には至っていたはずだよ。けれど、JtECSには理解もできない。単にデータの捏造を告発して終わり、だろうな」
完全には納得できない。でも、ヒデオは父さんのものの見方に感心した。すくなくとも、JtECSが優秀だからといって、勉強の意味や未来に疑問を抱くだけだった視野の狭い自分よりはましだ。
なら、あのことも相談してみよう。違った視点からの意見や行動の案が聞けるかもしれない。
ヒデオは、急に話を変えるけど、と謝ってから、外国産地衣類の胞子の微量検出、JtECSの誤判定、ササキリエの家の工事、密輸の可能性あり、という話をした。
「どう思う?」
「それは、JtECSの二つ目の回答にあるとおり、輸入建材とか、そういったものについてきたんじゃないか? 空調設備の工事と重なった理由はわからないけど」
「でも、ほかに工事をしてた家はなかったし、空調機は排出する空気を濾過するようになってたんだよ」
「いや、でも密輸っていうのはな。警察や担当官が見逃すかなあ」
「考えにくいかな」
「ああ、うん。いまどき密輸、しかも生物の密輸はな。監視機器もかなり発達してるし」
「そうだよね。そっか、わかった」
「まぁ、ヒデオの言うとおり、謎は残るけど、調べようもないしな。すっきりしないけど、放っておくしかないんじゃないか」
母さんが食器を片付け始めたのを潮に話は終わり、ヒデオは自分の部屋に上がった。後ろからは父さんがニュースを見始める音がした。いつもより大きい音にしているが、ドアを閉めると気にならなくなった。
宿題を片付け、試験勉強をし、論文につけるデータの整理をしてから風呂に入った。熱い湯が心地よかった。
もう、人工知能と人間に優劣をつけるような考え方はやめよう。母さんの言ったとおり道具だ。道具とそれを使う人間をおなじ尺度で比べてどうする。
ヒデオは頭に冷たい水をかけた。
人工『知能』なんて呼び方が悪い。つい人間のようにとらえてしまう。電子回路上にあるただの電気信号なのに。そしてそれは人間が作った行動手順に従って動いているだけなのに。
なら、なんですっきりと不安が解消されないんだろう。頭の隅にこびりついたかすがどうしても拭いきれない。
いま、自分と社会の未来を覗けるなら、片腕くらいくれてやるのに。
ヒデオはまた水をかぶった。
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