十七、きれいな手
「じゃ、お願いします」
ヒデオがそう言うと、タキ先輩が記録を始めた。データには場所と時間を暗号化した情報が埋め込まれる。そのうえで、記録機器本体と証明機関に同時に保存される。
記録が正常に行われているという確認信号が返ってきたのを見てから、ヒデオは収集機を起動した。かすかな唸りとともに周囲の空気を吸う。吸入口の先端を伸ばして法令に定められた測定高まで上げた。その様子はすべて記録されている。だから二人は無駄話はしない。
規定の時間が来ると、収集機は自動で動作を止めた。それからすこし余裕を持たせるように記録を続け、合図して止めてもらった。
「ありがとうございます。あと二箇所」
異常なデータが検出された場所を中心に三角形を描くように収集する予定だった。移動しながら複数点で測定するが、この収集機はサンプル採取型ではなく、吸入した空気を分析してデータを残すのみなので、荷物がかさばらず楽なのは助かる。
「ここらへんは静かね」
「金持ちの地区だから」
昼間だというのに静まり返っている。よく整備された広い道路なのに車はほとんど通らない。
しかし、近くに一軒だけ工事をしている家があった。そこからの作業音だけがこの高級住宅街にふさわしくない印象だった。
三角形を描くと、ちょうどその家を含めて三軒が中に入る。ヒデオの住んでいる地区ならもっと多いだろう。
作業は順調に進み、残りの測定も終わった。収集機が旧型のため、学校に持ち帰って機器に直接つながないとデータを吸い出せない。ふたりは駅に向かって急いだが、学校についた頃には下校時刻になっており、荷物をおいてくるだけしかできなかった。
「明日のお楽しみね」
「今日はありがとうございます」
帰り道、ヒデオはあらたまって礼を言った。
「いいのよ。ハヤミ君に押されちゃた」
その後、タキ先輩は急に真剣な顔になった。
「で、どうするつもり?」
「え?」
「もし、例の仮説が正しかったら。本当に外来生物の汚染があったら」
ヒデオも真面目な顔になった。
「大変です。監視団体はともかくとして、JtECSはノイズと判定していますから」
「前の話とは逆の方向で、とんでもない結論になるわね。大金のかかった人工知能の誤判断。有用性に疑問って」
「いや、いまはそこまで考えないでおきましょう。明日データを見てからです」
「慎重ね」
「先輩に教えてもらいました。結論ありきはいけないって」
翌日の放課後、ふたりは顔を見合わせていた。ごく微量ではあるが、胞子が検出されていた。
別の画面には、ヒデオがJtECSからもらった返答を再度開いていた。ノイズであり、該当地区の監視機器の再点検を行うとあるものだ。
ヒデオは今回の調査データをつけて、再点検の結果を問い合わせた。
「なに? JtECSにクレームつける気?」
「ええ、どういうつもりなのか知りたくないですか。ただの小さな判断ミスか、それとももっと重大な障害か」
「やり過ぎじゃない?」
「いいえ、むしろ研究目的にかなってます。JtECSが役に立つかどうかはっきりする」
返事を待つ間、胞子について調査した。地衣類であり、日本には存在しない種類で、博物館などでも標本の形でしか持っていないものだった。また、日本の自然環境では成長も繁殖もできないとわかった。
「これ、わたしたちの手に負える事態じゃないかも」
タキ先輩がつぶやいた。
「まだ結論を出すには早すぎます。返事を待ちましょう」
「先生には言っとかない?」
「もうちょっとはっきりしてから。騒ぐだけ騒いでなんでもなかったらそれこそ大迷惑です」
「そっか、そうよね」
測定機器は、その地区の汚染を表示し続けているが、かなりかすかになっている。これだけ見ればノイズと判定するのもやむを得ない。
返事が帰ってきた。すぐに開き、ふたりはため息をついた。
『ハヤミヒデオ様。お問い合わせありがとうございます。こちらは城東市環境保全システムです。
お問い合わせの件について回答したします。
該当地区の監視機器について、再点検の結果、異状は認められず、測定データは正しいものと確認されました。
よって、該当地区は外来生物による汚染ありと判定され、追加調査を行いました。結果、外国産の地衣類の胞子であると判定されました。
しかしながら、ごく微量であること、および、日本の自然環境では生息、繁殖不可能である点から、回収、駆除などの対応は行われません。
また、流入の経緯については不明ですが、輸入建材などに付着していたのではないかと推測されます。ただし、当方の権限ではその点についての調査を行うことはできません。調査をご希望の場合は警察、輸出入管理局、環境管理局にそれぞれ申請を行ってください。
回答は以上となります。
なお、この度の調査のきっかけとなったハヤミ様のお問い合わせに御礼申し上げるとともに、当初、誤った回答を差し上げたことをお詫び申し上げます。
それでは、今後とも城東市および城東市環境保全システムをよろしくお願いいたします。
皆様のJtECS』
「やっぱりJtECSはすごいってことか。間違いを素直に認めたし」
返信を数回繰り返し読み、ヒデオは伸びをして言った。手間ばかりかかって面倒な申請などする気はない。疑問が片付いただけでいい。
「ただの小さなミスか。これで不審な点はなくなったわね。さ、研究に戻りましょ」
タキ先輩はほっとしたように画面を戻した。
「はい。でも、これも論文に入れますか。エピソード的に」
「それは後で考えましょう。入れる余裕があれば入れればいい」
「そうですね」
ヒデオは返信を背景に追いやり、処理すべきデータを前面にもってきて作業を始めた。JtECSの対応がうまくいっているという結果が現れてくる。城東市はその周辺の都市とともに、人間の生活に適した良好な環境が保全されていると言える。
JtECSだって間違う。しかし、許しがたい過ちではないし、すでに修正された。むしろ過ちを認めて修正できるのは頼もしいとも考えられる。
それにしても、微量とはいえ、外国産の地衣類の胞子が、あんな高級住宅街でいきなり発見されたのはなぜだろう。調査を申請する気はないし、この件はこれで終わらせるつもりだが、気にならないわけではない。データを見る限り、あの地区に突然湧き出したように現れたことになる。
いきなり胞子が出現する理由。そんなのわかるわけがない。
ヒデオは、そういうごちゃごちゃした考えを、使わないデータのように意識の背景に追いやって、いま集中すべき作業に戻った。こっちだってじゅうぶん厄介だ。早く目鼻をつけないと間に合わない。
となりではタキ先輩が処理を行っている。きれいな手だなと思い、また気がそれた自分を叱る。いつものことだった。
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