九、矛盾

 事務所で行う仕事は決まっている。事務だ。マサルは書類を片付けていった。狭い部屋に机が一つ。厚い窓の外から空港が見える。

 商業交渉人は、専門の交渉部署を持てない小企業や個人の代理として海外での商売の調査、交渉や契約を行う。呼び名は違えど、昔からあるような仕事だ。

 マサルは結婚前に独立し、それからずっと個人でやってきた。日本と外国を月に何度も往復する。

 人によっては大変だろうが、これがマサルの性に合っていた。旅の自由と家庭の安定。両方とも味わえる。


 日本では報告書を作ったり、古い習慣の残っている会社の場合は出向いて説明したりしなければならない。処理を要する細かい仕事は帰国時のほうが多かった。

 それでも、海外の現場よりは頭は使わない。キーを打っている指がものを考えているようにも感じられる。

 キーを打つ指、コーヒーを飲む口、離着陸する飛行機を見る目、家のことを考える頭、全部べつの生き物だ。


 海外の現場では依頼主の代理として業務に当たる。できるだけ要望を通すため努力するが、妥協も必要だ。そのあたりの判断をし、それがうまく当たって依頼主と自分の利益を最大化できたときは達成感がある。狩りをしたことはないが、そういう快感だろう。


 それと、最近始めた地衣類採集。国境や生物学的境界線を超えて生物を運ぶのは違法だし、倫理面からもほめられる行為ではない。

 しかし、マサルは手を染めた。愛好家たちは入手の方法にはこだわりを見せない者が多かった。地衣類はほかの動植物ほどかさばらないので輸送が難しくなく、角や骨や皮と違って知識のないものにはそれほど重大な犯罪には見えない。また、地衣類にも希少種はあるが、植物の株のように採取が絶滅につながるほどではない。

 そのうえ、愛好家の市場が小さすぎて、犯罪組織が手を出さないのもいい点だった。マサル個人ならいい小遣い稼ぎになるが、組織としてやっても割に合わない。

 本業ほど儲かりはしないが、マサルの見積もりではもうしばらく続ければヒデオの教育資金のうち幾分かはまかなえそうだった。そうなれば、自分たち夫婦の老後資金に手を付けなくても良くなるし、成人して独立したヒデオに頼らずに生きていける。経済的な負担で子の未来に障害を置きたくない。


 犯罪は犯罪だが、その責めは自分だけで背負ってみせると、マサルは決心していた。


 だから、マサルは地衣類を売る相手を慎重に選んでいた。管理がしっかりしていて日本の自然環境に漏出させないことと、転売をしないことを条件に客を選んでいる。

 始めた頃はその見定めに失敗したこともあったが、そういう客は即座に切った。また、一緒にやっていこうという誘いも受けたがすべて断った。犯罪組織を作るつもりはない。いつでも手を引けるようにしておきたかった。


 メールが着信した。仕事用のほうではない。客だった。ササキほどではないがお得意だ。マサルは冷蔵庫の中身のリストを送り、客はいくつかに印をつけて返信してくる。その日のうちに食品サンプルに見せかけた荷物が送り出された。いつもの手順だった。


 事務仕事は簡単で単調だが、量ばかりある。夕食は家で摂りたいがそうもいかないようだ。ユリの嫌な顔を想像しながら連絡したが、それほど表情は変わらなかった。もうあきらめたのだろうか。平然とした顔なのが物足りない。

 いや、これはあまりよくない兆候か。ちゃんと話をして謝ろう。日本に帰ってきたのに家族と過ごしていない。ヒデオに背中を流してもらったのはいつのことだったか。

 家族のために働こうとして家族をないがしろにしている。いつからこんな矛盾を抱え込むようになったのだろう。


 暗くなってきた外を見ると、窓に自分がいた。すっかり薄くなった頭。そこに空港の照明がちょこんと乗っている。


 マサルはぬるくなったコーヒーを飲み、スナックをかじるとまた書類に戻った。

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