八、疑問
「ヒデオ、ちょっと開けなさい」
母さんがドアの外から声をかける。あれはまずい声だ。
「鍵かけてないよ。なに?」
「あのねえ、帰ったらただいまくらい言いなさい。黙って部屋に行っちゃうことないじゃない」
母さんはドアを開けたあたりに立ち、じっとこっちを見ている。
「うるさいなあ。言ったよ」
「聞こえませんでした」
「わかったよ。これからちゃんと言うから。もういいでしょ。出てって」
「なんですか。その言い方は。それから制服は脱いだらすぐに吊るしなさい」
ヒデオは無言で服を拾って吊るした。それを見届けると母さんは大きい音を立ててドアを閉め、足音を立てて階段を降りていった。
女はわからない。母さんも、タキ先輩も。
ヒデオは寝転がって天井を見上げながら部室でのやり取りを思い返す。怒りの残りかすがまだ感じられる。
それと、解ききれない疑問だ。
タキ先輩はどうしてしまったんだろう?
「データ処理ありがとう。でも、これきれいすぎるよ」
放課後、生物部室でおなじモニターを見ながらタキ先輩はあまり感情のこもっていない声で言った。ほかの部員たちは理科室中に散らばってそれぞれのテーマで実験や相談をしており、部室はかなりざわめいていた。
「測定機器の仕様書をネットで見つけたんで、それを加えてノイズを取ってみたんです」
ヒデオは得意げな調子が声に混じらないように注意した。しかし、校正だけでは信頼性に欠けると考え、測定機器を掘り出したときには失われていた仕様書を見つけて処理に加えたのは自分でもよくやったと思っていた。
「それはよくやってくれたと思うけど、やっぱりこれは結果を誘導したようにも見える」
タキ先輩はデータをつついた。
「長いこと手入れもされずに放置されていた機器の劣化具合までは計算に入れてないですけど、いまぼくらにできる範囲でそこまで悪いデータではないです。これで行きましょう」
「ねえ、ハヤミ君。わたしたちのテーマは城東市の環境保全に人工知能が果たしている役割を調べようってことよね」
「ええ」
「先生もおっしゃったけど、これ結構微妙なテーマなのもわかってるよね」
「ええ、JtECSの評価はまだ定まってないし、使った税金ほどの効果があるのか批判してるメディアもある。そのくらい知ってますよ」
ヒデオはむっとした。いくらなんでもばかにしすぎだ。
「それなら、きれいすぎるデータはまずいってわかるでしょ」
一瞬、ヒデオはタキ先輩がなにを言っているのかわからなかったが、わかると腹が立ってきた。
「ノイズを加えろっていうんですか。結果を誘導するために意図的にきれいにするのとどう違うんですか」
腹が立つとかえって冷静な口調になった。
「そうじゃなくて、極端にどちらかに偏った結果はまずいの。わかる?」
ヒデオは首を振った。わかりたくない。
「ここは城東市立高校の生物部で、部の予算だって市の補助が出てる。それが市の人工知能は非の打ち所がありませんっていう結果を出したら?」
黙っているとタキ先輩はさらに先を続け、それがヒデオを怒らせた。
「ほどよい結果でないとだめなの。研究の審査をするのは人よ。きれいすぎると怪しむし、わたしたちは市立高校生ってだけでそういう目で見られてるかもしれない」
ヒデオは一息吸ったが、いつものように怒りをしずめられなかった。
「わかりません。そんなおかしな理屈はない。それに、それは先輩の勝手な推測でしょ」
思わず声が大きくなり、近くの席の者たちは振り返って様子をうかがいだした。
「そうだけど、いままでの審査結果を見ればわかるのよ。きちんと整ったきれいなデータをもとにした論文ははねられてる。審査員は学生に素人っぽさを求めてるの。どこか抜けたところがある方が受け入れられる。たとえばデータに取りきってないノイズがあったりとか」
「まさか、先輩は受賞が目的なんですか。研究ではなくて」
「ハヤミ君。どういう意味?」
そこで顧問の先生が割って入った。三人で話し合い、結局は古びた測定機器のデータ処理に端を発していることから、先生は妥協案として新しい測定機器を早めに借りてくれることとなった。
「それでやり直してみたらどうだ。仕様や機器の特性がはっきりしてる最新型を借りてくるから、無理してそんなじいさん機器を使わなくていい。そもそも、データ処理で喧嘩になりかけてたんだろ?」
「喧嘩なんて……」
ヒデオは口ごもった。
「いつ頃になりますか。それに予算は?」
タキ先輩が聞いた。
「心配するな。貸しがある奴がいてな。あさってには届くし、安く上がる」
「ありがとうございます」
ふたりは頭を下げた。先生は、こんなところで貸しを取り立てるとは思わなかった、と苦笑いした。
「それだけ君らの研究には期待してるってことだから、言い争いはしないでがんばってくれよ」
「はい」
ヒデオはもう一回頭を下げた。
先生がほかの学生の様子を見に行くと、ふたりはぎこちなく今後の計画を練り直して提出した。
その日、ヒデオは一人で帰宅した。
思い返してみても、タキ先輩がどうしてしまったのかわからない。受賞が目的になったとしても、その理由がない。この賞は県主催だが、副賞はなく、なんの利益もない名誉だけの賞だ。知名度もないので進学に有利になったり、履歴書に書けたりできるようなものでもない。だからかえって公立高校の部活動でも応募しやすい。
ヒデオもそういうところが気に入っていた。研究とその結果を純粋に評価してもらえる賞だと思っている。
とにかく、自分は冷静でいよう、と決めた。この研究そのものはやりとげたいし、タキ先輩がこれまで積み重ねてきた経験や能力は必要だ。
それに、とヒデオはどきどきしてきたのを感じた。今日は怒りを感じたが、それ以上に、タキ先輩と話ができなくなるのは嫌だ。
言い争いになりかけたときですら、先輩の唇を見ている自分がいた。恥ずかしい。こういう私情は隠しておいたほうがいいだろう。
ヒデオはヘッドフォンをつけ、音楽を再生した。大音量で両耳から流し込み、もやもやした気持ちを洗ってしまうつもりだった。
いままでそうだったように、そんなことはできっこなかった。
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