第61話 音読み/訓読み


 夏の暑い頃あい、夜に灯火の下で話し合いがもたれた。暑いけれども、嵐が来る前触れなのか風が強い。この風に生暖かさが混じれば、それは確かに嵐になるだろう。風が強いせいで、掲げられた幾つもの灯火には、虫が少ない。

 男たちが多くひしめき、《文字》をどのように扱うかについて言葉を戦わせている。

 カラクニから来た者がある。カラクニから来た者の子や孫がある。あるいは、昔から我がクニに仕える者がある。さらには、イズモやキビなど、他所のクニの者も見える。遠くの村やクニに、ヒコの考えを正しく伝える仕事が増えてきた。


 ある者は、まつりごとについては、すべからくカラクニの言葉を用いるべきと唱える。曰く、田や鉄を造る優れたカラクニの技については、カラクニの言葉で表されることが多い。《文字》で示すことも多い。だから、仕事はすべてカラクニの言葉で話し、カラクニの《文字》を用いてするべきだ、と述べる。

 またある者は、全く逆さのことを言う。我がクニの言葉とカラクニの言葉は大いに異なっている。慣れた者でなくては、カラクニの言葉は扱えない。多くのクニにヒコの指し示すことがらを正しく伝えるには、我がクニの言葉を措いて、他はないのだ。《文字》は、思い切って我がクニの言葉で読むべきだ、と述べる。

 私が思うに、例えば今吹いている《風》という言葉は、まだいい方だ。文字で《風》と書こうが、カラクニの言葉で「フウ」と言おうが、我がクニの言葉で「かぜ」と言おうが、それぞれが整っている。指し示すことが一つに整っている。だからそれぞれを取り交わすことができる。

 だが、考えるのが難しい《文字》があるのだ。


 ほら、男たちからわかりやすいたとえが出てきた。

 「みる」という我がクニの言葉をカラクニの文字で表すと、色々ある。

 《見》も《観》も《看》も《視》も《覧》も、すべて我がクニでいう「みる」になる。カラクニは進んでいるからか、「みる」ためのやり口を、色々言葉で分けてしまっている。おのずからみえてくる時、じっくりとみる時、細かく調べる時……このように時によって言葉をわける。私たちは、すべてそれを「みる」としている。これが難しい。「おさめる」とか「かえる」とかも、色々な《文字》で表しうる。

 「カラクニの言葉で話すべき」と考える者は、これこそが、我がクニの言葉を改めるべき訳である、と述べる。カラクニの《文字》で詳しく分けられた仕組みを、我がクニにも取り入れていくべきだ、と声を上げる。

 ところが、「我がクニの言葉で話すべき」と述べる者も、同じく、これこそが、我がクニの言葉で《文字》を読むべき訳であると訴える。今、「みる」や「おさめる」や「かえる」を使って、誰も困っていないだろう。むしろカラクニの言葉で分けてしまうと、訳がわからなくなるに違いない、と。誰しもがカラクニの言葉を詳しく知っているわけではないのだ、と。


 もう幾日も幾日も、同じような話し合いが続いている。そもそも事の起こりは、文字の読み方を知らないまま、文字を扱う者が増えたことにある。《風》の《文字》のカラクニでの音を知らないまま、「かぜ」と知って、そして読んでしまう人々が増えた、ということ。

 チョウセイならどう考えるだろうか。あるいは、チョウセイとだったら、どんなことを語りあうだろうか。すでにチョウセイは去って久しい。それに……。恐らくチョウセイは「倭のクニのことは、深く立ち入れません。私は他所者ですから」とへりくだって、それでちょっと悲しい顔をしそうだ。あの人は、ああいう人だった。だから私自らで、考えねば。今まで培ったことがらで、自ら。

 側にひかえる男に「述べたいことがある」と促す。しかるべきやり口で、男は皆にそれを伝える。女である私が述べるということで、しばらくして間は静まり返る。咳やら咳払いかわからないものをしてから、語りはじめる。

「《文字》をどう読むか決めなくてはなりません。思うところを述べます。私は、どちらかに決めてしまうのではなく、……どちらも読み方も残して、一つの文字について二つの読み方をするのが良いと考えます。我がクニとカラクニの、二つ……。読みを二つにして、話す言葉については、そのまま我がクニのものを残すのが良い」

 静まってはいるものの、ひしめく男たちは色々と言いたげだ。しばらくして、それぞれの者から少しずつ話が出てきた。

 カラクニの言葉を推す者は、「それでは、我がクニにしかない言葉をどのように《文字》で示すか、お考えを聴きたい。そのような術は未だない」と言ってきた。

 我がクニの言葉を推す者は、「それでは、覚える事柄が二つになり、わかりにくいのではないか」と言ってきた。


「まず初めの問いに答えます。我がクニにしかない言葉は色々ある。名前とか、「て、に、を、は」のような言葉と言葉とを繋げるものとか。これについては、更に考えねばなりません。ただ、一つのやり口がすでに示されています。カラクニへの使いに持たせた便りには、私の名前や、かつてはヒミコ様のお名前が記されていました。あるいはクニの名前も。例えば私の名前は……ええと《䑓與》と書くのですが……誰か書ける人、それぞれ土に書いて! 周りの人に見せてあげて! わからない人も多いから……。はいはい。そうです。「䑓に、與える」と書く。

 いいですかー! 私の名前「トヨ」を《䑓與》と書いて便りとしたわけですが、私は台を皆に与えるわけではないですよね。カラクニの《文字》ののです。我がクニにしかない言葉については、意を思い切って捨てて、音だけ拾うのが、良いと思うのです。我がクニの言葉の音の数は八十八。《文字》はそれよりも多いですから、音を表すにふさわしい《文字》は必ずあるはずです。たとえば「あ」は《安》なんかがいいんじゃないかしら」

「意を捨ててしまうなんて、……そんなことしていいのですか!」

「わかりません。でも、それが我がクニの者にとっては使いやすいと思うのです。いかがでしょうか」


「次の問いに答えます。一つの《文字》について、二つの音を学ばねばなりません。これは見かけでは難しいことです。ですが、考え方を変えると、むしろ《文字》を覚えるのに良いと思うのです。手がかりが二つになるわけですから。風、強く吹いていますけれど、風の《文字》を、「かぜ」と覚えて、それで「フウ」の音を覚える。物事を覚えていく時、すでに知っているものを手がかりとするのは当たり前のことです。これからもっと多くの人が《文字》を知り、《文字》に触れうる世になります。なにせクニが大きくなりましたからね。《文字》を我がクニの言い方で読むのは《文字》の広まりにも役立つはず。

 それに、数は少ないですけど、我がクニの言葉の方が動きをより詳しく説いているものもある。「たてまつる」と「うけたまわる」。カラクニの文字では《奉》と書きます。はい、書ける人、書いて! はい。この文字だけでは、皆が私をたてまつるのか、皆が私の指し示したことをうけたまわるのかわかりませんね」

「我がクニの言葉を重ねて、カラクニの《文字》に二つの読みをつけるなんて、……そんなことしていいのですか」

「知りません。でも、我がクニの言葉で育ったものが《文字》覚えるのには、このやり口がいい」


 臥所ふしどに帰って寝る支度を調える。闇の中でコンコンと咳をしながら、先ほどの話し合いについて考える。

 まただ。また、何も決められなかったのと同じだ。私は、……はたして、私は。やはりここでも……何も決められなかった。何か……これまで生きてきて、何か自らで決め得たことがあっただろうか。

 常に、誰かがいて、誰かが指し示したことがらがあって、誰かに何かをされたり、してもらったりしていた。だから、どちらかに決めないでそのまま共にするというのは、私らしい考えだな、って思う。身に馴染んだ考え方……。

 ええい、良いのだ! と思う。二つから一つを選ばなくてはならない時でも、もしかしたら二つとも選びうるかもしれないのだ。

 『老子道徳経』に《渾沌》という神がでてくる。仲間の神二人とお酒を飲んでいた。《渾沌》には目も鼻も耳もなかったから、仲間の神は《渾沌》に一日ごとに穴を開けて、目や鼻や耳を作ってあげることにした。ところが、七日目、七つの穴が《渾沌》にできたところ、《渾沌》はたちまちに死んでしまった。《渾沌》とは定まらぬモノ。だから目や鼻や耳を定めてしまうと、死んでしまうのだそうだ。

 この世のあらゆるモノを切り取るのが《文字》や、あるいは言葉だ。

 はっきりと何かを決めきったり定めきったりすると、それはもう「そのモノ」を表すものではなくなってしまう。世は《渾沌》のようなものだ。切り取るときは、その手立てに幅を持たせた方が良い。定めきってしまわないほうが、《渾沌》は生きる(『老子道徳教』の《渾沌》だって、六つ目の穴までは生きていたから、緩やかな定まりは良いはずだ!)。

 だから、私が決めた「どちらかだけ」にしないということは、間違いではない……はず、なんだ。きっとね。決めないことにすることを、決めた。

 これが正しいかどうかはわからないし、すぐに男たちが改めてしまうかも知れない。すっかり近頃は腰が曲がって、考えも取り散らかる。はっきり決めないで読みを二つにしたことが正しいかどうかは、後の世の者どもにゆだねてしまおう。眠くなってきた。

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