第65話 千四百七十五年目 江戸日本橋茅場町 荻生徂徠
孔子の世はまことに遠くなった。唐国ですら、
しかし、問題はもう一つあった。講義をやって、人が増えれば増える程、それは立ち現れてきた。
高弟の一人が語りかけてくる。
「中国語での講義、なんとも面白いですな」
「面白い……が、それだけなのかもしれん」歩きながら答える。
「古典を直に掴むような心地がします」
「心地がする……、だけなのかもしれん!」歩みを止めず答える。
孔子の言葉を直に掴むためには、孔子の世の言葉に遡って考えなくてはならない。我が国には、いつぞと知れぬ古い世から漢籍は流入してきた。
「我が国で一番に幸せな門弟は、初めて学んだ者だ。我が国の歴史のどこかで、必ずいた者だ」
「誰のことでしょう」
「誰だっていい! 肝心なのは、唐話から初めて漢籍を学んだ、ということだ。初めて学ぶんだから、我が国の言葉で教われるわけがないのだ!! そこでの講義は恐らく古い唐話で行なわれたはずだ。《唐》なんて国がある、ずっとずっと前のことだ。「漢」話かあるいは「秦」話か……。羨ましい!」
「そのような、古の教えを、徂徠先生は蘇らせようとなさっておられる」
「やればやる程、遠く感じる。お前もわかるだろう。岡島冠山先生の優れた書物がある。だがこれも……」
「先生はいつも、漢字の傍らにカタカナで記される音を気にしていらっしゃいますな」
「これはどう見ても日本の文字だ! 和習の極みなのだ。初学には向いているが、深く古を突きつめるにはまったく
玄関口について門人が挨拶をして退く。
徂徠は秋風に枯れ葉が冷たく吹かれて、地面に低く這うのを見遣る。かの門人はよく解っていて、そして温和な者だった。私の言わんとすることを心に留めてくれている。そして、私が述べることの限界も知っており、それをあえて問わないでいてくれる。
いくら当世の唐話で考えた所で、多寡が知れているのだ。
たとえば和尚! おしょうってなんだ! 「和」は何と読むのが良いのか! 古くが「かしょう」! ついで「わしょう」! そして「おしょう」! そして今の世では「heshang」だ! 和尚の文字と音は時代を問わず我が国にやってきて、今では宗派ごとに使い分けるという、本質とかけ離れた訳のわからない事態になっている。
時は遥かに流れて、我が国の読みも積み重なり、唐話もまた移り変わる。どうして古典を直につかめようか。
今は時が悪い。極めて悪い。古からは遠すぎ、いまだ学問の追究には多くの時を要する。過去か未来に移り住みたいと思いながら、徂徠は夕餉の匂いを嗅ぐ。
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