第64話 千二百九十五年目 越前一乗谷 清原宣賢
清原
宣賢は、自らが著した《
宣賢はその全てが好きだった。難しい講義も、初学者への手ほどきも、子供への教授も。なぜなら皆、知りたがるからだ。それぞれの知恵と知識の赴くまま、色々な事柄を宣賢へ尋ねてくる。
禅寺の時を告げる鐘が谷に響く。それで我に帰る。《抄物》を置いて、
「カンスイケンさまだ!」
「早く家に帰らないと叱られるぞ」
「なんまいだ、って書いてくれたら帰る!」
竹籠やその他の細かな竹細工を抱えた子供たちが語りかけてきた。親を手伝い鬻いで、帰る途中に遊んでいたのだろう。
《南無阿弥陀仏》
手頃な大きさの、あるところに尖った部分のある石を以て、地面に文字を書く。子供たちは手を合わせて「なんまいだなんまいだなんまいだ」と唱えている。越前国では
「君達、《南無》とは何かわかるか」
「しらない」
「帰依する、ということだ」そういってから、この帰依という言葉すら難しいことに気づく。
「ええと、心から従う、ということだな。で《阿弥陀仏》というのが仏様の名前。仏さまの教えに心から従います、ということだ」
子供たちは解ったようなわからないような顔をして、また「なんまいだ」と唱えて去って行った。
宣賢は《南無阿弥陀仏》は不思議な言葉だ、と物思いにふける。もしこれを訓読するなら、《阿弥陀仏》から《南無》に返って読む。阿弥陀仏を南無する。これでいいのだが、まだ問題は半分しか解決していない。《南無》は漢字だけれど、唐国の言葉ではない。京都の禅僧に教わることには、天竺の言葉なのだそうだ。
《南無阿弥陀仏》は長い旅をしてきて、今越前国の子供たちの口に届く。唐国に来て、音が漢字になり、我が国に来て、再び音になっている。しかも、子供たちはその神髄を知らぬまま、だがしかし心から文字通り、帰依している。
谷は陽が沈むのが早い。この時間によく吹いてくる山上からの風を感じる。今日の夜は、ある武士に『源氏物語』の講義を施すことになっていた。
『源氏物語』は五百五十年ほど前に著された。我が国の書物であっても、それだけ時を経ると読むには骨が折れる。だから博士をみな頼るのだが、宣賢はこの武士に、何度も『源氏物語』を読むのは専門ではない旨を伝えている。しかし彼らにとっては『論語』も『漢書』も『源氏物語』も『平家物語』も区別はない。宣賢も、庇護を受ける身であるので無下に断りはしない。
この日も、蝋燭のもとで、古の言葉を語りつつ、当世の言葉で意味を説く。宣賢が属する清原家は、『源氏物語』の時代に清少納言と言う傑出した女性を生んだ。
たまたまで、宣賢も昔から困っていることがある。清原家は現在、少納言になるのが通例になっているのだ。清原家は清家と略されるから「清少納言」になる。これは今を遡ること百五十年ほどまえ、宣賢の五代前の当主
少納言になるものだから、歴代の当主は、半ば冗談で「清少納言」とあだ名されてきた。今この武士もまた「俺は清少納言に『源氏物語』を教わっている!」と吹聴しているということを、他のものから耳にしたことがある。
講義が終わると、必ず酒席が設けられる。越前の料理は宣賢の口にあっていた。酒をあおるにつれて、宣賢の心に、未来への淡い肯定の気持ちがにじみ出てくる。公家が読んでいた《書》を、武家も読むようになった。京都に幕府ができてからはなおさらだ。今は世が乱れているけれども、京都よりほかで学びが栄えている。そうした時流に押し上げられ支えられ、清原家も厳しい戦国の世において続いている。誰しもが《書》を読み、文字に触れる世が、もしかしたら来るかもしれない。そもそも、漢籍は唐国からもたらされた。本朝の公家だって、いつか遠い世に文字を学び始めたのだ。やがては今日の夕にあった子たちの子孫も、《書》やその意義に触れることもあるだろう。いつまでも、清原の家学のような学問が必要とされ続ける。
いつの世にも、博士家のように古典を教えるものがあるだろう。宣賢は《抄物》をもっと書きたい欲に駆られる。文字は広まっていく。教えたり、伝えたりということを、宣賢は好ましく思っていた。今は酒もあるからなおさら強くそう思う。教えを請うものがあれば、いくらでも《抄物》を書くし、どこへでも行くし、帝でも大名でも田舎武士でもそこいらの子供でも構わない。読む内容だって、『論語』でも『長恨歌』でも、『続日本紀』でも『源氏物語』でもいい。先祖が
この一乗谷のように、いつまでも文事が栄えて色々なことを学ぶ世がずっとずっと続けば良い。
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