第32話 テルセの秘めごと

 テルセの息づかいが聞こえてきて、まだ自らに命があることがわかる。痛みはない。固く瞑った眼を、解きほぐすようにゆっくりと開ける。恐ろしさでいまだ声は出ない。

 テルセもまた、眼を固く結んで、私にもたれかかるようにしていた。しばらくもしないうちに、テルセの瞑ったままの眼から涙がこぼれた。

 刃は私の後ろの壁に突き刺さっているようだ。かずらが乱れて、髪が肩にはらりと落ちたとわかる。刃は私のすぐ側を掠め、壁へと巡らされたのだろう。

「テルセ……そ、そんなに私への恨みがあったのですね。西のクニとは我がクニのことでしょう」

 うなだれながらテルセは語り始めた。「わ、私は……。親からそう聴かされてきたから……。巡りが良ければ唄と舞と刃でヤマトのクニのヒコのともがらを殺せるかも知れない、と教えられてきたから……でも……」

 私は篭められた巫女だ。殺したって良かったのに、とすこし投げやりな心地になる。ただすぐに、おやからの恨みを継いだテルセの心を想う。

「イトのクニでの出来事は、親の親の親のころにあったのだそうです。私はヤマトのクニで産まれました。イトのクニになど行ったことはありません。文身と一つの唄と、それと刀を継いだ。この唄の中身が正しいかどうかもわかりません。でも、唄ってしまえばその通りになってしまう。身体がそう動いてしまう。そう唄と舞と刀を教えられたから。親の親の親のころには強い強い怨みがあったのでしょう。それが晴らされるなら悪いことではない。私があずかり知るところではないし正しいかどうかわからないけれど、祖の怨みが晴れるなら、もしそうなら……それでも良いのかな、と唄を習い舞と刀を習ううちに思うようになって……だけど……」

 言葉に詰まるテルセを見て、私は唄わせたことをひどく悔やんだ。右と左のどちらともの手で、テルセの手を握る。

「テルセ、あなたは私を殺しませんでした」

「私、仕舞いまで唄ってトヨ様に刃を突き立てようとしたとき、トヨ様の学びに励む姿を思い出して……。戦のない世は、人が人を怨むこともなくなる。イトのクニが滅んでもうかなり経つ。殺しても殺さなくても私にはどちらでも。だったら……祖から継いだモノを捨てて、自ら考えたところをたのんだっていい、と心に思って。私、《文字》はわかりませんけれど、文読みを聴いていて心に残る物語もありました。《徳》のある者は独りにはならない。必ずや隣にある者がある。お側にいられて、楽しかったから……」

「テルセ、あ、あのですね。とても驚いたのですけれど……よくわかりました。テルセの祖のことも、私を殺さなかったことも。その、ええと、あはは」

 汗で身体がぐっしょりしていて、すでにそれが引き始め、寒さを覚える。手が冷たくなって震える。それでも、私が今のテルセの振る舞いについて、怖かったけれども必ず言わないといけないことがある。

「テルセ、必ず、必ずですよ。明日も私の所にともし火を点けに来てください」

 テルセはうつむいたまま何も言わず去る。別れの言葉はなかった。

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