第19話 早く来てくれ、ソシュール
初めは嘘だろう、と思って神棚を見遣る。神棚には榊が立ててある。その榊が、文字で《榊》と見える。目をこすってもう一度見る。榊はいつもの青い葉に見えて、やがて滲んで形が整い、黒々とした墨で描いた文字として見える。
榊が《榊》の文字に見えるということは、棚板は、《棚》や《板》と見えるはずだ……と考えた。すぐに棚と板が文字になってしまった。
そんなことがある訳がない、と思い、壁に目をそらすと壁が《壁》になってしまった。向こう側が透けて見えるわけではないから、壁は壁として役割を保っていると思しいが、私には《壁》にしか見えなくなってしまった。
《柱》
《灰》
《床》
《敷物》
《灯》
《鏡》
《鹿骨》
《縄》
《肉》《杯》《皿》《蒜》《魚》《茸》《酒》《台》《油》《箸》《
今やすべてのものが文字に見える。眼がおかしくなった。眼を通すと、総てが文字に見える。《神棚》の右手には《壺》がある。あれ? こんなものがあったとは。初めて気がついた。この斎の宮に
他にも、思いもよらないところにモノがあることが解る。宮の上に大きく張り出された
《炉》の中の《灰》。先ほど、酒に酔って戯れに占った鹿骨から煙がたつ。すぐに煙は文字になって《煙》と揺らめく。
斎の宮にこんなにモノがあったのか。紙に包まれた鏡が積み上げられている。鏡どうしが触れると割れる恐れがあるから、合間に紙を挟めている。扱いはあまり良いとは言えず、ヒミコおばさまの時に、いくつかが持ち出され他のクニに配られたほかは、そのままになっている。
《紙》《紙》《紙》《鏡》《紙》《鏡》《紙》《鏡》《紙》《紙》《鏡》《紙》《鏡》《紙》《紙》《鏡》《紙》《鏡》……
そこに眼を遣れば、鏡と紙は文字になる。《鏡》の文字が眼先に充ちる。文字があるから、文字の数を数えたくなる。すなわち鏡がいくらあるのか、知りたくなる。ええと? 想い出を
――――はじめに《文字》ありき、なのだ。
《文字》があるから、そこに何があるか
嵐のあとに溢れた大きな河の、その水の流れごときありさまだ。斎の宮にはモノが多すぎる。それぞれ文字になって浮いている。さらに、遠くから聞こえる
何度か眼をこすったあと、手を見た。考えたとおり、手もまた《手》と見える。私の身体が《文字》になった。慌てて服や顔をさする。《手》の文字は、手としてしっかり働くようだ。
当たり前か。《手》だもの。
手として働くべき動きを全て兼ね揃えているから《手》という文字なのだ。近くには《腕》という文字も見える。《脚》や《胸》や《文身》もある。髪をある所だけ解いて、眼の前に持ってくる。私の黒い髪は、やがて《髪》になる。
少しだけ嫌な心地がして、眼が《眼》になる。目隠しをされたように《眼》の《文字》が眼に映る。訳がわからない。眼に大きく《眼》が映っているのに、他の《文字》も失われない。見えてはいるのだ。
ふわり、とした心地。全てが《文字》になり、世が分かたれている。
次に起こったのは、《文字》からの逆さまの流れだ。《榊》からは、神棚に差す榊や、山の中に生える榊、それに端女が宮に持ってくる榊、用が済んで枯れ始めた榊など、私がこれまで見聞きした全ての榊が飛び出してきて、頭の中で次々に
《柱》から柱が、《灰》からは灰が、《床》からは床……。床にはあきれ返るばかりだ。私は今までどれほどの床を見てきたのだろうか。《床》はそれをひとまとめにする文字だ。そこから抜き出されてきた全ての、見知ってきた床。とてつもない嵩になる。懐かしい、母と過ごした家の床が、ひと時、頭をよぎった。もう戻れないあの場所の床も、《文字》はもたらす。
他の眼に見える《文字》からもどんどん、と現のモノがやってくる。頭にとても入りきらない。人はいつもは眼に見えるだけのものを、選んで見ているにすぎないのだ。今はそれが、眼にはいるものの全て、そして今まで見知ったものの全てが一度に見えて揃う。
《手》。私の手、ナシメの手、母の手、……アキマの手。アキマの、様々な匠の品を生みだす手。
頭に入ってくることがらが多すぎる。酒に酔った心地よさが
《手》という文字は、もともとが手の形を著わしたものだと、チョウセイが言っていた。だが今はあまり手は《手》に見えない。
文字は妙なる働きをする。置き換えることができる。手は、別に《手》と表さなくたっていいのだ。たとえば、手のことを《足》と書くとする。王様がクニの全員にそうするように指示したら手は《足》になる。文字は入れ替えることができるのだ。そんなの誰もしないけれどね。だから手は《手》であり、それでも《足》でも、まぁ、どんな文字でもいいのだ。文字は、モノそのものではないから。
頭に入ることがらを少なくしなければならない。モノをすべてある一つの文字に置き換えようとする。灰も壺も、肉も酒も……そうだな、全て《板》だ。なんでも、《板》と書くことにしてしまおう。私はこのクニを治める巫女なんだから、それくらいしたって良いだろう。
でも、あるものを見てしまった。飛んできた蛾だ。
《蛾》
確かに飛んできたのだろうか。恐らく飛んできたのだろう。眼に《蛾》と《文字》が映ったから。ただもしかしたら、心のどこかで《蛾》の字に当たるのを待ち望んでいたのかもしれない。だから現れた。
《板》は消し飛んでしまった。《蛾》がこの世の全てになってしまった。
《蛾》は性質が悪い。色々いるからだ。それに潰れて
それが今、眼や鼻や耳や口の中にあふれている。これは《眼》や《鼻》や《耳》や《口》が全て
息ができないし、身体の中から《蛾》の群れが湧きあがってくる。
先程まで食べていた宴の品々を、斎の宮の床に吐き戻した。
猪の肉の欠片が見える。それはすぐに《猪》になり、そして《蛾》に変わる。そして生きた蛾になり、私の吐いた酒と汁の入り混じったなかでバタついている。この動きが極めて心地悪く、さらに吐き戻す。繰り返しだ。また蛾を吐いて。また心持が悪くなり、また吐く。
身を屈めてうつ伏せになって吐く。息苦しくなり、仰向けになり、《蛾》の群れになった手足を投げ出す。《蛾》は相変わらず私の身体から吐き出される。仰向けの身体で吐いたために、口から上手く吐きだすことができなかった。身体のなかに《蛾》が逆戻りし、出てこようとする《蛾》とぶつかり、羽音を立てる。
身体の中が蛾で埋まったようだ。息ができない。鼻にも吐いたものが埋まっている。慌てて横向きに身を屈して吐こうとするが、全く上手くいかない。吐くための、息が吸えない。喉の奥が《蛾》の文字なのか蛾そのものなのか、あるいは食べたものなのだろうが、ともあれ充ちてしまった。もがいて手を喉に当てたり、口の奥に突っ込んでみても、何も上手くいかない。全て今や《蛾》になっているからだろう。硬く眼を瞑っていたから解るのが遅れたが、どうやら眼の前が暗くなってきた。
苦く、苦しい心地が翻り、もとの酒に酔ったような心地が何故か戻ってくる。身体も動かず、眼の先から頭の中にかけて闇が現れ、もう何も考えられなくなった。
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