第16話 邯鄲walking

「あのー、ナシメ。神座移しは、今日から数えて三日の後、でよろしいですよね?」

「トヨ様、そのとおりでございます。……いかがなさいましたか」

「はあ、大きなまつりごとですので……あのですね! あの!」

「トヨ様、良いんですよ。心を安らかに。少し違えても、焦らぬように」ナシメはゆっくりと話す。

「ナシメ」

「厳かさを損なわぬことが要になりましょう。安らかに、そして厳めしく。終わりまでそれを保てばよろしいでしょう。少し違えても良いのですよ」

「はは、違えることなど……無い、です。ただナシメにそう言ってもらえて、心が安らぎます」


 ナシメはよくわかっている。人に何を伝えればどうなるか。私がまつりにあたって、どんな心地でいるか。まじないの連なりが絶たれていることは、つゆも知らないだろう。けれども、私の心を汲んで言葉をかけてくれる。私にできることはナシメに《完璧》に応えること。


 祝詞のりとを覚えるごとに、言葉の連なりに親しみを覚える。もともとすでに習い知った言葉なのだ。落ち着いて思い出せば、差支さしつかえはない。ひとつひとつ、改めて思い起こすと、長い物語だな、と思う。語っていて好ましい・楽しいくだりと、そうでないところとがある。語って楽しいところは、より思い起こしやすい。面白くないところは、勤めて思い出さなければならない。

 目を瞑って、ひとつひとつ。覚えの悪いところを思い出したら、覚えているところを確かめる。時を忘れて語りを頭の中で、整える。

 ふと眼を開く。いつもと変わらない斎の宮いつきのみやの眺め。神の拠り代になる種々くさぐさの剣や鏡。供物そなえものうてな、炎を捧げるための鉢には、今は熱はなく、灰の残り。炎の残りの香りがする。風が窓の簾を打ち、やわらかな音がする。身体を動かすと、床板が音を立てる。私に着せられた服はとても良いもので、これを着られる者は我がクニでも限られる。その、衣擦れの音が聴こえる。

 今は全てに名があり、物事が分けられて見える。

 


 私は、何故――――何故ここに篭められて、いるのだろうか。



 テルセが火を灯しに来た。夕方だ。祝詞はまだ《完璧》ではないと思う。

「テルセや。テルセは歩き方を忘れたこと、ありますか?」

「ふぁ! トヨ様。……歩き方、ですか?」

「そう、歩き方」

「歩き方は忘れたことはないですけれど、毎日の仕事で、並びでするべきことを忘れてしまって、飛ばしてしまうことがあります。井戸から水を汲んでからかまどに火を付けて床を掃いて御膳かしわをつくって……それぞれに細かいやり口があるんです。いつもは良いのですが、他の端女はしためから別の仕事を言われると、もともとの仕事を忘れて、飛ばしてやってしまって……それで叱られてしまうことはあります」

「チョウセイに習った〈邯鄲カンタンの歩み〉の物語は覚えていますか?」

「ええと……」

「あ、ごめんなさい。華やかな都に行った子供が、都で流行る歩き方を真似ようとしたのだけれどついにできず、かえって自らの歩き方をも忘れてしまった。そんな物語」

「あ! 思い出した。……ました。歩き方が解らなくなるなんて愚かしいと思っていたのですが、私も仕事を忘れるから……」

「私だって忘れるから心を安らげるのですよ、テルセ」

「ふぁ! トヨ様も?」

「そうですよ。ですから頭の中を、心を落ち着けて整えて、再び思い起こして……。テルセも、仕事が忙しいのでしょうけれど、落ち着いて取り組んで下さいね」

 テルセは畏まって去って行った。半ば自らに言い聞かせるように語ったものだ。あとでテルセを使ってしまったと思って、悔やんで心を悪くした。


 《邯鄲の歩み》で出てきた、歩き方を忘れた子供はどうなったのだろうか。

 歩かないと暮らせない。なんとか自らで考えて、ぎこちなくもそれなりに歩いていったのではないだろうか。

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