第15話 悟性

 物語しか心の中になかったころは、時についても深く考えなかった。神座移しがいつに行なわれようとも、まじないの頭のところさえ諳んじられれば、いつからだろうと、あとは連なりで語ることができた。

 今は違う。《文字》は時と関わりがあるのだろう。チョウセイと読んだ《書》の中に、七百年前まであった呉という名前のクニが出てきた。呉のクニが七百年前まであったのは、《文字》があるからわかることがらだ。文字と時は関わりがあるのだ。

 ということで、《文字》を知ってしまったから、私は神座移しがいつに行なわれるか知りたくなってしまった。心に嵐の前のように雲がかかっていく。明日ではなかったはずだ。もし明日行なうのだったら、私は必ずやまじないの物語を言い淀むだろう。それはかなり恐ろしいことだったが、確か、確か神座移しは明日ではなかったはず。

 では明後日か。うーん、もう少し先だったように思う。ただ十日もなかった。三日だったか四日だったか五日だったか。あやふやなまま、今に到っている。今や自らで、幾日のちか、考えなければならぬのだ。

 

 ナシメとのやり取りを思い起こそうとする。ああ、ナシメは次の半月ゆみはりから四日後に神座移しを行なうのが良いと言っていたっけ。というか、私がナシメのいいを受けて、そうするように占ったんだった(どちらでも同じことだが)。それで、……ええと、次の半月っていつだ? うーん、いつだろう? ……あ、外の月のありさまを見れば良いのか。今までそんなことも考えたことがなかった。言われたように占い、伝えられたように語るだけだったんだ。

 アキマが這入ってくる窓。いかならむ、と、御簾を上げる。曇っていたらいやだな。あるいは、月が半月から三日経っていたら、それはもう日が無いということ。それも嫌だな。


 雲間から兆す月は、まさに半月だった。


 だからあと四日ある。縮んでいた心が、少し元に戻るような覚えがする。四日あるならば……。なんとかなるかも知れない。というかなんとかせねばなるまい。


 さて。さてさて。どうしようか。どうしようか! 

 《文字》を知ってしまった。もう知らない昔には戻れない。頭の中が《文字》を元にして考えるように、仕組みが変わってしまった。

 ま、悪い心地はしないんだけれど。ま、なっちゃたものは戻せない。心を切り替えていこう。

 ネズミやウシの《文字》を知ってしまい、またアキマに書いてもらった紙もあって、頭の中のまじないが乱れたわけだ。

 もしも、我がクニの言葉を全て《文字》であらわせたら、と思う。まじないの言葉を全て紙に書けばいい。それを読めばどんなに楽だろうか。だが、我がクニの言葉の音は、文字では表せない。「あ」は「安」とか、「か」なら「加」とか、音が似ている文字がある。だが我がクニの言葉はカラクニの言葉と異なるのだから、文字にできない。


 しばらく悩んで、私は、のまじないの言葉を、そしてと考えた。今まで、何も考えずにできていたことを、考えて考えて、考えながらやりおおせるようにする。この手しかない。取り敢えず、間違えたってつっかえたっていい。正しいまじないの言葉を思い出して、幾度も繰り返すなかで、正しく言葉を出せればいいのだ。

 夜はすっかり更けて、テルセの灯した明かりが僅かになっていた。いつもならば、寝床に這入る時だ。

 《書》を読んだあと、臥所ふしどなんかで書いてあったことを思い出すことがあった。伝えたい事柄は何か、読んでどう思ったか、他の書物に書かれることがらと比べてどうか、などなど。臥所で、自らで考える。

 今やっている、神座移しの儀のまじないについても同じだ。今までただ諳んじていたのを、自らで考え、思い起こしながら語る。間違えたってつっかえたって、自らで考える。

 もちろん、自らが良ければそれでいいというわけではない。私の巫女としての役割はまっとうせねばならない。まじないを違うのは、巫女として最も有るまじきことだ。必ずやりおおせなければ。四日で必ず、我がものにする。


 蘭相如という五百年ほど前に生きた、カラクニの人の物語があったことを思い出す。趙のクニにあった《璧》という宝物を、秦のクニの王が欲しがった。十五の城と取り交わそうと持ちかけた。でも秦の王様は、城を明け渡すつもりは全くなくて、だまして宝物だけ奪うつもりだった。蘭相如は趙のクニからの使いになって、秦のクニに行った。巧みに目端を利かせて秦王のたくらみを暴きつつ、秦王の心を損ねることなく、つつがなく宝物を趙に持ち帰った。よく役目をまっとうした。仕事を違わずまっとうすることを、この物語にちなんで《完璧》と言うのだそうだ。

 私も、蘭相如とまではいかなくとも、神座移しにあたり、《完璧》に振る舞わなくてはならないだろう。

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