第14話 ニューロンの切替

 アキマが書いた十と二つの《文字》は、てのひらにおさまるくらいの大きさの紙に書かれていた。《文字》を眺める。アキマは書くのがとても上手い。ほかに、土器カワラケを作ったり勾玉を作るのもやたら上手い。アキマの位は私と同じでかなり高い方だから、いつもモノを作る役目にあるわけではない(モノを作るのは位の低い者の役目だ)。けれども、アキマは位の低い、モノを作る人々からも認められていて、工匠たくみやしろに出入りしても喜ばれるのだそうだ。近ごろはどうなんだろうか。私が斎の宮いつきのみやに入ってからは詳しく知らない。

 十と二つの文字を改めて眺める。アキマは私にわかりやすく書いてくれたようだ。カラクニの言葉で《忖度》だ。十と二つの《文字》を、丸くぐるりと還るように書いてくれたのだ。とても趣きがある。これらの生き物たちは十二年で一回りし再び戻ってくる。《文字》の連なりに、そういう《意味》を含めてくれた。アキマのこういうところが、大人たちからも認められるところなのだろう。

 テルセが火を灯しに来た。思わず紙を懐に隠す。私から話しかけなければ、テルセは何も話さない。決まった並びで火を灯して帰っていく。虫の出るころあいでもない。

 灯火で照らされた紙に書かれた《文字》を見る。陽が高い時に見たものと、ありさまがかなり異なる。紙に写る《文字》は、ゆらゆらと炎とともに揺らめくようだ。

 我がクニで、紙に文字を書いたのは初めての試みだろう。

 チョウセイが言っていた。カラクニでは、ずっと昔から紙に書くことだってあると言う。けれども、紙は珍しい代物だから、カラクニでもまだまだ竹を使うらしい。

 紙は軽い。だから持ち運びしやすい。もっと紙が広まれば良いのだが、なかなかたくさん作れないのだそうだ。近ごろようやく、カラクニでは作りやすい紙が現れたそうだ。やがて竹ではなく紙に文字を書く世になるだろう。

 我がクニはどうだろうか。コメ作りは来た。くろがねも来た。次は《文字》だ。それに《文字》を書くための紙だ。《文字》を読み書きする人が増えて、紙も増えれば良いと思う。私は読めるだけで《文字》は書けないし、紙の作り方も知らないけれどね。


 頭の中に、《文字》の環がゆらめいて広がる。それぞれの生き物。知っているものと知らないものとがある。ウマは見たことがある。ウシはない。トラもない。ネズミはそこらにいる。トラは、ネコを大きくしたような生き物だそうだ。トラは毬や、蒲の穂で遊ぶのだろうか。十二の文字の環が心の中で揺らめいて波を立てる。

 しちゅーいんぼーしんしごびしんゆーじゅつがい。しちゅーいんぼーしんしごびしんゆーじゅつがい。この並びで、まじないの言葉を出していけばいいのだ。ネズミ、ウシ、トラ、ウサギ、タツ、ヘビ、ウマ、ヒツジ、サル、トリ、イヌ、イノシシ。


 紙を見ながらまじないの言葉を紡ごうとした時、おかしなことに気がついた。

 祝詞のりとを……

 まず、ネズミ(その次はウシだ。見たことないけれど)。ネズミの神についてのまじないを思い起こす。しばらくまじないを物語ってから、ウシの神様についてのまじないに移る。いちいち《文字》の並びから、。次は……しちゅーいん。トラ。トラの次はウサギだけれど、まずはトラに関するひとまとまりのまじないを、。トラ、トラ……ええと、なんだっけ。トラの物語。ああ、始まりを。トラの次は、ウサギ。ウサギの文字を(兎だ。チョウセイが言うには、ウサギの形のありさまを文字の形にしたんだそうだ。たしかに兎はウサギっぽい!)。ウサギの物語。しちゅーいんぼーしん。次はタツだ。カラクニの人も見たことがない生き物……。

 

 《文字》は、心のうちにある色々なことがらを、外の世に持ちだしてしまう。遠くの人に言葉を届けるのには良いことだし、遠き世の物事を忘れないようにするにはもってこいの仕組み。

 だが……。

 物語と折り合いが、極めて悪い。

 並びを覚えるのに文字を使うのが良いと思っていた。違った。

 私が継いできたまじないの物語は、連なりなのだ。心の中に仕舞われていた連なり。それを文字で外に持ち出すと、ひとつひとつ心に《文字》を持ちこまなければならない。遠くの人に言葉を伝えたり、遠くの時代のことがらを残すには良い。だが、《女たち》から継いだ連なりは、我が頭に刻み込まれている。それを取り出して今、眺めている。それをもう一度。頭の中あるいは心の中に、《文字》を落とし込む。そうしないと《文字》が役に立ってこない。

 速さが合わない、と感じる。


 一、もともと諳んじていた《物語》を頭の中、心の中から取り出す速さ。

 一、それと、この世に顕れた《文字》を見て、それを頭の中に入れ込んで、そこから思い起こす速さ。


 どちらがどう、ということはない。ただ、速さが合わない。異なる歌を、時を同じくして二人で唄う時のような合わなさ。ぎこちなさ。

 私はすっかりまじないの言葉が滞っていることに気がついた。まじないを忘れたわけでは、ない。全く覚えている。

 しかし、滞る。《文字》のせいだ。《文字》を見て、考えて、言葉を出す、という営みがよくない。

 《文字》を知らなければ、こんなことにはならなかったのに。


 頭の中が乱れてきた。《文字》を忘れて、まじないの物語をもっぱらにしようとする。すぐにこれが、極めて難しいことだと気がつく。《文字》を忘れようとする行ないが、すでに、《文字》があることを認める行ないに他ならないからだ。《文字》を知らないときは、《文字》を忘れることなどしなくともよかった。

 幾度も幾度も、物語を試す。物語は頭の中に間違いなくあるのだ。だが……。


 もう戻れない。めまいがする。


 正木が軋む音で、ふと我に返る。斎の宮のなかは、乱れた心の中に比べて、いつもと変わらず穏やかだ。

 息を大きく吸い、また吐き出す。心を落ち着けようとする。

 物語を諳んじるのが恐ろしくなってきた。今まで何も考えずに詠っていた。詠えていた。今は、覚えているものをひとつひとつ思い出さなくてはならなくなってしまった。どこで躓くか、全くわからない。誤りうる兆しは、どこにでもある。頭が痛む。知らないうちに、人差し指を折り曲げて、こめかみに強く当てていた。じわりと汗をかく。頭が痛む。食べたものを吐き戻したい。


 …………神座移し、いつだっけ?

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