第11話 相対主義
『説苑』の〈不顧後患〉は、後先を考えず敵に攻め込もうとした王様を、
チョウセイは《竹簡》を
夜や朝の、いや、昼だってそうだ。暇があれば手に取る。《文字》を見て、遠い昔の物語を想い出すことができる。
お話も面白いのだけれど、彼らの生きた時代に思いをはせるのも面白い。
冬が近づく寒い日に、チョウセイとの文読みの日が設けられていた。テルセも来ている。寒い日だから、いつもと違って、テルセは上着を一枚多く着ることを許されているようだ。
チョウセイはいつもと変わらぬ装いで、せかせかとやってきた。まったく寒くなさそうだ。真っ先に、《書》を読んで思うことを尋ねる。
「チョウセイ、この前読んだ〈不顧後患〉に出てきた呉王というのは、いつの世の王なのでしょう」
チョウセイはいつも笑みを湛えたような顔つきだけれど、さらにそれを大きくして応える。
「姫様、この文章では呉王の誰かまでは解らないです。呉王のうち、どの王の物語かはっきりしているものも多いのですが……。呉というのは、今はもうありませんがとても古いクニです。今から千二百年程前に、周というクニのなかに生まれて、七百年ほど前まで続いたクニです。たくさんの王たちの物語が伝わっていますよ」
「……今から千二百年前に、既にクニがあったのですね。あまりに遠い世で、頭が痛くなってきます。でも面白い。クニがあり王があり、人々の営みが確かにあったのですね。呉のクニはそれで五百年ほども続いた。うーん」
「どうしました?」
「そんな昔のことを考えたこともありませんでした。文字があると、そういう昔にまで考えが及ぶのですね」
「倭のクニの人は文字を残しませんからね。「昔」といってもひと固まりで、どれくらいの昔というのがわからない。文字はそれを解き明かすための手がかりになります」
文読みに入るよう私が促すと、チョウセイは黙って眼を伏せる。風が仮宮に吹き込んできて、改めて寒さを覚える。大婆たちの言継ぎでも、チョウセイと始めた文読みでも、相手も私も黙ってしまって、しばらく時が流れるなどということはこれまでなかった。思わずテルセのほうを眺めてしまう。テルセは私の目配せが解ったようだけれども、その心まではわからなかったようだ。
「少し悩みましたが、姫様にこのお話をしようと思います。ちょっと難しいお話です。今わからなくてもよろしいですし、後にまたお話することがあるかもしれません」
私は何か悪いことをしてしまっただろうか。
「姫様、《文字》が残っていると、それを読めば色々想いを馳せることができますね。王様が居て人々がいて、クニがあって。人々が語り合っていたことが文字があると解ります。《文字》で物語を切り取れば、人々の営みを時を超えて知ることができます。また、カラクニの出来事を倭のクニで知ることができます。文字は遠くへ届けられる。
ええと、ここからが要になりますよ。それでは、文字がないところは、どうでしょうか?」
「文字がないところ……」
「文字がないクニでも、人々の営みはあります。倭のクニは文字がありませんが、文字がないからといって人の営みがないわけではありませんね。文字は必ず要るものではない。文字を持たなくとも……。姫様、女たちからたくさんの物語を継いでいますね」
「でも文字があれば色々なものを残せますよ。やはり進んだ技だと思いますが」
「……ええ。その通りですね。ただ、たまたま文字がないところにだって、人々の営みがあることを決して忘れないでください。文字があり、それを読めるこからといって、決して驕らぬようになさってほしいのです」
「……」
「では『説苑』の続きです。鳥を逃がす話でもしましょう」
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