第7話 郢書燕説

 蒸し暑い夏。私の暮らす《楼閣》(これはアキマに教えてもらった 《熟語》だ)には、夕方になりようやく涼やかな風が吹く。アキマによれば《涼風》なんて《熟語》もあると言う。窓の近くに座り風に当たる。《涼風》の字と「リョーフー」の音を頭に想い描き、愉しむ。

 テルセがやってくるみぎりだ。八つある土器カワラケに、明かりをともしにやってくる。

「トヨ様、テルセです。入ってよろしいでしょうか」

「参れ」

 テルセは静かに火を灯していく。一つずつ、灯火が周りの明るさを押し上げる。七つ目の灯火を点けた時、窓から蛾が迷い込んできた。夜でも明るいところなどは限られているから、斎の宮いつきのみやには虫たちが多く尋ねてくる。生き生きと動きまわることができる虫たちは好ましい。ただ、朝起きたら床が虫だらけでうんざりすることもある。中には何の訳かわからないが、虫が破れて臓物はらわたや汁がこぼれて死んでいることもある。雀が虫をんでいるのを見たことがあるから、これが訳で虫が食い破られているのかもしれない。それに虫を足で踏んでしまうこともある。穢い! 虫たちは、夜が明けた後テルセとは別の端女はしためが掃いてくれる。この端女は慣れていて、虫に心を動かされることなく片づける。宮に虫がいたらいけないと考えるのだろう。表向きは、斎の宮での殺しは認められていない。蝶でも蛾でも、蜂でも虻でも蜻蛉も蟷螂もカブト虫も、ひょいとつまんで窓から投げ捨てる。

 テルセにとても大きな蛾が突っ込んできた。明かりを持って掲げたところで、ちょうどテルセの顔に大きな蛾が被さるようになった。

「ふ、ふぁ……」

 テルセは甚だしく驚いたような動きをなした。だが、大声を出すのは堪えに堪えて、声と吐息との間くらいの音を発した。蛾が苦手なのだろう。蛾はこういう時は、えてして悪い動きをする。テルセの顔を何度かよく動く羽で打ち付け、そして何度かその大きな胴体をテルセの瞳のあたりにぶつけた。

「う、うう」

 火を落とすのは決してしてはならない。宮を燃やすのは大いなる罪になるだろう。真面目なテルセは堪えているが、眼をつむり、身体を強張らせている。可哀そうだ。

「テルセ。落ち着きなさい。蛾は人を殺したりしませんよ」

 そう言って灯火の種火をテルセから預かる。これがあるから明るくて虫が寄ってくるのだ。中が空になっている土器。そのなかにある種火を消す。蛾は相変わらず悪い動きを続けており、テルセの着物の襟のなかにバタバタと入ろうとしている。

 手で優しく蛾を払う。蛾はテルセの首回りを逃げる。首の後ろの方に行ってしまう。手をまわして払う。抱きかかえるようになる。ようやく蛾は離れていった。

 テルセは怖かったのか、私にくっついてきた。今日はずっと働いていたのだろう。汗の匂いがする。ここのところずっと独りで暮らしていたから人の匂いを嗅ぐのは久しぶりだ。かつてはこういう人いきれのなかで日々を過ごしていたことを、こうした出来ごとがあったことで初めて想い出した。

 しばらくして、テルセは自らが今何をしているのか解ったようだ。

「ふぁー! 済みません。巫女様に触れてしまいました!」

 私の身体には触れてはいけないことになっている。位の低い者が私に触れると、私は穢れてしまうのだ、という。こうなったらテルセにしっかり伝えたほうがいいと思う。テルセの右と左の手を、改めて掴む。「静かに。別に構いませんよ。ばれませんから。蛾、苦手だったのですね。もう蛾はどこかに行きましたよ」と言って、テルセを慰め、また触れたことをゆるす言葉を伝える。

 そして私は、テルセがくっついてきたことであることに気がついた。細身のテルセはまるで男の様に、肉が力強く興っていた。

「テルセ、あなた体を鍛えているのですか?」

「……!」

 テルセは今まで見たことのない面持ちになった。けれど私はそれにこの時あまり気を留めなかった。体を鍛えている女が他にいたことが嬉しかったのだ。

「私も体を鍛えてるんだよー宮の中だと身体が萎えちゃうから」思わずワタクシの言葉で言ってしまう。

「私は……、あの、ナシメ様からは何も伺っていないのですか?」

「え? うんー。テルセは端女だとしか聴いてないけど」

「……はああああああ! もう行かなくては! 少しでも遅くなれば姉さま方から何を言われるか! トヨ様……あの!」

「また次の時で良いよ、お話は。今日のこと、誰にも言いませんから心を安らげて下さいね」

「あああああ……ありがとうございます」

そう言ってテルセは慌てて降りて行ったが、種火の土器を忘れているうえに、八つ目のともしびに火を点けるのも忘れている。私が他のともしびから種火の土器に火を点けなおしたところで、テルセは帰って来た。二人で八つ目に火を灯す。テルセは畏まっていたけれど、少しだけ彼の女と仲良くなれたような、なんというか、久しぶりの、懐かしい心地になった。

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