第5話 揺り返し
アキマから習った文字は五百ほどになった。形が似ていて、間違えてしまう文字がある。《眼》と《眠》とか似すぎ! どーなってんのよ! ……こういう文字は、むしろ覚えるのに良い。似ているものほど、違いが際立つ。併せて覚えてしまえばいい。
暑い夏の夜に、ナシメがやってきた。このころ雨が無い。
「トヨ様、雨乞いを行なう日取りを決めなくてはなりません。お占いいただけますか?」
「かしこまりました。占います」
いつもの、難しくない占いだ。相応しい日は決まっているし、そうなるように鹿骨を火に
片膝を立てて、述べ始める。鹿骨を翳す。しばらくすれば、いつも通りの割れが生まれるだろう。その間、雨乞いの日取りを決めるためのまじないの言葉を口に出す。
鹿骨を炙る炎に誘われて、蛾がやってきた。大きな
だがこの時、私は――――
――――《蛾》
アキマに習った《蛾》という文字のその形が、頭のなかに膨れ上がる。これはカラクニの音で《ガ》というのだ。この音もまた、頭のなかで響き渡る。《蛾》! 《蛾》! 《蛾》! 《蛾》! ガ! ガ! ガ! ガ! ガ! ガ! ガ! ガ! ガ! ガ!!!!
次に頭に浮かびあがって来たのが、蛾の姿だ。世のなか、色々な形の蛾がいるもので、大きいのから小さいのから、白いのやら茶色のやら紫のやら。子供のころから見てきたし、この
まじないの言葉が滞っていることに気がついた。初めて私のまじないの言葉が、その連なりが、……断たれた。だからわからなかった。どこから再びはじめていいのか解らなかった。いつも連なっていたものだからだ。
ナシメが聴いている。慌てて、はっきり述べたと覚えているところから始めた。これで正しいのか全く分からない。連なりが断たれることなど今までなかったし、断たれるものと考えたことすらなかった。こめかみのあたりに髪が触れた。汗でこめかみに髪がくっついたのだろう。脇の下からも汗を感じる。手が震えているし、声も上ずっている。断たれた言葉を取り戻すことはできない。過ぎた時を戻すことはできない。鹿骨の当て方だけは、間違わないようにしなくてはならない。
ナシメはまじないの言葉の細かいところまでは知らない。気にするほどではないのだろう。しかし例えば、大婆たちならば、きっとおかしいと心づいただろう。幸いに鹿骨は相応しい形に割れた。
「……出ました。いつもの通り、次の半月の日の真昼に行ないなさい。それまでにまとまった雨があれば、取り止めなさい」
「畏まりました」
ナシメが去るまでも、そして去ってからも、間違いを犯したことが
その夜は眠れなかった。何度も《女たち》の声に耳を傾けた。《女たち》の声は何も考えずとも頭に流れるものだったが、この日は初めて私からそれを求めた。この日ほど自らに求めたことはなかった。
知らない間に寝て、声とともに夢を見て朝起きて、少し落ち着いた。
篭められた宮では時はたくさんある。陽の入る窓を見る。ひとたび窓から眼を離す。ある物語を諳んじる。語りながら窓を見る。そして窓の文字を頭に浮かべる。
――――《窓》 ――――《ソウ》
文字の形が頭に浮かび、やはり物語を圧しのけようとする。だが、昨日とは違った。しかと心を持っていたから、物語は断たれなかった。物語が落ち着くところまで諳んじて、心を安がる。つまり、必ず物語は断たれるわけではないのだ。あの時は、まず知らなかった。初めてだったから切れた。あらかじめこうなることに備えていれば良いのだろう。
そして、言葉によりけり、と感じる。《蛾》は強すぎるのだ。音も強いし、蛾はたくさんの姿や形がある。いきなり飛んできて驚くこともある。《蛾》は頭の中を占めやすい。
文字は一つ一つ言葉を切り取る。切り取って、一つの形にする。文字は面白いけれど、良くも悪しくも、この世のあらゆるものを切り出すことができるのだ。文字は危うさも持っている。私が任せられた巫女の役割を突き崩すような危うさを持っている。
風邪をひいて治ったばかりのような心地がする。疲れた。
文字を用いるカラクニの人は、疲れないんだろうか。
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