第20話『漆黒の魔獣 6』

 骨は大きく大きく息を吸い込んだ。

 蒼空を望む街道沿いの丘の上。明け方の乾いた涼風が肺に満ちていく。焦げた人間の臭いはまったく気にならなかった。


イザナ、カブロ、クシヌきたりてつどえ


 両腕を大きく広げ、天を抱くように瞑目する。


イザナ、カブロ、クシヌきたりてつどえ


 もういちどゆっくり呟きながら首を回す。固まった筋肉がごきごきと鳴る。鈍りきった体に、しかし活力と柔軟性が戻ってくる。


イザナ、カブロ、クシヌきたりてつどえ


 彼の背後に井桁に組まれた無数の手足。その中央には若い女性の首。油をかけて燃やされた痕跡と、臭い。

 その形跡が、五つ。五人を殺害し、燃やした。その命を吸い取っているようで、骨の四肢には力が漲ってくる。

 あとはいい感じに焼けた肉を頂けば、儀式は完了だった。


イザナ、カブロ、クシヌきたりてつどえ


 他者の命を取り込む祈りを込めた文言を唱えながら、目をゆっくりと開ける。清々しい気分だった。郷の奥にいたときとは違う開放感に満ちている。素晴らしい心地だった。


「相変わらずの健啖ぶりだな。息子よ、胴体は喰わんのか」


 骨に声をかけるのは、虫。彼の父親だ。多関節をコキコキと鳴らし曲げながら、手つかずで放置された五つの胴体を綺麗に木の幹に立てかけている。


「全員、女じゃないか。男は? 子供は? 年増も欲しいところだ。喰わず嫌いはいかんのだがな」

「子供は喰わん。親父、子供は喰わんが、子供を殺す」

「首は斬るのか?」

「斬らん。命だけ奪う」

「じゃあ、くれるのか?」


 そこで初めて骨は振り返る。

 胴体を綺麗に立てかけた父親が嬉しそうに目を細めているのを見ると、彼も楽しくなってくる。


「やるよ。だけど、別行動だ」

「子供は貴重だぞ。あまり要らん子を殺せば導師のお叱りを受ける」

「だが、別個の行動も導師の指示だ」

「そうなのだ。そうなのだ」


 残念そうな父の顔に、井桁に組んだ女の手を拾い上げて差し出す。

 よく焼けた異臭がふたりの鼻腔をくすぐる。


「喰うかい? 親父」

「なぜ焼くのか分からん。焼いてしまったら崩れやすくなるだろう。焦げてしまったらぽろぽろ落ちる」

「要らんか」

「好き嫌いはいかん。子供に嫌われるからな」

「親父はできた大人だからな」


 腕を受け取る父に、骨はにこりと笑う。焼けた腕の皮膚が貼り付いた指を舐める。美味かった。

 胡座を組み座りながら、骨は虫と向かい合って腕を分け合って口を付ける。食欲を満たすときは落ち着いて――それが家訓だった。


「やはり焼けてる肉は腹に重い。……なあ、あの胴体は捨てるのか? まだ焼いてないのだろう」

「胴体は埋める。女の胴体には違う神が宿る。この世に無防備に残していたら、奏者を邪魔する神がこの世に現われる。だろう? 親父」

「喰っちまえばいいだろう」

「喰いきれない。そして、美味くない。神を宿す部分は念入りに焼かねば。喰わぬのに焼くのは例に失する。さりとて、なあ、親父」

「地に還すのがもったいなくないか。まあいい、礼には適っている」


 前腕の尺骨をペロリとなめると、綺麗な骨を息子に返す。手首から先はまだ焦げた肉がついたままだ。


「あいつと息子はシャール国境に向かった」

「ワタリに察知されるのはマズいぞ? 表だって殺したりしたら導師のお叱りを受けてしまう」

「大丈夫だ。まだあいつらは捕捉されていない。大丈夫だ」

「そうか。……じゃあ、私も行くか」


 手を合わせ立ち上がる虫を、咀嚼中の骨が見上げる。


「もういいのかい?」

「朝はこのくらいにしておこう。昼には南七番で芋でも喰うさ」

「じゃあ、俺は――」


 骨も立ち上がる。

 上腕部分は放り捨てる。


「胴体を埋めたら南六番に向かうよ」

「早いな。私より早い。じゃあ私は二番手か。子供は殺すのか?」

「子供は殺す」

「首は斬るのか? ――……ああ、斬らないんだったな。それはいい。子供の体は持ってきてくれるのか?」

「それは無理だ。どのみち、腐敗する。塩漬けにするか燻製にするか。手間だ、どちらにせよ」

「手間なら仕方がない」

「手間だ、仕方がない」


 仕方がないか、と虫はすらりと背を伸ばす。多関節が真っ直ぐ伸びると、身の丈は骨の五割増しはある。


「道すがら、なんとかするか」


 それだけを言うと、虫は体を丸める。多関節の総てが折りたたまれ、筋肉は撓み畳まれる。ほんの毬のような大きさにまで力を溜めるや、弾けるように跳躍。丘の向こうへと消えていく。

 まるで虫だった。

 ゆえに虫だった。


「さて、埋めねばなるまい」


 たいして気にも留めず、骨は胴体を埋める穴を掘り始める。素手だった。そして骨の腕は瞬く間に大きな穴を掘り明ける。素手による作業としては恐ろしいほどの手際だった。硬い土も、容易に貫返して掬い上げる。骨のような細腕は、まるで錐であり鍬鋤の類いのようだった。


「命を吸う存在か」


 人を焼いて喰らうのも、命を吸うためだった。食事というものは魔の所業に直結する行いだった。彼の父が命を加工せずに喰らうのは、よりよく命を吸うために研鑽した方法だった。

 命を吸うようになれば、奏者の走狗として成り果てることができる。奏者の一派として立脚点を得ることができるからだ。

 かつてのカヴァン=ウィルがそうだったように、魔女セイリスがそうだったように、きっかけさえ掴めば人は外れることができる。


イザナ、カブロ、クシヌきたりてつどえ


 浸着装甲の騎士も唱えるその言葉に祈りを託し、穴の底に女の胴体をうつ伏せに並べ置きながら、幾度となく唱える。


イザナ、カブロ、クシヌきたりてつどえ


 この朽ち往く女たちの胴体と共に、自らも埋まり朽ちるなら、もしかしたら新しい自分に生まれ変われるかもしれない。そんな妄想も、二度三度では済まないほど繰り返している。

 彼は、魔に生まれ直したいと切望していた。

 故に外れた。郷において父親と共に命を喰らう術を研鑽し、追いやられた。導師の促しがあったからこそ外れ、奏者の奇跡を目の当たりにして人理を踏み抜こうと決意し、転んだ。

 しかし未だに父は成りきれず、自分もまた成りきれず、妻も息子も未だ人間の範疇を彷徨う単なる外道のままだった。


イザナ、カブロ、クシヌきたりてつどえ


 埋め尽くし、彼は祈るように跪いた。

 命を、悪魔を宿すための『目覚め』。のではなくのかもしれない。だとすれば、導師が促す外れる先の何かとはなんなのだろうか。

 吸う命の質、ではないだろうか。価値ではないだろうか。今までは郷の者しか吸えなかった。しかし、自由となった今、思うさま外の女を吸った。だからこそ気がつき始めたのだ。


「タリム=ハウト。あの血筋の者を喰らえば、はたして――?」


 導師は「答えはもう見えている」といっていた。さらに「外れし外道も、外れきれねば単なる人よ。魔人となるには、いま一歩」と笑っていた。その道筋を教えぬのは修行だからではない。その道筋は個々人の中にしか正解がないからだ。

 意識して外れねば、虚空の魔に踏み込めない。

 苛立ちはなかったが、そこはかとない不安があった。


イザナ、カブロ、クシヌきたりてつどえ


 いまいちど締めに呟き彼は立ち上がる。

 南六番、水平石みずひらいしの街を眼下に、彼は「さて」と歩き出す。

 四肢を鳴らし、関節を鳴らし、筋肉を鳴らし、皮を鳴らした。するとどうだろう。彼の姿は頭ひとつ低くなり、体格はふたまわり逞しくなる。変身の術だった。顔もいくぶん柔和でふくよかさを増したものになり、死体のひとつから剥いだ毛髪を加工して作ったカツラを被ると、別人となりはてる。


イザナ、カブロ、クシヌきたりてつどえ


 新たに呟く祈りの声は、やや高い。声も変えている。

 旅の商人風の男――されど頭髪は女の死体から奪ったもの。

 骨はその新しい偽りの仮面が馴染むよう、もういちど呟く。


イザナ、カブロ、クシヌきたりてつどえ


 新しい命を吸うために、彼は向かう。

 落葉の剣士と、若き密使が待つその街に。

 豪猪父子と夕闇、そしてあの狐白が待つ水平石の街へ。


「我ら漆黒の魔獣。死するか、死して生まれ直せるか。ここが正念場だぞ、親父――」

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