第16話『漆黒の魔獣 2』
また出直しとなったか。
馬を飛ばしながら大公は覆面の下で大きく息をつく。急いては事をし損じると肝に銘じ、出世すること実に三十有余年。引退間近という歳になっての謀略ゆえに、焦りが出たかとひとりごちる。
「どう、どう」
そのとき、馬の挙動にためらいが走ったので、大公は手綱を引いて馬を止めると夜闇の先にいる暗灰色のぼろをまとった男――らしき影に気が付く。この男の気に中てられ、馬は前足上げて前進を拒んだと見えた。
「退け、下郎。よもや組合の女狐の手下ではあるまいな」
「あの魔女の手下とみられるのは、ちと業腹よな」
馬上から見据えると、ぼろの男のしゃがれた声が嗤いの色を帯びる。
導師、カヴァン=ウィルであった。
彼は遠き先の火の手を伺いながら、「漆傑衆も悉く斬られたか」と肩をすくめる。このような落胆をあからさまにするのも珍しい。
手下の失敗を口にする導師に、大公は腰の剣に手を掛けると鋭く「貴様何者だ」と口角泡を飛ばす。
「此度は手を出さぬと決めていたが、不甲斐なさに気が変わった。ヴェリル公、民の里へと鳥を飛ばし、魔獣衆を討手に向かわせるがよい。そのくらいならば、揺れはせんだろう」
「貴様」
名を明かされた大公は、しかし白刃を抜き放つことができなかった。白骨が癒えぬままの導師の右手がかすかに振られるや、馬ともどもぼうっと立ち尽くし目が虚ろとなる。
「天秤を揺らさず、か。――ヴェリル公、魔獣衆を討手に向かわせよ。導師の赦しが出た故、全力を尽くせとな」
「承知」
ヴェリル公は頷いた。
そしてまず、馬がひざを折るようにゆっくりと倒れる。ついで大公も落馬するが、馬の体ともども導師の魔力により優しく横たえられる。
「狐白が出てきたか。……しかし、
骨の浮く右手が握りしめられる。
「邪魔だな」
あの剣士の姿を思い浮かべ、導師は呟く。
言葉の端が闇夜に溶け消えるころにはその姿はなく、そのすぐ後に騒ぎに駆け付けた衛士によって大公が発見されることになるのだが、この状況には首をひねるばかりであったという。
***
「衛士に聞いたのは、そのあたりの情報まで」
夕闇がベッドに腰掛け、手酌で酒を飲みながらそう報告する。
もうひとつのベッドには豪猪の息子、ハルトが手当てを受けて横になっている。そのそばの狐白が少年の額から手を離しながら、「ヴェリル公で間違いはなさそうだ」と頷く。
「ヴェリル公、というのか」
豪猪が言いよどむ大公の名であろうとクライフは腹に落とす。
「しかしどうでもいいのですが、なぜふたりともここに? 宿の女将がふたり部屋に六人ということもありだいぶ訝しんでましたが」
「少し袖の下を持たせた」と、これは狐白。
タリムのベッドにはハルトが寝て、狐白が座っている。
クライフのベッドには、夕闇がひとりで座り酒を呷っている。
残りの男連中はというと、殿下であるタリムが椅子に、卓を挟んでもうひとつの椅子にはクライフ。床には「私はここで充分」と頑として譲らなかった豪猪があぐらをかいている。
「目を覚ました大公は、すぐさま鳥を飛ばした様子。この夜によ? よほどの用事なのね」
夜も飛ぶ鳥は割増料金となるが、夕闇は片手をあげて苦笑交じりに言うものの、その内容は討手の手配であることは明らかだろうと踏んでいる。
他の面々も、そうであろうと思案する。
「そうか、漆傑衆――」
もう一度つぶやく豪猪に、狐白が「ほほう」と興味をひかれる。
「ヴェリル公の生まれは南。おそらくそこの里に鳥を向かわせたのだろう。追っ手は――討手はおそらくなりそこないか」
「なりそこない?」と、クライフは聞き返す。漆傑衆に成れなかった者という意味合いかと思ったのだが、狐白はフフと目を細める。
「導師らが撒いた種は、どこにでもある」
タリムと豪猪は聞きなれぬ『導師』なる言葉に首を傾げるが、クライフは車輪の一派、いまだ残る悔恨に眉を寄せる。
「奏者の導師は種を撒く。
奏者を導き入れる。
その言葉に、タリムも豪猪も、うなじが逆立つ思いを感じた。クライフは眦を引き締め、「この世に、といいましたか」と問い返す。返事は薄ら笑いだった。
狐白は「種を撒く者こそ、わが不肖の娘も担うようになったが――」といっしゅん夕闇を一瞥し反応を伺いながら「導師自身もまた対抗勢力が発生しないよう注意深く仕込んで歩いている」と、こんどはクフと声を漏らして笑う。
「魔を生む北の火龍国、魔の澱む東国、そして魔が行き着くシャール――」
豪猪がクライフに伝えたたとえをもう一度口に出す。狐白は「そのとおり」と首肯する。
「一派の……いやもはやただの豪猪よ、この
「世に、そのような輩がいるとは思うておったが、よもや真実、この世を覆う魔獣魔物の類はもしやその導師なる者の企みによるもの――」
豪猪の拳が握りしめられる。
「魔獣魔物の類、か。いやいや、あの手のモノは、もともとこの世のものであったろうよ。どの世界にも、人類の敵は発生するものよ。導師はそれを利用しているにすぎぬ」
「待て待て、ちょっと待ってくれ」
そこで音を上げたのがタリムであった。
「何の話をしておるのだ。私にはさっぱりだぞ」
「バードルの北を魔獣がかすめるようになったのも、導師の仕業とみて間違いはあるまい。火龍国の導線を南に少し変えたと見える」
「なんだと?」
タリムが呻く。
「じゃあなんだ、バードルはその導師の謀略のとばっちりを受けておるのか」
「世界そのものがだ。ふむ、小僧にはまだ把握しきれぬ話ではあろうな」
「小僧扱いするな」
ともあれ、と狐白はタリムに人差し指立てて笑う。
「クフ。霊廟に眠るモノを狙い、その聖域を破壊するのが目的だろう。さて、どれほどもつかな? ふふ」
「なにを言うておる。組合ともなればバードルの平和を思う気持ちもあろう。貴殿ほどの魔女が暢気に傍観を決め込んでおるのはなぜだ」
「争いが起これば儲け話が湧くのがこの道よ。滅びに瀕してゆくなら手を貸すが、あくまでわが一族の安寧が第一。それが私の行動原理。先代女王が死したときに、そう決めたのだ。国がどうなろうと、知らぬよ」
「なんだと」
怒気をはらんだ声をあげそうになったタリムを、クライフは手で制する。その重みのある動きにタリムは文句を飲み込むと、「ではどうするのだ」と剣士に代案を求める。
「私が知る情報をここで開示するわけにはまいりません。ことは、シャールが姫殿下、エレア=ラ・シャールの命運にもかかわること故」
言い淀みに聞こえるが、しかしクライフは続ける。
「それゆえ、まずはバードルとシャールは深く手を取らねばならぬでしょう。その手始めが、今回の旅路。足元を見てしっかりと進みましょう、殿下。その先にこそ、道が拓くものと思います」
「クフフ、さすが落葉の剣士よな」
嬉しそうに狐白が嗤うが、クライフはその笑みに己が師匠と同じ色を見て取り肩をすくめる。
そこに「夕闇よ」と豪猪が女傑に問いかけると、彼女は「さて」と肩をすくめて見せる。自分から言うことは何もないということだろう。種を撒くもの、魔女、かのセイリスは夕闇の姉であり、狐白の娘というのに――である。
「クライフどの」
豪猪は熟考したのだろう。
まずはとばかりに申し出る。
「大公は討手を放つ。おそらくは、殿下と私を斬るためだ。お主と、ハルトもだろう。ゆえに、力を貸してもらいたい」
「と、なると?」
「殿下、私たち親子をどうぞ側近共連れとしてシャールへ亡命させていただきたい」
これにはタリムがひざを打った。
「なるほど、妙案。常なればそのような力は私にはないが、いまはほれ――」
と、国璽を納めた胸元をポンとたたく。
「亡命と申すな。歴とした隠密として共を許そう」
「ご厚意忝い」
豪猪は居住まいを正し、深く頭を下げる。
「つまり、力を合わせて大公からの討手を――導師の息のかかっているであろう者らを倒し、シャールへと行く。それでよろしいか」
「クライフどのがよしとするならば、是非に」
「決まりですね」
剣士らは頷き合う。
「私は動けぬからな。代わりに夕闇をつけましょう」
「あなた本気!?」
「母に対してなんですかその物言いは」
あくまでしれっと狐白は続ける。その決定自体に文句は在れども、拒否する気は夕闇にもなさそうだった。
「タリム=ハウトが通商の条約を締結するお目付け役。ことが落ち着くまで、一緒にいるといい。……好きに使ってやってほしい」
「好きに? またいいかげんな。よいのか夕闇とやら」
「よくはない。が――」
ふむと彼女は酒を一口呷り、頷く。
まあ、潮時かもしれぬと続ける。
「が――悪くはない。少し暴れ足りぬと思ってたところ、ついて行けば退屈はしないでしょうよ」
「クフ。決まりだな」
「いきなり大所帯になったな。しかし、好きに使え、か」
クライフは苦笑する。
自分も師からそういわれエレアに託されたことを思い出さずにはいられなかった。
「あとのことは獅子王子の元に行き、皆で話すがよい。そこで詳らかにされる事実も多かろう。の、落葉の」
「さて」
とぼける剣士だが、未だ眠るハルトをちらりと伺う。
「息子と殿下は私が守ろう」
即座にその意を汲み、豪猪が己が剣の柄をポンとたたく。
「殿下は夕闇、あなたも守るのよ」
「わかったわ。仕事だもの、ね」
クライフはひとつため息をつく。
討手のこともある。馬は使えぬとなれば、道行は至難のものだろう。
あとひとつ。
「さて、とりあえず今夜はどう寝たものか」
男連中は揃って「うむう」と唸るのみであった。
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