第四章 やがて立ち上がる君へ 【熱き国バードル編】

幕間 その首と国璽

 バードル王国は、シャールの北西に広がる山岳の国だった。国土は広く炭鉱と農業で栄える豊かな国だが、住める平野がかぎられているため、蜘蛛の巣状に巡る街道にたまる朝露のように大小の街町が点在するような造りをしている。

 山が多く緑に支えられ水に恵まれた国ではあるが、それでも平野部は乾燥する時期も長く、気温もやや高い。砂の国とも呼ばれるゆえんだった。

 そんなバードル中央にほど近い山間の小さな町にタリム=ハウトが訪れたのは、出立の準備を整えた翌々日の宵だった。

 旅慣れた若者の装いのまま、神殿と覚しき社の下で馬を降りると、共連れの老爺に手綱を預けて、襟元と髪を整える。


「灯りを」


 タリムの催促に、老爺ゴードンはランプに火を灯し、それを差し出す。中の油は充分に入っているので、この石段の先、本殿までの往復には充分足りるだろう。


「夜道、お気を付けください」

「わかっている。こんな日だ、獣も寝ているだろう」

「この先は一族の者のみが立ち入ることの許された神域、この私がそばについて行けぬのが恨めしいですわぃ」

「神が御座すのならば、兄は死ななかっただろうかな。……よい。母の祖先に出立の挨拶をするだけだ。北の霊廟があの様子だから、こちらの社に挨拶してくるだけだ」


 見上げる石段のそばには、ふた抱えはある石柱が背の高さほど。彫られた文字は、古い霊廟――小さい神殿を兼ねた墓地を顕していた。

 タリムの母は北の霊廟に眠っている。魔獣が落ち着けば、兄もそこに弔われるだろう。この神殿は、母方の一族が眠る場所だった。


「誰も見ておらんし、爺も来ればよかろう。祖父母も大叔父も喜ぶだろう」

「そうは参りませぬ」


 難く固辞するゴードン。

 神殿の手入れは一族の者が行ってはいないが、それでも認められた神職が様式に則って行っている。若いタリムはともかく、年を経た彼には不躾にこれを破ることは憚りが強く感じられるのは仕方がないことだった。


「では行ってくる。本殿の読経で……そうだね、四半刻は待っていてくれ」

「若ッ」


 四半刻は儀礼に則れば短すぎる。端折ろうと考えているなと思い、ゴードンは「やはりお目付役は必要か」と考えたときだった。

 やはり、タリムは不安げに笑っていたのだ。

 ゴードンは、はたと自分の腰を叩き息を吐く。


「爺は、ここで月でも眺めてお待ちしております。時間は、忘れるでしょう」


 馬を留め、腰掛石に腰を下ろす。

 そんな老爺にタリムはひとつ咳払い。


「夜道が怖いのではないからな」

「わかっております」


 重責。

 いま、老爺に背を向け石段を登りゆく彼の懐には、控えの国璽が収められているのだ。

 その意味を、改めて思い出す。

 彼は、タリム=ハウトは密使として、単身シャールへと赴かねばならない。和平への使者として。

 そして、その旅について行ける者は、ゴードンではない。

 どこの馬の骨とも知れぬ、流れの傭兵と聞く。

 しかも、独りのみ。

 シャールからの伝手は侯爵に、銀で作られた一葉の『落ち葉』をもたらした。以前は、赤銅の獅子だった。なぜ落ち葉。獅子に見劣る符丁だった。なぜだと、ゴードンは首をかしげたものだ。

 大事な若者の命を預けられる者だろうか。

 相手は同じ物を持っているはずだった。

 それはいま、タリムの懐に国璽と共にある。


「ここも、久しぶりだな」


 独り言が増えるのは、不安の表れだと彼は苦笑する。

 ランプのか細い灯りに浮かび上がる木造の社だった。緑青のふいた銅の屋根の重みが全体を支え落としている。ここは拝殿と呼ばれる建物であると彼は思い出す。神の前に直接出るのは憚られるため、詣でるために設けられた施設だ。ここはまだ人間の領域。少し脇に入ると、神職たちの施設がある。その先は、墓地だ。

 そしてこの先にまだ続く石段の先に、神域と呼ばれる本殿がある。

 彼は一礼し、先へと進む。

 彼が挨拶をする本殿までは、細い階段を上りに上る。

 たどり着いた先は、本殿というには小さい、本当に小さい社だった。


「……失礼仕ります」


 一礼し、設えられた篝火にランプから火を移す。焚き付けの樹脂に燃え移った火が辺りを照らす。繰り返すこと三度。

 四方に灯した火が辺りを明るく照らしはじめると、綺麗な石畳の白さが浮かび立つ。南に面した社の扉は固く閉じられているが、その手前の低い場所に香を焚く炉が設けられている。そこに火を移した香を置き、その煙と香りを確認するとランプを置き、姿勢を正して手を合わせ、瞑目する。

 静かな夜だった。

 物音ひとつ聞こえぬ中、タリムの息づかいのみが彼の耳に。

 そのときだ。


「タリム=ハウト殿下か」


 敷き詰められた砂利が踏みしめられ、ひとりの男が現われた。背の高い初老の男で、腰の据わった動きと携えた剣から達者の雰囲気が見て取れた。――暗殺のためだろうか、顔は闇色の頭巾で隠している。


「何者か」

「お命頂戴いたす」


 問うタリムに男はそう告げると剣を抜く。

 子供相手とはいえ、その構えに隙はなかった。

 タリムは息をのむ。静かな夜とはいえ、声を張り上げても、山林により下の爺には届かぬだろう。


「姿を見せ、問うて、殺す。バードルの流儀。おぬしら、兄を殺した者たちとは違うな。どこの手の者だ」


 しかし、問うても答が返るわけではないとタリムも知っている。


「その男は一派の者でしょう。そしてあなたはタリム殿下? ……御免なさい、両人とも、私がお命頂戴致します」


 しかし、タリムの背後から声が。

 現われたのは、恐らく女。手には短刀というにはやや重ねの厚い剛刀を携えている。暗殺者の嗜みである頭巾の襟から背までの髪が揺れているのが伺えるが、その色も頭巾同様漆黒。


「狙いは、国璽か」


 タリムの問いに、女は答えなかった。

 男は女に牽制され、女は男の気迫に押されている。


「組合に雇われた者か」


 男は呟いた。

 タリムは『一派』と『組合』という単語を脳裏に、香炉へと背を預けるように後退する。彼と男女、等間隔の三角が形作られた。


「命と国璽は我らが頂く。……見た者は、総て殺す」

「国璽はどうでもいいけれど、殿下の首は頂くわ。あなたからは命だけ奪いますけれど」


 男と女が、あるいは腹を決め、あるいはほくそ笑む。

 無音の中、香の香り、立ち上る煙が広がる。それを乱すことなく、男女は闘争の気配を漲らせる。タリムは自分の命が狙われていることをはっきりと意識した。これほどの手練れを相手に、自分なぞは相手もならないだろう。

 彼らは、相手を倒した後にゆっくりと――いや、速やかに自分を殺すだろう。それは確信だった。彼自身がこの場を乱しても、即座に死ぬ。殺される。国璽を放り投げても、殺された後に探される。ただただ逃げても、追いつかれるだろう。ひとりふたりとは限らないのだ。


「こんなところで終わるのか」


 声に出せぬ、押し殺した呻きだった。ゴードンは、四半刻は待つだろう。遅くなったら、タリムが熱心に経文を唱えてると思うだろう。あの老爺が不審に思うのは、もっと後の話だろう。そのときには、もう彼は死んでいるのだと、彼自身思う。


「一派の犬、その長剣、構え、東の豪猪ヤマアラシね」

「組合の女狐、その剛刀、身の熟し、夕闇ユウヤミか」


 互いの名を問い、お互いが認め合う。

 殺人の流儀、バードル流。

 間合いが詰まればどちらかが死に、残った方がタリムを殺すだろう。

 三角の中心に気迫が満ち、熟練の男女が重心を落として剣の切っ先を必殺に構える。息をすることもできない緊張の中だった。


「――」

「――」


 あり得ないことが起きた。

 突然、命を奪い合う闘争の気配に満ちていた男女が、突然お互いに隙を見せるような形でタリムに背を向ける。息をのむ暗殺者たちのその気配に、タリムも彼らが油断なく身構え目を向けるそこへと顔を向ける。


 ――ザッ……。


 足音。

 いや。

 そして、鎧の音。

 誰かが、石段を登ってくる。神職が? いやちがう。この音は、足音は、気配は、武具を纏う者の物だ。そして離れた場所からも叩きつけられる、必殺の気配。

 息を抑え迫り来る気迫それ

 手練れをふたり闘争を忘れさせるほどおのれに注意を引きつけるほどの剣気それ


「――タリム=ハウト殿下でしょうか」


 まず現われたのは、月光に揺れる金の髪。そして意志の強そうな引き締められた眉と、切れ長の目。真一文字の口は今し方投げかけた問いの答を知っている様子だった。

 闇夜に浮かぶ黒き鎧。

 鋼のような印象の、若い剣士。

 その腰には一振りの剣。


「貴様」

「何者」


 暗殺者が、各々、問う。この男は石段を滑るように登ってきた。武器を抜いてはいないが、一挙同で間合いを詰めるほどの猛者であろう。負けるとは思えぬが、そこで彼らは思い出した。「ああ、殺す相手はこれで三人になったのだな」と。

 しかし石段を登り終え現われた剣士は、暗殺者の二人を間合いに入れたまま、しかし彼らを見ていないような面持ちのまま、タリムをじっと見つめている。

 タリムは、微かに頷いた。

 それを確認し、剣士はゆっくりと息を吐き脱力する。

 脱力とは、彼にとっては闘争に備えたことを意味する。


「クライフ――クライフ=バンディエール」


 彼は名乗り、やや左胸を前に向ける。

 鎧のその胸には、月の銀に光る落ち葉。


「お相手仕る」


 鞘に左手、柔らかく開かれた右掌をだらりと臍の前。

 暗殺者たちは悟った。

 まずこの者を殺さねばなるまいと。

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