第三章最終話『輪唱の記憶 4』
予感はあった。
クライフは馬から下りると、川沿いに踏み固められた道らしきものの先へと目を向ける。赤獅子の陣に近い支配区域なので足下こそ荒れてこそいないが、人の手が入っているとは言いがたい草地。見渡しのよい場所に、はじめは物見の櫓が建てられたと覚しき盛り土の跡。すでに草木が生い茂るそのそばの倒木に、ひとりの少女が腰掛けている。
「初めましてというべきだろうな」
馬を連れたクライフがそう声をかけると、少女――レーアは立ち上がる。あのときの姿のまま、あのときと同じ表情で、しかしあのときとは違い両腰には赤黒い柄の短刀を差している。
「レーアで、いいのか?」
クライフは落葉の鍔元をくいと体の中心に携えながら、馬をその場にとどめつつ、距離を詰める。お互いがまだ安全であろうと思える距離で立ち止まると、レーアの方から動く。
「レーアでいいわよ」
倒木の影から左手で何かをひょいと掴むと、脇に放り投げるように転がす。見覚えのあるものだ。
「ディーウェス夫人か」
「指示通りに
夫人の生首は肉を鋭利に、骨は砕かれたような疵を見せ地を虚ろに睨んでいた。
クライフの視線はレーアから外されない。
「歌っていたのは、君か」
「さっきは聞こえるように。前は、聞こえないように。近衛のひとり、耳のシズカにも聞こえない。歌は情報、命令、力在る言葉であり命」
「命といったな」
クライフは、すっと力を抜く。
彼が脱力するということは、闘争への備えだ。
「相国谷で歌い、三傭兵のひとりの命を奪ったな」
「ええ」
「墜落死と、港の頓死は君の仕業か」
「ええ」
「浸着装甲の騎士の監視は、魔女も用いた歌を使い無力化したな」
「ええ」
イシュタリスも、ガランでのアリッサ同様に意識を奪われたのだろう。どこをどう組み替えられたか、『レーアは監視の目から逃れていない』という偽の情報まで植え付けられていたのだろう。
「浸着装甲は君たちの敵だ。イシュタリスは殺したのか?」
「いいえ」
これには首を振る。
「あまり均衡を崩すと、導師に怒られちゃうからね」
「やはり楽団の一派、車輪の一党は『奏者』の手先か」
「それは当たりじゃない。あくまでも、わたしが導師の仲間というだけ。奏者の教義には興味があって、協力しているの」
やや、クライフは間合いを詰めた。
その一線は明らかにまだ彼の武器では遠い間合いだが、落葉より短い武器を持つレーアの間合いに入るギリギリの間合いだということが、レーア本人には分かっていた。
この男、やはりできる。
レーアは上機嫌になった。
「でもね、落葉の剣士。聞きたいのはそれじゃないのでしょう? 答えてあげる。そのために来たようなものだし。でしょう? でしょう?」
「レーアはどこにいる」
「――」
一番嬉しそうな顔だった。
クライフが見た限り、このような眩しい笑顔をした彼女は初めて見た。
よくぞ聞いてくれたという表情へと変わると、剣士は「ああ、そうなのだな」と真一文字に口を引き締める。それを見て更に、レーアの表情は喜悦へと移行する。
「ここにいるわ」
彼女が自分を抱くように胸元を示す。
「あなたは、暗殺者の人格を植え付けるのと、何もできないただの人間の人格を植え付けるのと、どちらが楽だか分かるかしら」
「そうか」
主従が逆だった。
あくまでも彼女らは、人を殺す生粋の職業人の集まりだった。それを隠すための人格を植え付け、歌を以て切り替える。
「歌は、情報か」
「ええ」
クライフは「難しいことは分からんが」と前置きし、「俺が追うべきはただの人間に暗殺者の人格を植え付ける技術と言うことなんだろうな」と、ディーウェスの生首を一瞥しながら呟く。
「何を馬鹿なことをいってるの? 何もできない人格を植え付けるのが楽だといってるのよ? のよ?」
「違うさ」
そこできっぱりと否定するクライフに、レーアがすっと、目を細める。
「何もない人格にならば、受け継がれてきた
「――」
「考えていた。なぜ、楽団の一派は子供を使うのか。拙い者が確かな仕事をこなせるのか。なぜ、虎口丘で見た者たちがなかなか堂に入った言葉を使うのか。……『何者にもなれずに死んでゆけ』、その言葉の意味を」
クライフが、つま先ひとつ踏み込む。クライフの首が彼女の間合いに入る。誘いだった。だがレーアは仕掛けない。彼女の方が聞きたくなったからだ。
「その意味、とは?」
「お前たちの一生は情報、つまりは腕前、術と技、そして歴史の蓄積と継承にあるからだ。何者かではなく、ただの情報になること。それを集め磨き抜く道具となること。歌は情報といったな? それは、歌で植え付け、なおかつ、複製を作ることもできる秘術が支える記憶と経験の継承。それが車輪の財産だ」
「そのことを誰かに話した? 輪唱の秘技のことを。話した?」
「さて」
クライフはとぼけた。
「どちらにせよこの一連の流れ、車輪の活動に区切りをつけるために始めたんだろう」
「始めた、とは」
「俺の所に、ディーウェス夫人とやらに自らを追わせる形で駆け込んできたことだ」
「ふふ。ふふ」
嬉しそうだが、そこはかとない殺意を感じる嗤いだった。
レーアは「そこまで察したとは、さすがは落葉の継承者」と頷き、ひとつ息を吐くと「ではどうする?」と訪ね返す。
「約束だからな」
「約束?」
「ああ」
クライフは一歩、互いが踏み込めば攻撃を仕掛けられる一足一刀の間合いに踏み込んだ。緊迫。察した馬は、川辺へと下がるほどだ。
「レーア、君は俺が斬る」
「ほう。ほう?」
「聞こえているんだろう? あのレーアにも」
「聞かせている。意識の共有はできている。……あのエレアだけは厄介だったから、ガランを出る際、あの地下で意識を切り替え、それ以来、本来の私のままだ。演技にならないように心を共有し、体は私が。なかなかのものだろう? だろう? ふふ、これ以上は教えないし、聞かない。最後にひとつだけ言おうし、聞いてあげるわ」
「聞こう」
「浸着装甲は欠陥品だ。穴をつけば、使い物にならないわ。ではこちらも聞きましょう」
「レーアと話せるか?」
「ごめんなさい、それはできないの」
クライフは頷く。仕方がないことなのだろう。未練だと脇に置く。
浸着装甲の欠点。今は
「導師が怒る、か」
クライフはひとつ、スっ……と息を吐く。
歌で継承する記憶の一時的な保存方法と、定着させる方法は謎のままだ。恐らく、解き明かすのはこの先の誰かだろう。どこかの誰かになれるのなら、その選択肢を選ぶ者は必ず現われる。何者かになる者は、必ず現われる。
「ああ、もうひとつだけいっておくわ――」
レーアがそう呟いた瞬間、クライフは左手に一歩身を躱した。背後の水辺から必殺の勢いで放たれた杭のようなものを避けたのだ。その攻撃が空を切るや、クライフはそちらに駆けていた。
水面から上半身を出していたのは、ディーウェス夫人。あの生首が血の臭いと切断面から偽物だと看破したクライフは、背後を、馬の影とならない水辺を常に警戒していたのだ。
レーアの言葉の囮で気を引きつけ、遠間からの攻撃で殺す。無論毒は塗られているだろう。その虚実合わさる攻撃を躱し、不意を打った夫人の間合いまで踏み込むと、彼女の二投目が放たれる前に、えいやとばかりに右半身の撃ちで頸動脈を両断する。
「アラン……」
か細い抜けるような呻き。
水辺で素早く避け得なかった夫人が血風吹き上げ意識を手放し仰向けに倒れるや、その水面が朱に染まる前にレーアがクライフの背後に迫っていた。左右各一刀の片手剣二刀流。刃はぬらりとした光。毒だろう。
川辺の砂利を踵で磨りつぶすように腰を落とし振り返るクライフ。レーアの一刀が襲い来るのを踏み込んで躱し、受け流すように左手を伸びきった左肘に添えるとぐいとばかりに押し込みながら間合いを詰める。落葉の突きが間に合うと見た瞬間、レーアの四肢が脱力し全身が駒のように右回転。背中越しの回し斬りが左右の剣で二度三度と振るわれる。迫り来る腕をあわせで斬り下ろそうとするが、タンと素早く間合いを外しつつ彼女は後方へ大きく――人外の動きで元いた倒木の辺りへと下がっていた。
この間、実にふた呼吸もないほど。
あのまま一挙同で腕を取り刺し貫くことができぬほど、レーアの四肢は柔軟で、かつ――。
「タガを外してるのか」
「屍人ほど大きく外す真似はしないけれどね」
魔女の行う、あの人外の膂力。調節が利かぬほどの、空と満の両極ではない。この暗殺者の使う体術は、適切な無茶を引き出している。
難敵だった。
そしてまた、レーアも息をのんでいた。
負ける相手ではないだろう。しかし、あの不意打ちをよくもまあ躱したものだと舌を巻く。死体を損壊して作った頭蓋の偽物を見破ったのも慧眼だった。ここは、少しでも傷を負わせ、殺さねばならない。
そのくらいなら、まだ許される。
いまならまだ、気軽にこの男は殺してもいいはずだ。
「二刀、破れるものかしら? かしら? ふふ」
間合いは彼女の方からじわじわと詰めていく。滑り来る動きは、熟練のそれだ。かつてクライフが戦った二刀使いの中でも、その細やかな振りのもつ
その命に届く武器を左右に広く、まるでクライフを空虚に抱きしめるような構えで迫り来る。
この前へ出した二刀は強く相手を威圧する。
この二刀をどうにかしなければ、自分の刃は相手に届かない。
まずこの二刀を処理しなければと強く相手に意識させる。
とかく、多種多様な武器は、構えは、印象が持つ強さを遺憾なく発揮するものが多い。
「しからば」
クライフはレーアに対し、剣を垂直に構える。柄は顔の右、右の拳は目の高さ、左手は顎の下のあたり。全身脱力し、腹の底にフツと力を溜める。
間合いが詰まる。
すでに一足一刀の間合い。
つまり、たがを外しているとはいえ、レーアのか細い腕が片手で保持している剣を弾きつつ入れる間合い。双剣の圧力が増し、クライフに迫り来る。この切っ先が少しでも動き傷つけられれば、命はない。
――さあ、こい。
レーアの誘いに乗らぬ剣士はいなかった。
打ち払い、間合いを詰める。
そのまま力任せに打ち込み入る。
そのふたつにひとつだ。今までも、恐らくこれからも。
充分に印象づけた、毒、双剣、自分の体、技。
総てが誘いだった。
どのみち、この二刀をなんとかしなければ勝ち目はないのだと。
しかし、クライフは静かな、どこを見、どこ感じているのか分からない表情のまま、一切の感情を浮かべずに剣を掲げている。垂直の刀身は柔らかく握られた柄により微塵も揺れず、真正面に正対したまま、息をしているのかしていないのかすら分からない。
静かな佇まいだった。
なぜ動かない。
レーアの、いや、歴代の積み重なる暗殺者の脳裏に例外が生まれつつあった。動けないのならば、こちらが踏み込んで軽く斬ればいい。
ただそれだけだった。
動けず狩られる者。今までもそのような者はいた。これからもいるだろう。そのうちのひとりなのだ。クライフも。
そう判断しかけたとき、やや――ややクライフの左肩に隙ができた。レーアの目は微かに外に開きかけた切っ先を敏感に見て取っていた。
クライフの真っ向打ち下ろしが自分の額に振り下ろされる。強引に切り崩す気迫が満ちようとした瞬間、レーアはその届かぬ斬撃から双剣を外し、伸び来る腕を斬りつけようと左右に腕を開き伸ばしつつ右の剣をクライフの腕が来る部分にス――と伸ばし打つ。
誘いに乗った剣士が引き寄せられるように打ち込んでくる。
そう思っていた。
しかし、クライフがそうしようと気配を見せたのは誘い返しだった。
この機微、間合いにお互いが入ってから実に一呼吸にも満たない間の出来事だった。
動かされたのは自分の方であると意識する前に、レーアはクライフが己が右側に一歩踏み込んだのを感じていた。
殺される。
そう思った瞬間、
「やめて!」
最後の、罠だった。
親しくしていた少女の顔と声と叫び。彼女の内に息づく無垢な少女の悲痛な叫び。
落葉の一撃が鈍れば、巻き落とすように毒刃で殺す。
しかし。
「えいやあ!」
裂帛の気合いがレーアの声に被さった。
渾身の打ち込みが暗殺者の右肩から骨盤までを存分に斬割していた。仰け反るように血潮が溢れ飛ぶ。
馬鹿な! ――暗殺者の怨嗟は明るくなりつつある空へと消え。
ごめんね ――少女の無念は臓腑とともに地へとこぼれ落ちた。
こぼれ落ちる血肉をそのままに、どうと仰向けに倒れ伏す少女。その瞳はすでに狂気を捨てたレーアのそれだった。急速に命が失われていくのが分かった。
「エリー……ゼ」
その後に聞こえてきたのは、妹を思う少女の吐息だった。
そして、歌。
未だ斬り下ろした姿勢のまま残心とも言えぬ表情で歯を食いしばっているクライフは、その禍々しくも優しい音色を聞いていた。
彼女の中から、何かが抜けていく音色だ。
本当の決着は、まだつかないのだろう。
この世界のどこかで、この歌を受け継ぐ何かが生まれる。
すまん ――剣士の悔恨は剣と両足に込められる。
ゆっくりと立ち上がり、クライフは刀身の血潮を拭おうとして、その血液が黒い塵のように剥がれ消えるのを見て、魔性の気配を改めて意識した。残っているのは、今朝と先ほど斬ったディーウェス夫妻のそれだけだった。
血振りし、懐紙で拭うと納刀する。
そして倒木の脇に落ちた、夫人が投擲した武器を見やる。あの日、彼が夫人に投げ打った四足獣の角だった。毒はついていなかった。そのまま腰へと差す。
「レーア」
埋葬しても獣が、魔獣魔物が掘り返して喰らうだろう。
荼毘に付す道具もない。
闘争と死臭の気配にすぐ厄介な者が引き寄せられてくるだろう。
「すまん」
もういちどクライフは詫び、遺体をそのままに、馬にまたがった。
ぶると応える馬の首を撫でると、遠く周囲を警戒する獣の気配が見て取れた。水中に広がる夫人の血潮も何かしら招き寄せるだろう。水辺も安全ではない。
クライフは北へと馬を走らせる。
バードルに。
熱き国に。
***
そしてそれを見送る、暗灰色の導師。そして魔女の姿が対岸にあった。
「無事、歌は還ったか」
導師カヴァン=ウィルはそれを確認すると、少女の死体にフと指先を向ける。燃え上がる遺体。魔女はそれを導師の感傷とは見なかった。
利用価値のない死体によくないものが入り込み屍食鬼と成り果てるのも、このまま獣に喰われるのも面白くはない。だから燃やしたに過ぎない。かの者が復活する肉体はすでに用意されているからだ。
「車輪を捨て、我らは幼き悪鬼羅刹を手に入れた。さあ行こう。見届けるだけだ。あまり揺らしてはならん」
「承知致しました」
魔女セイリスは頷き、背後に寝かせている少女を抱え起こす。
「歌は還ったか?」
魔女の問いかけに、その少女はゆっくりと目を開く。
「最適化しているわ。少し待ちなさい」
「ふむ」
そのまま抱えながら、魔女はひとつ唸った。
そして導師が喉を詰まらせるような短い嗤いをもらし聞く。
「で、どう呼べばいい。レーアか? それとも」
少女は薄く微笑む。
「エリーゼでいいわ。今はまだね」
「起きろ。もう大丈夫だろう」
そして三人の姿は、かき消える。
敵は減り、増える。
ゆらり揺らめく力の均衡を一気に崩しうる機会を狙うために。
落葉の剣は、今はまだそれを知らず。
ただただ、北への空は薄い朝焼けのなか、鮮やかな蒼さを増していく。
孤剣、いざ斬り拓かん。
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