第43話『誘蛾の剣 3』

 もともとアカネは寡黙な少女だった。感情そのものは里の子供たちと似たり寄ったりなものを持ち合わせていたが、匂いに敏感であるが故に、その情報の取捨選択を会得するまではさまざまなものごとに悩まされた。だから、やや距離を置くことで付かず離れず踏み込まずを心がけた際、自然、寡黙になっただけだった。

 十を過ぎる頃には一族に伝わる嗅覚の鍛錬が一区切りつき、あえて鈍感な一人格を脳に上書きすることで、匂いの奔流を意識する幅を大いに狭めることに成功した。

 その人格は、わざとらしく感じる、下手に猫を真似たものだった。

 猫は、彼女にとって気まぐれな先生であり先輩であったからだ。


「アカネは猫ちゃんで生きていくの?」


 それでも仲のよかったシズカは間合いを取るアカネにずけずけと踏み込んでいく、数少ない友人のひとりだった。シズカはアカネに「嫌な臭いがする」「くさい」「手を洗え」「体を洗え」、果ては様々な匂いに対して文句を言われ、ときには罵倒されるたびに、その体術を以て抱きついたり自分の匂いをわざとなすりつけるように絡んでいった。のっぴきならぬ喧嘩もしたが、相性がよかったおかげか、体が出来上がる時分には気の良い相棒になっていた。


「音の取捨選択と、匂いの取捨選択。脳の仕組みを切り替えるのは、それでもアカネの方が二枚は上手うわてだ」


 会合に参加を許された面々は、そう言ってアカネを新しい大人として認めた。空いた人員の穴を埋めるために彼女を推挙したのは、先に大人の仲間入りをしていたシズカだった。


「大人になれば、外からの召喚に応じることができます」

「ここ数代皆無な召喚を期待してる者がいるのかニャ?」


 シズカは首を振る。

 しかし、お互いが外の世界に興味がないわけではなかった。みなそうだった。世を忍ぶ仮の職業で近隣との交流こそあれ、王都やガラン、ザンジヤード、獅子の瞳は憧れの対象だったのは間違いない。


「里の南、『隠者』の者が第二王子とつなぎを取れたとか」

「ほんとかニャ?」

「今日の会合は、その召喚……いえ、招聘に関する事柄よ」


 数十年ぶりの、数代ぶりの招聘。

 しかし会合は色めいている雰囲気はなかった。表に出さないあたりはさすがは里の大人だろう。――しかし、アカネは逡巡の匂いを感じていた。密かに、脳の回路を切り替える。


「招聘に際し応じる気のある者は、四十人。応じず隠里のまま時を過ごしたいと思ってる者が、二十五人」


 声には出さぬが、その匂いが伝わってきた。

 脳を戻す。

 シズカは「応じろと言われれば応じる」と自若泰然。アカネもそれに倣うつもりだが、どうやら事態はそれほど難しいものではなさそうだった。

 その中でアカネは、シズカからのつまらなそうな気配に首をかしげる。


「懐かしいことを思い出してた……ニャ」


 回顧から立ち返ると、そこはまだ宮殿――執務宮のはずれだった。

 先ほど分かれたシズカは街の東に消えた。自分はどうしようかと、考え始めた三日目の夕刻だった。

 あの里の夜、シズカが何を思っていたのかはわからない。もしかしたら急に空いたひとりの席に関係しているのかもしれないが、詮索する気はなかった。

 そのまま『里の南、隠者の一族』は第二王子の招聘に応じ、その後、どのような話が里の長たちと交わされたのか知らないが、ガランに追いやられたシャールの次期女王、エレアの近衛としてシズカと自分が招聘されたのだ。

 近衛の中では新参だが、爾来、ここまでは楽しくやってきた。


「細かいことを気にしないのは里の者の強味ニャね~」


 伸びをする。

 さて、シズカは囮になった。では自分はどうするか。

 鼻孔に入り込む獅子の瞳の雑多な空気は気持ちが良い。こんな場所でも、人の様々な感情が空気に交じっている。


「五感はすべてを教えてくれる。けど、何を教えて欲しいかまでは自分で決めないといけないのがかったるいニャ」

「おや、まだいたのかい」


 ダランの接近には気がついていた。

 彼はアカネがいるとは思っていなかったのだろう。やや驚いた様子で手にした本を持ち直す。


「いつものように飲み歩きにいったものとばかり」

「遊び回ってるわけじゃないニャよ?」

「そりゃ知ってるがねえ」


 遊び歩いてるだけではないと知っているが、ダランは肩をすくめる。


「……あの剣士はどうしてるのかね」

「浸着装甲の騎士、アリッサ=コートポニーの実家からの伝手で外壁を越えたと聞いてるニャ。その後は聞いてないけど――ニャ?」

「ふむ、そうかね」

「ダランさまはずいぶんとクライフさんを気にしてるんですのニャ」

「ん、ああ――」


 ダランは肩を回しながらもう一度手の本を抱え直す。アカネはそれを助けるように五冊ほど手伝うと、彼と足並みを揃えるように促す。ダランは好意に甘えるように自室へと戻る道を歩き始める。


「どの程度まで彼のことを知っているんだい?」

「海を越えた南の島大陸からきた……もと騎士、だニャ」

「やはり騎士か」


 ふむぅ、とダランが頷く。


「それは憶測かね?」

「確かな情報ニャ。本人から聞いたわけじゃないですが。……ニャ」

「……その猫の鳴き真似はずっとやるのかい?」

「ニャ?」


 意外な言葉だった。

 ダランはこの獅子の瞳は文官の長であったが、このようなどことない気さくさが目立つ。しかし個人的な興味のみで個々人のことを聞くのは珍しいと感じる。


「里の者に、やはり興味が?」


 と、つとめてアカネは語尾を聞き返す。


「――知らぬことばかりだよ。私が、エレア殿下の……」

「ええ」


 アカネは頷く。その先を言わせるほど野暮ではなかった。


「宝珠宝玉に関すること、エレア殿下のこと、ゴルド殿下のこと、ザンジヤードのこと」


 ザンジヤードは、第二王子の領土。彼の名を出すとゴルドの機嫌に拘わるので、努めてその符丁で呼ぶことを知っている。


「楽団のこと、バードルのこと、何も知らない。知ってるのは、いや、知ってると思っているのは、獅子の瞳と魔力運営のことくらいさ」

「……『塔』のことですかニャ」


 語尾が戻った。

 ダランは「まあ、露骨だったからな」と笑う。


「ふふ、発起人は私ではなく、獅子王子」

「意外――」

「殿下は、ああみえて頭脳派でね。武人の矜持が強すぎて第二王子に隠れてしまってるのが惜しいところだ。あれでも、シャールを防衛する最前線を仕切る男だからね」


 主君を誇る色は好感が持てた。

 アカネは「そうだニャー」と頷く。


「情報の授受が安易になれば、このシャールは変わる」

「途方もない物語のようだニャ」

「今はまだね。そうそう、あの剣士のこと。ほんとうにもと騎士なのかい?」

「言わないだけで、隠してる様子はなかったですからニャ。もしかして、召し抱えようと?」

「気にはなってるが、彼はエレア殿下のもとにいる方がよかろう。ただ、彼はひとりだったかね?」

「ひとり……とは?」


 自然と脳の回路が切り替わる。

 ダランから腹を探るような匂いはない。

 ただ彼は指先で右目の上を縦にスっとなぞる。ウインクに見えるその顔をとぼけたようにかしげると、そのままアカネの目を見ながらいう。


「歳は、もうかなりの高齢だろう。片目に傷を負った老人がいなかったかい?」

「――そのかたは、おそらくこちらにはいらっしゃってないかと」

「亡くなったのかね?」

「存命でしょう。ただ、隠居の身とか」

「シャールに戻ってきてはいないか。すまん、気になるだろうか」

「――有り体に言えば」

「前女王に仕えた……いや、違うな。力を貸していた、剣士だ。赤獅子ようへいから聞いた話と、あの腰の一刀。もしやと思ったが」

「愛弟子、でしょう」

「なるほど、因果宿運か。あの剣はね、『落葉らくよう』というらしい。異国の剣で、薄闇の中灯りを翳すと、美しい刃紋が伺えるとのことだ。これは畏れ多くも皇帝陛下から聞いた話でね」

「陛下から」


 いかな獅子の瞳の文官の長でも、皇帝陛下から直接言葉を賜るのは異例だろう。「どんな伝手で?」と問いかけるアカネの顔に、返すのは苦笑のみだ。いう気はないらしい。


「喰えない人っていわれませんかニャ」

「そちらの殿下ほどじゃないよ」


 笑ってアカネから本を受け取る。そこはもう彼の自室の前だった。

 ともあれ、未だ雲上のシャール皇帝はあの落葉を知る者ということになる。つまり、この一件を注視している。


「ともあれありがとう。ところで君はこれからどうするのかね」

「どういたしまして。……これからですかニャ? そうですね」


 アカネはひとつ、スンと鼻を鳴らす。

 脳は切り替わっている。


「殴り込みを」


 彼女は宮殿を見返す。

 つられてダランも視線を向ける。


「まさか」


 彼の呟きに、アカネはひとつ笑ってみせるのであった。

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