第42話『誘蛾の剣 2』

 シズカの生まれ育ったシャール東の山村は、有り体に言えば閉鎖した集落だった。時代の流れから結果的に閉じたように見えるだけで、その門戸は開かれていたが、ここ数代のシャールはその『里』、または『郷』につなぎをつけることはなかったというだけだった。

 かつては、はじめは、権力者たちの力となる特殊な技能を磨いた集団の集まりだったと彼女は聞いている。普通はできないことをやってのける人員を高額で雇わせて生きる一族だったのだろう。

 ひとつ、五感のいずれかを尋常ならざる域にまで磨き上げた者。

 ひとつ、傭兵に匹敵する体術を会得した者。

 ひとつ、余人に知らせず磨き上げた技術を隠し持つ者。

 その総てを併せ持った等級の者は、帝国内部の闘争が激しかった時代には高く召し上げられたという話だった。


「強めのお酒をひと瓶、そのままで」


 夜。アカネと分かれて行動している彼女がふと自分の出自を思い返しているのには理由があった。『楽団』の持つ異様性こそ問題にされてはいるものの、彼女自身、彼女たち自身はそれを異様とは思い切れていないからだった。今回の一件を考えるうちに、どうしても自分自身の出自ありきの感傷だと思わざるを得なくなる。

 たったいま買った酒瓶を左手に提げながら夕暮れた街を往く彼女は、自分が育ったあの山村を思い出しながら、ひとつ息を吐く。

 魔力を持った者に対抗しうる特殊技能は、貴重だった。

 それを磨く術は秘匿され、結果、集団を形成し閉じることで身を守った。狙う者を倒し名を守り、請け負った仕事をこなし名を上げ、かつ秘匿することで名を広めた。

 そんな村だった。

 山村、郷里、様々にいわれるそんな集落だったが、山間に囲まれた広い地域の生活体系を持つあつまりだった。共同体という感じ方が近いとシズカは思う。なにせ、同じ共同体――里の人間同士でも、術が違えば交流が疎遠なのは当然だったからだ。技術者集団の中において、技術体系が違う者に対して、たとえ同郷であっても守秘する頑なさを持った者同士が集まっていたのだ。

 いっとき、同じ里の者同士の交流の際、シズカに彼女が持つ術について尋ねた者がいた。俊足の術を持つ一家の、壮年の男だった。


「『耳』は里ができる前より持ち込んだ技術があると聞いたが、もしかして魔術が関係しているんじゃないか」


 魔術魔法が現存する大陸において、それは血筋血統に拘わる秘事でもあった。魔力持たぬ人の身でこれに対抗しうる技術者集団――それが里の者たちであるだけに、同じ里の者同士でも、疑うとすればまずだ。


「秘事を伺うのは殺し合いになります」

「そういうなって」


 夕刻の帰り道にこの男が近づいてきていたのは耳で知っていた。それ以上に村長宅での会合のときからの視線で気がついていた。

 そのときのシズカは十と二歳。相手の男は働き盛りの三十代。表向きの仕事はあれども、生業たる里の仕事はここ数代皆無である中、思うところはあるのだろうし、あったのだろう。それ以上に、シズカ個人に興味があったように思える。


「今はもう平穏な時代。技を磨いたところで、受け継がせる術のために受け継いでいるような今、息苦しくないか? 外に出て――」

「傭兵にでもなると? そうする者は多いし、誰も止めてはいないでしょう」


 シズカが答えるように、現状、力を使いたいがために里を捨てる者も多い。ただ――。


「一族が受け継いだ秘事は持ち出せる。しかし、は封印される。それじゃ意味がない」

「いずれ帰る技術のためです。里をなら、里の物は置いていかなければならない。注意しなさい、あなたは今、里の私を敵にしようとしています」


 会合に来ることを認められた者は皆等しく、体術に優れている。

 この男も、そして十二歳とはいえこのシズカも。

 互いが向き合い、ふたつの間合いがチリとばかりに熱を帯びる。


「よせよ、里を敵に回してまで抜けるつもりはない。ただ、お前の持つ耳じゃない、秘事が気になってな」

「若輩ですが、これでも里を名乗れるものですよ?」


 ああ、この男はもうダメだなと、シズカは思った。

 きっと自分を誘い里を抜けようとしているのだろう。索敵と、囮として。耳がよければ追っ手に気がつくだろうし、未熟なれば囮に最適。足の速い自分は、そそくさとシャールの果て――という算段。

 透けて見える。

 そう言ってやるのも情けだろうかとシズカは思ったが、ひとつ息を吐いて首を振る。


「秘事を伺う者は、殺してもよいことになっていますが」

「物騒だな」


 しかし、男は踵を返した。

 夕暮れ。つるべ落としに日が暮れていく。


「――シズカ」


 呼びかける男が、闇の中に消えていく。


「俺のことは、誰にもいわないでくれよ」

「ええ――」


 シズカは頷いた。

 闇に消えていく男の背を、彼女は見送った。

 去りゆくその影を彼女は忘れないだろう。現に、数年経た今も、こうして思い出している。

 男は、それ以来、誰にも見られてはいない。

 抜けたわけでも、身を隠したわけでもなかった。

 シズカに殺されたのだ。


「――嫌なことを思い出しました」


 回顧より現実に戻ったシズカは、宮殿と西の外壁に挟まれた運河を渡る橋の上で立ち止まる。

 あたりは、すでに闇夜だ。

 光りも少ない。

 ただ、その少ない光りがそこかしこに濃い闇を落としている。建物の影、木箱の影、雨樋の奥、


「あの男も、闇に潜むすべに長けていました。視覚だけではなく、聴覚までも騙す見事な術でした。しかしいかんせん技が足りなかった。そう、あなたのように」


 シズカは水面に言葉を落とした。

 しかし殺気は頭上から襲ってきた。




 ***




 街に潜み仕掛ける。

 そう打ち合わせてのち、ボルホフは潜まずに仕掛けた。

 夜。あの三傭兵のひとりを倒したという近衛の女。なかでも生真面目そうなひとり、シズカを狙い、仕掛けた。

 ボルホフはもう十六を過ぎた大人だった。『歌』の切り替えで、裏返ったあとには、もう何人も首を切ってきた。そろそろ引き際だと潮時を見極めていた時分だった。

 楽団の一派、車輪の一員だったボルホフは、あの地下でディーウェスたちによって作り上げられた。歌の持つ力で表と裏を切り替えながら、言葉を覚え始めたあたりから人の命を絶っていた。

 ナイフを持つ力があれば抱えてくる大人の首を切ることは容易だったし、背が低い故に大人の死角から物事を成すのも容易だった。

 子供のすることだからと、子供がしでかすようなことしか注意していない大人の裏を掻くのは容易だった。

 毒を仕込むのも、大人以上の体術で仕掛けるのも、罠を張るのも、弓を射るのも。しかしとりわけ首を切るのが好きだった。

 温かい血潮と共に熱が失われていくで対象を生み出す行為が好きだった。

 歌で何も知らないボルホフに戻るのがもったいないくらいだった。

 だが、何も知らないからこそ、ボロが出ない。

 だからこそ、続けられていける。

 ジョッシュも、カールも、似たようなものだ。とりわけボルホフは女の獲物を好んだ。シズカを選んだのは、伝え聞く風体や言動からだった。きっと、いい顔をするだろう。

 この車輪なき状況の今、生きるも死ぬも、この殺し屋の自分である。それが何より嬉しかった。

 きっと、この技術も経験も、歌と共に運ばれる。

 だからこそ、命にはこだわらない。

 だからこそ、仕掛けることを止められなかった。

 体が出来上がってきてからこっち、暗緑色の装束に身を包み、暗闇に乗じて殺傷たらしめることを得意としていた。

 人づてから、日が落ちシズカがひとりで街を歩き出したと聞いたとき、「これは誘い出されている」と、喜んだ。シズカにではなく、運命に誘われたと。

 依頼で動くわけではない、自分のために刃を振るう機会は初めてだった。だからこそ、暗殺のセオリーから外れて命を奪う最初の女にシズカを選んだ。相応しい女だと思った。

 耳が良いと聞き及ぶ、それも恐ろしいほどに耳が能く働くと聞き及ぶ、シャールが次期女王エレアの近衛。若き英傑。

 濃緑は闇夜に能く溶けこむ。まさに暗中に潜むには適した衣装だ。四肢はきつく、間接部は柔らかく、足下は獣皮と毛皮を幾重にも重ねたブーツで、足音を消す。ここに歩法を足すことで、どうしても発生する音そのものを空気に溶けこませる。

 目と、耳を、騙す。

 すぐそばに獅子の瞳の住人がいれども、暗闇を潜み動くボルホフの姿に気がつく者は皆無だった。大通りを通っても、民家の横手を通っても、夜店の脇をすり抜けても、無音の鶉は見咎められることはなかった。

 そしてシズカが酒瓶を片手に運河の小橋にたどり着いたとき、ボルホフははっきりと自覚した。


「あの男も、闇に潜むすべに長けていました。視覚だけではなく、聴覚までも騙す見事な術でした。しかしいかんせん技が足りなかった。そう、あなたのように」


 水面に向けて放たれた彼女からの言葉。

 音をごまかし、橋の下の暗闇を意識させた故の動き。

 ああ、誘われていたと、自覚した。

 しかし、先手は取れる。

 逃げるか――仕掛け手を改められる今ならまだ考えをまとめられる逡巡こそ合ったが、ボルホフは橋の高欄から身を躍らせた。

 脱力することでの自由落下。

 力みが起こす気配と音を極力排除した奇襲だった。

 その右手には、かぎ爪にも似た小刀のような鎌が摘ままれている。耳の裏手から頸動脈を掻き切れば、いかな英傑でもそれで死ぬ。着地は考えない。そのまま落下の力で斬り込む。

 欄干のそばで水面に視線を落とし込むような姿は、最高に仕留めどころだった。そのうなじにぬるりと滑り込む刃の感触は最高だろう。血の臭いを楽しんでもいい。今回は、私闘の類いだ。


「――」


 ボルホフの体がストンと落ちてくる。

 風の音に気がついても間に合わないだろう。

 しかし風の音に気がつくのではなく、シズカはボルホフに気がついていた。

 その正確な位置を。

 その正確な攻撃の軌道を。


「――見事」


 ボルホフはその嗜虐の意識の奥底から賞賛の呻きを上げた。

 白いうなじが迫ってきた瞬間、軸をずらされた。シズカが一歩、身を返すように足を引いたのだ。

 彼女の左手が後頭部に触れた瞬間、促されるように彼の顔面に欄干の白い手すりが迫ってきた。自由落下の勢いと彼の自重が乗った威力。

 頬桁が砕け、鼻腔の奥に亀裂が入るや眼窩が砕け右の目玉が潰れ出る。


「ぐッ」


 潰れた悲鳴。

 即死しなかったのは僥倖だったが、逃げられると一瞬希望を得たその瞬間、その体が完全に地に落ちたときにはすでに彼の命は終わっていた。

 顎に回された彼女の手が、捻るように脛骨を砕いたのだ。

 どさりと、濃緑色の人型が欄干そばに潰れたようにひしゃげる。


「殺人を楽しいと思ったことは一度もありません」


 顔面の穴からやや血がにじみ出るが、心臓が止まっている今、これ以上は汚れないだろう。シズカはひとつ微笑み、その死体を見下ろしながら頷く。


「しかし、あの剣士が子供を殺す機会がひとつ減ったのは悦ばしいことです。ありがとう、狙ってくれて。……歌については、別にどうでもいいのですよ、私たちは」


 しかし、酒瓶に目を落として呟く。

 事後処理のことはどうでもよかった。

 ボルホフの放つ音を、心音と呼吸音で捉えていた事実はどうでもよかった。ただただ、どうしようもなく酒を飲みたい気分だった。

 こうなると分かっていたから、酒を買ったのだ。


「――彼が子供を殺す機会がひとつ減った、か」


 しかし彼は、彼女が子供を殺した事実をどう受け止めるだろうか。

 黙っていることもできるが、それは彼の生き方に対してあまりにも不誠実だろうと思った。

 しかし、彼はそんな彼女の告白のもとで、己自身もその可能性と戦うことを誓ってしまうだろう。あれは、そういう男だった。それがつらい。

 夜空を仰ぎ見る。

 曇り空で星も見えなかった。

 相棒は今どうしているであろうか。

 そう、誘蛾の剣はひとつではないのだ。


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