第32話『燃える虎口丘を越えよ 3』
虎口の丘は炎に包まれつつあった。
生木すら煙を上げ始める火勢に、北からの風が煽りをかける。唯一の北への道で、一番狭いとされる石碑の街道。度重なる魔獣の炎で、火災は草地にまで舌が伸びている始末だった。
馬もなく、北へと逃げ切れる相手ではない。ましてや、南からの商隊に応援を求める隙も、待つ時間もないだろう。ここで、すぐにでも倒さねば炎にまかれ不利を背負ったまま殺されてしまうだろう。
蛇の尾を、その蛇頭を斬り飛ばされた魔獣の行動は切り替わる。近間では煩わしいと感じたのか、遠間のほうが組易しと行動原理に沿っただけなのか、巨体の移動半径を活かしてつかず離れずの距離を取り始めた。
「肉には命が詰まっていると、つくづく痛感しますね」
シズカは舌打ちを我慢しつつ、クライフが追い込む外側から回り込む。彼の剣撃は、肉を持ったものが相手ならば、したたかに数度は急所をえぐっているだろう。生命活動そのものが空虚な、白骨の魔物。形こそそれだが、在り様は全く違うものとなる。蓄積された呪い――魔力という名の活力が枯渇すれば、その形を保てなくなる。あくまでも、形の損壊こそが不死者、とりわけ定型の魔物には必要となる。
「油の炎は効いたけど、この炎で怯む様子がないニャ」
「我慢してるか、反応がないだけじゃないかしら。ほら、長時間あぶられそうな場所には陣取っていないし」
「炎もものともしない皮や体毛を失った今、あまりに無頓着だと自滅するんだニャ~まったく」
「あの様子だと、毒も精製できていなかった可能性があるわね。……ともあれ、煙を吸い込まぬよう彼を助けてあげて。あの魔獣はここで倒さないと」
「……助けるも何も、突っ込んでいってるニャ」
とあきれ顔のアカネが指し示す先は、彼女たちが迂回する燃える草原の中ほど、じりじりと間合いを詰める魔獣の正面。白骨の退路を塞ぐ形となる、轍深い土の足場だ。
「あのばか」
毒づくシズカがアカネに目配せをする。失踪を緩めずにもうひとつの退路である背後の雑木林へと突っ込む。ここもそこかしこに飛び火した火種から、白い煙を上げ始めている。
すでにクライフも炎の直撃こそないが、火傷のひとつやふたつは負っているだろう。防いだとはいえ直撃に近い蹴り上げに見舞われたのは二度三度だ。丈夫な鎧としなやかな身のこなしで命こそ助かっているが、ああして
彼を救わねばならない。
シズカは焦燥感を飲み込み、気配を断つように立木の陰で息をひとつ吐く。心拍が治まり、頭の中から焦りと、耳からは音が消える。
いや、音は完全には消えていない。
彼女の耳には、取捨選択の特技がある。彼女が求めるクライフの呼吸音のみを捉えている。
ひとつ――。
ふたつ――。
なんということだろう。彼の呼吸に焦りは微塵も出てはいなかった。心拍こそ跳ね上がっているだろう。運動によって呼吸も荒くなるだろう。しかし、その深さそのものは腹の奥底に落としこまれるように重く、力強いものだった。鼻から大きく大きく息を吸い込み、体を巡らせ、口からゆっくりと、ゆっくりと、吐いている。
みっつ――。
よっつ――。
対峙している魔獣も、目の前の小さい剣士が強敵であることを察知してるのだろう。落葉の間合いから離れた場所を、一歩、二歩と左右に揺れている。力を貯めている伏し姿のままだ。
両者ともに誘い。
そしてクライフが五回目の呼吸に入った瞬間、仕掛けたのは剣士のほうだった。一瞬息を吸い込み、緩みを見せた瞬間の踏込み。
白骨の巨体が一拍遅れて弾ける。矢のごとく伸ばした体は、鉤爪という
揺らぐ。いや、その下段の切っ先がピンと跳ねる。下段に構えた切っ先を下に向けたまま、柄をことりと持ち上げたのだ。右体側に刀身を沿わせ一歩左前に進む。鉤爪を――いや、その前腕の尺骨をビシリとばかりに受け流すや、踏み込んだ左足の勢いを殺さぬまま「えい!」と弧月一閃。返す手首で落葉を大上段に戻しつつ、体ごと振り抜かれた刀身は魔獣の肘関節ごとそれを覆う腐肉を存分に断ち割った。
肘を断ち割った瞬間、クライフは後ろへと飛ぶ。紫電奔る中消し炭と消えた前足により受け身も取れずに横転した巨体を回避するためだった。
振り抜いた刀身は中段に位置している。そのままがら空きの脊髄を両断せんと刀身を跳ね上げるが、魔獣の立ち上がりの速さに落葉は骨の隙間で空を切る。
「でかいわりには、斬る場所に困る」
かはっ――とばかりにクライフが止めていた息をついたとき、魔獣の背後からシズカとアカネが同時に飛び出す。
「生き物相手の間合いと思わぬことです」
「ニャ!」
クライフが仕掛けたのに乗じて飛び出してきたのだろう。体制を必死に立て直そうとする魔獣の骨盤に、ふたりの長剣が火花上げて叩きつけられる。
その一撃はしかし、打撃がではなく、目的は誘いだった。意識が向いた瞬間、ふたりは同時に腰の後ろから抜きはなった短刀を大腿骨の股関節部分に深々と打ち込んでいた。
腐肉に食い込み、がっしりと食い込む。とどめとばかりに長剣で担当の柄頭を打ち、さらに深くえぐりこませる。
「うまく――」
「いったニャ」
狂ったように跳ね回る尾椎の打撃から逃れるように、ふたりは外ではなく魔獣の骨盤の下へと逃れる。
関節にくさびを打たれた白骨は、開いたままの大腿部を動かすことを封じられている。ふたりはそのまま頭低く魔獣の下腹を駆け抜け、諸手で思い切り振りかぶった長剣でろっ骨を左右一本ずつ叩き折り、ザっとばかりに身を寄せ合うや否や、かろうじて体重を支えて姿勢を維持している魔獣の左前脚、その肘の部分に揃って刃を打ち込む。
その息の合った連係の中、前腕にびしりとひびが走る。苦悶の軋みとともに魔獣の状態が跳ね上がるが、避けるように退かれた前足のためその頭蓋がクライフに正対するかたちに向き直る。
「――!」
まずい。
そう思った瞬間に、魔獣の口中にまばゆい赤光が灯る。下顎と牙の隙間から漏れ出る熱は剣士の前髪をチリと焦がし、目を閉じそうになる。……そんな一瞬のことだった。
左手と背後は草木燃える炎の壁、それもあわせ右もかしこも、この炎の間合い。剣を構えたところで防ぎきれず、鎧の隙間からも体を焼かれ、重度の火傷により意識を保つことすらできず、続く攻撃で即死か、熱により徐々に死ぬだろう。
火炎が放たれる瞬間。
剣士は前に出た。炎の下を、身を低く、ウサギの巣穴にも飛び込めるのではないかという高さにまで臥せつつも、ずいとばかりに踏み込んだ。
背で灼熱が通り過ぎたことを知ったのは、魔獣の喉元に腰低く体制を持ち直したときだった。
魔獣の目にも、シズカの目にも、アカネの目にも、クライフの姿が炎の中に消えたような一瞬の回避だった。
自ずから死地の先で生を掴む。心を死者とすることで、刀槍矢降り注ぐ戦場に於いて常の動きを発揮する心得。その中で一瞬の活路は日常に現れる殺気に等しい輝きで死者を誘う。
ここだ――。そう思ったときには体が動いていた。
いまだ――。そう思ったときには剣が閃いていた。
土壇も土壇、地を擦るような下段から体もろとも跳ね上げた落葉が、激しく紫電を迸らせながら白骨の魔獣の下顎を存分に削ぎ飛ばしていた。
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