第31話『燃える虎口丘を越えよ 2』

 魔女たちの姿が消えたと見えた瞬間、「右回り!」と叫ぶやシズカは駆けだした。虎口丘の入り口は小高くなっているが、回り込むと見晴らしのいい休憩地点でもあるのを彼女は知っている。得策ではないが、追うなら今。子供たちだけではなく魔女の介入があるのだとすれば、話は別だった。

 すぐにクライフもアカネも馬を続ける。


「ジョッシュ! ボルホフ! シャロン! それにパトラ! 聞こえる!? 聞こえている!?」


 そんなアカネの背から、レーアが叫ぶ。


「私は何でここに来たの!? みんなは何で向こうに行くの!? 歌ってなんなの!? 楽団って、暗殺ってなんなのよ!!」


 何者にも成れずに――。

 その言葉が、彼女の心に鋭い楔となっている。当然だろう。彼女の叫ぶ背を一瞥し、クライフは消えた魔女の姿を求めて見上げる。

 ある日突然、今までの日常がすべて虚構であったと知ったときの気持ち。本当であると感じる血生臭い非日常。自分がなぜここにいるのかすらあやふやのまま、信じたくない現実を追うためにレーアはいま近衛と剣士の戦いに同伴している。

 彼女には、今の自分がここにいるすべての理由、その足元がないのだ。ただただ、車輪が彼女を誘うように近衛に餌を撒いたがゆえに、エレアが命じたというだけである。そこに彼女の兄妹たちへの感情こそあれ、自分自身そのものがないのだ。彼女の叫ぶ兄妹の名前のひとつひとつに込められた思い出と、投げかけられた言葉の現実の乖離を思うや、彼の胸はしくりと痛む。

 そんな思いを込めてちらりと馬首の先に目を向けたときだった。「シズカ!」というクライフの叫びと「二人とも――!」と叫び振り返るシズカの姿。三騎は弾かれるように馬を散開させる。


「こいつはまた――」


 クライフは馬上から見上げるように息を飲んだ。

 馬を離してもなお見上げる巨体。白骨の巨獣。骸の悪魔。脳裏に閃いたその印象に思考が消えかけるが、剣士としての感覚が彼を無意識に鞍から蹴り降りるように着地させ、馬を逃がすように抜刀し構える。


「死人が動くくらいならわからなくもないが、シャールは骨も動くのか?」


 切っ先越しに見据えるそれに対し、クライフは精一杯の軽口をたたく。


「不死の怪物でしょう。おびえた馬は逃がします。クライフさん、くれぐれも生者のそれと同じような間合いでは戦わないように!」


 シズカも馬上から降り立つと、同じように鞍上から降り立ったアカネと、彼女に抱えられたレーアを見やり、手を南へと下げる。

 骨の魔物におびえた馬は彼女の促しに沿うよりも先に逃げ出しており、レーアも背中をアカネに推されるに従い走り南へと避難する。


「大蛇の尾を持つ、虎口の魔獣――の、骨ですか」


 石碑を越えた馬の動きに触発され起動を開始した白骨の魔獣が、その四肢で大地を踏み、巨大な顎を震わせながら三人を睥睨する。

 ぐじゅりと、軟骨部分を補うように、赤黒い肉片が染みだす。生きた死肉は総ての骨をつなぎ、まるでそのまま生まれつつある巨獣を形作る。


「魔女に命を吹き込まれたのでしょうね。基本、このような魔法生物に思考能力はありません。文字通り、骨身にしみた行動原理と思考操作で動きます。……きますよ!」

「心臓の鼓動もなければ、朽ち過ぎて臭いもなし。二人も気が付かぬわけだ――」


 クライフは竦むような身に一呼吸通し、おそれと不安を静かに落とし込む。右足を引き、己が胸元から魔獣の眉間に伸ばした刀身の陰に隠れる入り身正眼で、フ……と脱力する。

 軋み――!

 クライフは後方へと大きく飛んだ。一歩、二歩、それでも半歩足りなかった。

 左から薙ぎ払われた尾の一撃。蛇の胴体こそは躱したものの、曲刀のごとき牙をもつ蛇頭の一撃は彼の腰部鎧を強かにかすめ打った。

 落葉の鞘が躍る。

 クライフの体が衝撃でのけぞりながら、飛んでいた勢いのまま錐揉むように倒れ込む。鎧がなければ脾腹をえぐられていたであろうことは明白だった。


「生身と思ったらだめだニャ!」


 想像以上のしなやかな動きを生み出す蛇の胴体。それを支える無数の蛇骨の連なりが彼の追撃をしなかったのは、叫ぶように小瓶を放つアカネの行動があったからだ。

 小瓶に入った粘度の高い油が、虎の頬骨で砕けびしゃりと広がる。


「気味が悪く感じるでしょうが、死者と戦う目を以て!」


 彼が立ち上がる隙が生じたのは、シズカが放った金属片が油に火花を散らし、その虎顔を紅蓮に染め上げたからだ。


「……効きやしませんね」

「だニャ」


 左右の前足の一撃を躱し、蛇の間合いから大きく離れると、シズカとアカネはクライフを敵正面に据え左右に広がる形で対峙する。


「骨盤が砕けるかと思ったよ」

「骨も肝も図太いですね。……いいですか? 肉の動きがない分、この手の不死との戦闘は意識の切り替えが大事ですよ」

「肉がない、か」


 動きの発端は軟骨の役目を果たすあの赤黒い肉かと思ったが、さにあらず。骨そのものが意識を持っているかのように動いているのだ。

 そもそも死と生についてもあまりよくわからないクライフにしてみれば、死体が動くことから理解の外だ。

 この燃える虎の頭――その眼窩から、はっきりとした敵意が伝わってくる。揺れる尾が周囲を威嚇し、骨身だけの体が重い圧力を伴い地を噛む。そのしなやかな動きは、生前と全く変わらないものだろうか。

 いや。

 下段に構えたクライフは切っ先を気持ち右に流すと、「いや」ともう一度つぶやく。肉がないということは、肉の代わりを骨が担っているということだ。骨体の動きは魔力によるものだろうが、その動きを大地に伝えるための働きは、肉の代わりに骨が行っている。

 そんなことを思い「ともあれ、この魔獣――どこを斬ればいいのかわからないが」とクライフは一息吐いて、スス……とゆっくりと前進する。「粉々にしてしまえばさすがに死に直すだろう」と落葉を握り直す。


「近衛に染まりすぎでは」


 シズカも苦笑交じりに剣を構える。

 言葉尻は軽いものだが、こと、動く死体――白骨が動くまでとなった魔物は強力だった。人骨ならば戦いようもこのシャールに於いては洗練されているが、伝説の魔獣のものとなればその呪いも魔力も桁が違うだろう。

 果たして武器が効くや否か。エレアの言っていた危惧が胸に灯る。この近衛の長剣で、呪いを越えて損壊たらしめることができるかどうか。かつてない強敵。かの傭兵、鈍色のマルクでも相対したことはないであろう程の魔獣。


「倒したら、自慢してやるニャ」

「それがいい」


 アカネの軽口に合わせ、ズイとばかりに踏み込む。

 ――遠い!

 大きく右足を斜め前方に踏み込み、その軸となった前足に半身片手うちの斬撃を叩きつけようとするも、あるべき筋肉はなく、斬るべき骨には遠く空を断つ。

 切っ先が惰性を帯びぬまま左足を踏み込み、今度は両手で柄を握りこみ、裂帛の気合を込めて斬り下げた。

 青白い火花が激しく散る。

 灼熱を伴う力は退く前足をかすめ、魔獣の顎を軋ませる。「ここ」とばかりにさらに踏み込み胸骨越しに脊髄を破壊たらしめんと踏み込もうとするも、上半身を丸ごと噛み砕かんとする魔獣の一撃に阻止され、顎を斬り上げるように落葉を跳ね上げつつ、大きく飛び退る。

 刹那、剣士は左前に飛ぶ。

 尾の一撃をかいくぐるように肉薄すると、右前脚の踏みつぶしをさらに胸元に踏み込む形に避け際、その体移動の力を存分に刀身に乗せて薙ぎ打った。

 ――浅い!

 それでも青白い火花を激しく散らせながら、白骨の魔獣は声成らぬ軋みを上げる。

 離れられない。離れるわけにはいかない。巨獣には、肉薄してこそ勝機が在る。剣士は死地に、死線を越えた境地に於いてこそ生があると掴む。そこは彼の間合いであり、魔獣の得意とする間合いではなかった。

 左右の足の連撃、猫科を思わせる掬い上げるような突き、土壇をかみ砕くような一撃、巨体で押しつぶさんとする体当たり、そのすべてを躱しながら剣士は一撃一撃と攻撃を重ねる。

 初めこそ大きく躱しすぎてたいを崩しそうになっていたクライフだが、三撃四撃と躱すにつれ、五撃六撃目は危なげのないものへと変わりゆく。魔獣の手傷が増えるにつれ、人外の動きを人間が人間の動きで制していく不思議な光景となっていく。


「これはちょっと、意外な光景だニャ」

「ですね」


 武器を構えつつ、シズカもアカネも闘争の気配を乱すことがないようにするだけで精いっぱいだった。

 クライフの集中は極限まで研ぎ澄まされている。横からちょっかいを出すのは避けたいところだった。ただ、彼が認識し得ない動きを敵がした場合は割って入るつもりだった。特に、ゆらゆらと揺れる尾――攻めどきはいつかと淡々と狙っている尾の蛇。あまりにも剣士の間合いが近いので魔獣のとっておきが封じられてはいるものの、いつ何時この均衡が崩れるかわからない。

 魔獣は死している。

 死しているからこそ、生きているときのような反応は示さない。非常に機械的な、生きた死体。骨身の本能が魔力の指示に従うように、眼前の敵に対する敵意のみがあふれている。

 そしてついに、魔獣頭部の油が燃え尽きる。

 刹那、ぎしりと骨が軋んだ。

 瞬間、剣士はなぜか「」という思いを抱いた。

 白骨の巨体が威嚇とともに咆哮する。肉を伴ったかのような魔獣の咆哮だった。しかしそれは誘いだと判断した。

 そして、地を蹴る四肢。

 傲然と地を蹴り上げた白骨は舞い上がり、後方に翻るように中空を閃いた。見上げそうになる一瞬、クライフは視界の端にそれを捉える。

 蛇の頭。

 ふたりの近衛もこれには対応できなかった。

 後方に宙返りを打つ魔獣が、その尾を、蛇の鞭を、ためにためた体の発条を使って地から空へと跳ね上げたのだ。まともに食らえば剣士の体は木端のごとく天空に跳ね上げられ即死するだろう。よしんば息があったとしても、落下と同時に息絶えるか、とどめを刺される。

 朝日の照り返しを受ける白い鞭の撓りを目前に見たときには、すでに右足を大きく己が左へ真一文字に――反転するよう右回転に身を引いていた。

 土を巻き上げるように蛇頭が牙を剥き、彼の軸足のすぐ側から跳ね上がった。――カッ。左上に構えた落葉が下段に振り抜かれたとき、乾いた音が聞こえた。頭蓋より数えて四番目と五番目の脛骨間に落葉の刃がスっと入り込み、跳ね上げられた蛇の尾からその頭蓋を斬り飛ばしたのだ。

 撓った蛇の頭が、振り向きざまに斬り飛ばされた。

 尾の一撃までは予想できたにせよ、撓りのたうつその尾の間合いと範囲までは端で見ていた近衛のふたりにも分からなかった。しかし眼前の剣士がそれをやってのけたのを、白骨蛇の頭蓋が高く高く舞い上がるのを視界の端に捕らえたときに、やっと理解した。

 ザっ――。

 クライフは遠間に降り立った魔獣に落葉の切っ先を後ろ手に向け、荒く息をつきながら振り返る。

 この一撃で、魂をすり減らしたのが見て取れた。

 それを受け止める魔獣の眼窩に、暗い敵意が満ちて、揺らぐ。

 動揺。いや、ちがう。

 細き紫電が走った蛇尾、その炭化した先端がボロボロと崩れていく。痛みはない。ただ、魔獣は揺れた。その軋みは顎を開き、肉の咆吼を放つ。

 胴に響く咆吼だった。

 かの魔力は満ち行き、魔獣は徐々に受肉に向かいつつあった。


「何者にも成れぬまま朽ちてゆくがいいと、言ったな。未来を閉ざすというのならば、やってみろ――」


 クライフは胸元に剣を垂直に立て、祈るように構える。眉間に立つ刀身に怒りを沈め、ゆっくりと息を整える。その言葉は、魔獣に、魔女に、いや、少年たちを通して奏者へと、導師へと向けられている。

 クライフは左右に視線を交わす。

 シズカもアカネも頷き返す。

 効いている。落葉でなくとも。彼らは見た。魔獣の頭蓋が炭化し、崩れ始めているのを。浄化の炎は骨髄に至るまで浸透していたのだ。


「熱がってないだけでしたか」

「反応がないと遣り甲斐がないニャ~」


 間合いはかるく20メートル。魔獣なら一息だが、攻めの気配はなかった。ならばと間合いを狭めようとした矢先のことだった。


「魔力震!? ふたりとも!」


 シズカの警告と、魔獣の胸骨内に赤黒い光が生まれたのは同時だった。一呼吸もせぬまにその光は輝きを増し、炎の軌跡を放ち始め、魔獣の喉元にせり上がる。


 ――猛虎でありながら毒蛇の尾を持ち、口から炎を吐き、毒の尾で侵し、喰らう。そんな魔獣がいたという。


 そんな昔話の一説が脳裏に浮かんだ瞬間、開かれた顎から太い紅炎が吹き出した。それは瞬く間に飛びすさるクライフたちがいたところはおろか、街道沿いの低木までをも高熱で蹂躙したのであった。

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