第30話『燃える虎口丘を越えよ 1』


 かつて虎口丘には魔獣が住んでいたという。シャール古代の魔獣で、獅子ではなく猛虎。肥沃な南北を抜ける通り道に住み着いたその魔獣は、猛虎でありながら、毒蛇の尾を持っていたという。口から炎を吐き、毒の尾で侵し、喰らう。そんな魔獣がいたという。

 魔獣は他の魔獣と人を喰らいたいそう恐れられたという。種を増やしたとき、シャールに女王が現われたとき、魔物の本能に従い南に下るだろうと言われていた。


「何世代も前の女王が生まれたとき、その若き女王の力を以て倒されたという魔獣。シャールに住む者なら誰でも知っている昔話。いや、歴史」


 そんなことを思い出しながら、魔女セイリスは虎口丘に立っている。遙かに月が落ちつつある早暁、クライフたちが目覚め出発してすぐの頃合いだった。

 バードルに飛んだ導師カヴァン=ウィルは、魔女セイリスに命じていたことがふたつある。ひとつは人の世を乱さぬ程度での災いの種を撒くこと。そしてもうひとつは楽団の支援である。

 行動原理は魔女としてのそれだが、方向性は指示されている。魔女の暗躍は、けっして大きくあってはならない。

 その約束事の範疇ならば、なにをしても良いとされている。

 だからこそ、呪いで侵した人間を使い、呪物で封じた魔物を使い、そして今――。


「死した虎口の魔獣は地に飲まれ、その体は丘になったという。それは、おとぎ話」


 不死者の魔女は丘を見上げる。

 丘と言うより、大河や支流をまとめて横断するような自然の橋だった。数百メートルの幅の道が、なだらかな丘の形で数キロ先へと続いている。

 商隊や旅人が利用する真ん中には足や轍に刻まれた白い道。左右は草原と低木。落ちて死ぬような獣も魔獣もいないが、数年にひとりは釣り糸を垂らそうとして事故死する者もいるという。遺体は大河の入り組んだ自然の暗渠の先に飲まれて見つかることがないという。

 しかし、導師は。奏者の走狗たちは見つけていた。

 遙か昔に討伐された、虎口の魔獣の死体を。

 肉は腐り解け落ち、重く湿った土塊の中で白骨となっていた。


「死したのちも、奏者の走狗――」


 己が体をかき抱く。

 近衛に眉間を打ち抜かれ、鈍色のマルクに頭蓋を絞り飛ばされ、落葉の剣士に半身を削ぎ飛ばされ消滅の危機に遭ってもなお、自分は生きている。

 たとえ骨となっても、悪しき呪縛は腐った肉を求める。他者の肉と命を喰らうことで、己が肉へと換えていく。死者が生者を襲う理由は生者のそれと変わらない。


「在れ」


 腕を振るう。

 認識を阻害された丘の下、大河の流れの滞るよどみの縁。そこに茫洋とした陽炎が上り立つと、うずくまった巨獣の骨が現われる。静かに伏して寝るその巨体は、死した白骨のそれである。

 巨獣。

 セイリスがそのもとに降り立つ。

 白骨の頭蓋だけでもセイリスほどならひと飲みだろう。その巨体は骨の空虚だが、肉がつけば牛頭もかくやの巨体だろう。四足獣のしなやかさを支える骨の多くも掘り出されており、綺麗に磨き抜かれている。

 その一片一片に刻まれた呪いの刻印が、魔女の手振りにあわせて茫と光。あの紫色の滲むような光だった。

 がちりという耳障りな音は、骨の継ぎ目から聞こえてきた目覚めの声だった。かつての魔獣の骨は、生まれ直した死者としてその産声を上げたのだ。

 その虚ろな眼窩に青白い石の炎がともる。

 飢えに裏打ちされた顎がギシリと鳴るが、その巨体が四肢を踏む前にセイリスの右手がそっと鼻先を押さえ込む。只それだけで巨獣は毒蛇の尾を垂らす。服従と警戒の意思がみるみると凪いでいく。ただただ大人しく、傀儡と化す。


牛頭ごずは討たれ、もうひとつは近衛の――エレアの手に落ち。今はお前が私唯一の僕か」


 肉体の修復が終わり命を取り戻しきったセイリスは、各地を飛び交っていた。やっていることは、魔物魔獣の進路の修正。そして繁殖力の高い魔獣魔物の数を増やすための作業という、地味なものだった。その中でも小さい、小さい、謀とは言えぬほどの小さい悪意の芽を埋め込んで回る。そんな日々だった。

 ――生ぬるい。


「これが魔獣の骸か」


 若い声が背後からかけられる。

 魔女が振り返ると、年長組のジョッシュであった。奏者の魔女の術に頷きながら、白骨の魔獣の姿を見やるその視線は静かなものだった。

 彼の背後にはボルホフとシャロン、それにパトラもいる。ともに巡礼姿のままだ。


「虎口丘を越える者は、みな襲うよう指示を刻んである。たとえ貴様らでも、私のもとを離れればただでは済まない。……離れることないように気を付けてほしい」

「わかっている」


 ジョッシュは頷く。

 その物言いは年長組のそれよりも歳経た男のそれのように聞こえるが、魔女は気にせずに振り返る。

 四人の子供たちの姿を見遣ると、「楽団か」と呟き、その姿をもう一度確認する。


「ディーウェスには、まっすぐ獅子の瞳を目指すよう言われたんじゃなかったのか?」

「古株のちょっかいのことを言っているのか?

 あれは仕方がない、三人が乗り気だった」


 魔女に肩をすくめるジョッシュ。悪びれたところはないが、どことなく楽しそうな色が見て取れる。


「しかし、歌が響いたということは、三人が敗れ去ったということだろう。闇夜を露呈させたにしては、お粗末な結果に終わったな。あの剣士を侮ったか?」


 魔女の言葉にはクライフへのかすかな敬意が浮かぶ。よもや落葉の剣士を相手に小細工を弄した挙句に、おめおめと返り討ちにあったのかという、言外の非難がそうさせたのかはわからない。

 近衛のふたりに対する情報上での力量よりも、自らその身で味わった剣士の実力を思い出し、魔女は若い暗殺者に肩をすくめてみせる。


「おかげでこちらは尻拭いだ。合流をする予定がなかったのに、貴様らのおりをする羽目になった」

「その割には魔獣の骸をけしかけるなんて、言うことが矛盾していないか?」

「時間稼ぎなら、このくらいはしなければなるまいよ。もっとも、いささか荷が勝つ相手ではあるが」


 魔女が苦笑する。荷が勝つというのは、剣士と近衛に対してか、はたまた魔獣の骸に対してか。


「これより認識を乱し川を下り、西岸の街から北を目指す。当初の予定での徒歩での北上はあきらめろ。川を下り、馬を用いて急ぐことになる。――近衛と剣士に魔術は効かぬと心してほしい」

「それでも、ひと目くらいは見ておきたいじゃないか」


 訝しむ魔女にジョッシュは並ぶように寄ると、南の相国谷の北端を望む。墨の一本で描いたような地平の切れ目がそれか。果たして、三騎の姿が彼らの目に見えてくる。

 休息を終えたクライフら一行は、遠くにもかかわらず、キリとひとつの意志をもって魔女らの立つ丘の一端を見据えている。

 そこに彼らがいることを知った近衛の指示しと、おそらく因縁めいた気配を放つ十の瞳が誘いとなったか。


 厳しく見据え返す剣士らの瞳を受けながら、「ひと目見るだと?」と言葉に出さず魔女は嘲笑を浮かべる。年端のいかぬ暗殺者、楽団の技術を継承せし担い手であろうと、しょせんその道具を使うのは幼き心だと魔女はあきらめた。

 なれば、そのようにするがいいと。


「今なら、剣士に顔を覚えられる前に川を下れるが?」

「妹が来ている。挨拶くらいはしておこう」


 ジョッシュはさらに一歩踏み出す。彼らからは丘の上に立つ彼の姿が見えているころだろう。騎馬の速度が一段上がったかのように、蹴り上げる土が勢いを増す。

 先頭を走る騎馬は、件の剣士だろうか。近衛のひとりの後ろにしがみついているのは妹のレーアだ。ひとり乗りの近衛が何か声高に指示を出すと、広がるように三騎が離れつつ、いっそう疾駆の速度が増した。

 ああ、あれがシズカか。と、ジョッシュは思った。ディーウェスに不覚を取らせた近衛は彼女だろうと。

 その三騎の疾駆が彼らの見下ろす平地の中央で馬首上げて止まると、総ての視線がその中央で絡み合う。


「魔女、セイリス――」


 呻いたのはクライフだった。

 セイリスはうつろな表情のパトラの首筋に己が手刀を添え、彼らを見下ろしている。三騎を止めたのは、この脅迫に他ならない。無論、パトラのそれは演技だろうが、それを斟酌する余裕はクライフにも、もとよりレーアにもなかった。

 想定外の魔女の登場と、いちばん年若いパトラを用いた脅迫は、近衛の足をもたたらを踏ませるものであった。


「ジョッシュ!」


 それでも鞍上から身を乗り出さんばかりに叫んだのはレーアだった。悲痛な叫びはジョッシュの頬を叩くが、彼はそんな彼女の姿よりも近衛のふたりに目を向ける。


「ジョッシュ!!」


 もう一度強く叫ぶ彼女に、ジョッシュはようやく目を向ける。レーアの目には彼の姿は見慣れたものに映るが、叩きつけられるような視線には温かみが欠けている。聡明で溌剌な兄の面影こそあれ、相対する何かを感じ、レーアはその口を覆うように息をのむ。


「できそこないめ」


 吐き捨てるような兄の言葉が、しんと静まる中響く。レーアは呆然とするが、ただクライフの眉間が引き締まる。


「車輪は解体だ。俺たちは潜り、世代を経て、やがて再びの生を果たす。歌も届かぬお前は、何者にも成れぬまま無様な生を生きろ」


 兄の言葉に息を飲むが、クライフが馬を進めて彼らの視線の間に入る。視線の先は魔女だ。馬首越しに見る魔女の姿は、かつて斬り伏せた狂える魔女のそれとは違う。屍人として、魔女として、十全に回復した魔人のそれである。


「この一件、奏者が絡んでいる匂いはあったが、よもやここでその姿を見ることになろうとはな。――セイリス、奏者はどこまで噛んでいる」

「どこまでも噛んでるよ。剣士、落葉の担い手、お前が考えているよりも深くな。この『楽団』の子らもその一端にすぎぬ。やれることがあればやれる手を貸す。それだけの話だ。貴様らが見えているものが、我らにどう見えているのかは知らぬ。我らの動きが貴様らにどう見えているのかには興味はない。ただ――」


 そこでパトラの首を離し、魔女は静かに呟く。


「貴様らは、朽ちてゆくがいい」


 そこで魔女は丘の後ろ、死角へと子供らをいざない、緩く腕を振り認識疎外の領域で包み込む。さしもの魔女も苦悶の表情を浮かべる。奏者の走狗であろうとも、他人への魔術施行の難度は計り知れぬものがあるのだろう。


「肉体の魔性は増しても、魔術の腕ばかりは未熟なままか?」


 その幼い声に魔女は鼻で笑い答える。視線の先はシャロンである。少女の風体からは図ることができない身のこなしで丘から顔をのぞかせる。

 見えるのは、指示を飛ばしながら三騎が回り込み始める姿だった。魔術のせいか、近衛のふたりにも彼女の姿は見えては――認識はされていない様子だった。


「ガランの食屍鬼は三体だったか。魔女殿、腹が減っているのではあるまいな?」


 嗤い振り返るシャロンの挑発には乗らず、「腹を空かせているのは、あいつのほうだ」と丘陵の東を指し示す。その先には、あの目覚めさせた魔獣。骸の魔物。


「ジョッシュ! ボルホフ! シャロン! それにパトラ! 聞こえる!? 聞こえている!?」


 シャロンはその言葉にもう一度振り返る。

 丘に向けた、兄妹に向けたレーアの叫びだった。受け取られるものと信じての叫びだった。のども裂けんばかりの、涙交じりの訴えだった。


「おい、聞いてるかボルホフ」


 シャロンがレーアに目を向けながら背後の兄に尋ねる。終始黙ったままのボルホフは、「くだらん」と踵を返す。用意された上流の小舟へと向かったのだろう。


「私は何でここに来たの!? みんなは何で向こうに行くの!? ってなんなの!? 楽団って、暗殺ってなんなのよ!!」


 ジョッシュも、シャロンも、パトラも、そして魔女も踵を返す。レーアの叫びを背に、それでも魔女は子供たちに向けて声をかける。


「あの石碑を越えようとすれば、彼女は死ぬぞ」


 石碑は、虎口丘の地境となる。あと数呼吸で三騎はそこを超えるだろう。そうすれば、あの魔獣の骸が動き出す。牙をむく巨獣との戦いとなれば、少女の命など朝日の中の霧のように消えることは想像に難くない。

 それでも子供らは、ジョッシュは肩をすくめ、「ヘマをしたのはレーアだ。死んで詫びとするだろうさ」と振り返りもしない。

 そういうものかと魔女だけは振り返る。


、か」


 奏者の前ではすべてがそれだ。それでも魔女は思う。

 だがしかし、今ではない。

 されど、ここではない。

 撫でる肩口――そこにかつて奔った女王の力を思い出す。


「何者かに、か」


 魔女は背を向ける。

 そしてそのとき、軋みの咆哮が虎口丘をつんざき響き渡った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る