第15話『死闘暗夜5 シズカ』


 崩れやすい場所ではなかった。

 地面が崩壊したと判断するまでの一瞬、シズカはこの崩落が人為的なものであることを確信していた。

 一族きっての耳の良さを得るまでに鍛え上げられた彼女は、地滑りのような音を聞きながら自由落下に身を任せる。明日しっかりと、ゆるく着地に備えている。

 衝撃はすぐに来た。

 街道を長年支えてきた地盤がいくつにも砕け、垂直に落下したのは数メートル。その後、東側に傾くように急激なスロープを形作り、彼女の体を暗闇の中へと落としていく。落ちる。まだ落ちる。風きりの音の向こうで水音を捉えると、シズカは「これはいけない」と歯を食いしばる。

 彼女が身を滑らせるそこは、流砂のような感触に変わり、くるぶしまで埋まった彼女の体をかなりの勢いで滑り落としている。


「アカネ! クライフさん!」


 叫ぶが、未だ轟く崩落の余波の中、届いているかどうか。

 アカネは聞いていただろう。応えるような声が聞こえてきたが、すぐにシズカの体は水に落ち飲まれた。

 晩夏を過ぎ深まる秋の中、それは身を切るような冷たさだった。彼女を押し流してきた砂が追随してくる中、跳ねるように水面から顔を出す。


「足は付く、か」


 水深はおよそ腰の高さまで。

 しかし――暗い。

 見上げるが、どうやら崩落した街道から東側の地下に滑り落ちた形で流されたらしい。あの傭兵の合図で何者かが引き起こしたに相違ないだろうが、ここまでの崩落を引き起こせる力を持った何者かが潜んでいる気配は、いまはまだ聞こえない。

 およそ水面より上で動くのならば彼女の耳も捉えることは容易いだろうが、水中で蠢く者であるならば、その音と気配は捉え難い。

 厄介だなと、シズカはその場で動かずにじっと腰から長剣を抜き、体の前で立てるように身構える。全くの闇の中、腰間で流れる水の感触に、立ったままその身が流されているような錯覚に陥りそうになる。

 声は――出せなかった。声を出せば、同じように落ちてきた、いや、ここに誘い込んだ傭兵に自分のおよその位置を知らせることになりかねないからだ。

 足下を、やや水底にこする。

 ざらりとしたような、滑り。

 地下水脈を担う、鍾乳洞、風穴の類いだろう。

 そう、東側の岩盤からは、掘り進めると質の良い地下水に当たる。思い至れば話は簡単だった。あの『楽団』ゆかりの傭兵は、組織が調べ上げた国の秘中の秘のひとつである、この地下水脈の存在と、活用方法を熟知していたのだ。

 ここは全き闇の世界だが、灯と足さえあれば、北に抜けるのも洞窟が繋がっている場所、洞窟とつなげた場所へと、誰にも見つからずに移動が可能なのだ。高低差もあり、長い年月をかけて水脈が削ってきた水路。こればかりはシャールのお歴々も知らぬままであったであろう。だが今回、これを公にする危険性も省みずに、アカネと自分、そしてクライフまでをも始末しようとしている事実に、シズカは相手の本気を垣間見た気がした。

 それとも、ここを棄てるきっかけでもあったのか、はたまた、ほしかったのか。そこまで考えたとき、遙か遠くで金属同士がぶつかり合う音が聞こえてきた。

 反響し合う中だが、かなりの距離だと聞いて取る。

 アカネか、クライフか。

 どうやら落ちた場所も、三人が三人とも別の場所のようだった。合流できるか、はたまた援護に向かえるか。その感情がうなじを焦がすよう鎌首をもたげてきたとき、ふと、シズカは息を緩く吐き出した。

 焦るな。

 先ほどまで自分が対峙してきた敵の姿を思い浮かべる。

 闇の中で緩く構えたまま正面を見据える。闇は、黒よりも様々な模様が浮かび上がる。目を閉じたとき以上に、その深い深い朽ちた緑のような闇の中には、様々なものが浮かび上がりは消えていく。

 水の流れが、早まった気がする。

 上流側からの水の流れを受ける腰に、やや重みが加わった。流れが速くなったのか、上流で何かが動いたのか、はたまた。


「闇の中で混乱も見せぬとはな」


 男の声。

 頭上からの声に反応して顔を上げかけたが、確認した足場の範囲で踵を返し、背後から放たれた低めの一撃を長剣で叩き返した。

 諸手に衝撃。おびただしい反響に歯を食いしばる。

 今の一撃は剣だろうか。音の響きからはそう推察できるが、しかし剣の届く間合いにいるにしては――おそらく盾を持ったあの傭兵――バーンドルの気配がない。音の少ない革鎧にしても、息遣いや身じろぎの気配も感じられない。


「音の反響。厄介ですね、さすが『楽団』。さては元暗殺者ですね?」


 シズカの言葉に返事はなかった。

 元暗殺者。

 その推察は正しいだろう。

 子供から暗殺者に仕立て上げたあと、『楽団』は成長した使える子供たちを野に放つ。元暗殺者の楽団員は、大人になった後も、組織のために国に根を張るのだ。

 まるで土着の植物のように、侵食して、土に馴染み、種を落とし、実を結ぶ何かのために我が身朽ちるも厭わずに、事を為すのだろう。

 そう、おそらくはディーウェスなる夫妻も、元は楽団の子等だったのだろう。その可能性は高い。


「聞きたいことができました。喜びなさい、殺すのは勘弁してあげましょう。おとなしく従うならよし、さもなくば、死んでいないという面白くもない有様にして差し上げます」


 このときばかりは、気配が生じた。

 圧。

 目の前で水面がせり出したような気配に、しかしシズカは再び振り返り態にその長剣の切っ先を勢いよく水底に向けて突き立てた。

 瞬間、シズカの足を凪ぐバーンドルの一撃は、彼女の長剣に阻まれる。弾き止められたまま跳ね上がる切っ先を、シズカは身をよじり躱し、勢いを付けた膝を水中で穿つように跳ね上げた。

 重い衝撃が膝を捉える。

 広背筋と足腰に支えられた重みのある膝が、存分にバーンドルの左頬を捉えていた。水中ゆえに、その衝撃よりも重さが響いた。


「やはり、水中でしたか」

「近衛は化物かよ」


 背後で水面に浮かび上がったのは、彼の盾だった。それを知るのはバーンドルだけであるのだろうが、音の軽さから囮と判断したのはシズカの勘だった。

 薄手の革袋には、空気が詰められていたのだろう。

 落下着水の際の浮き袋にもなれば、加減をすれば水中で呼吸をする際にも役立つだろう。呼吸がその袋の中で完結していれば、呼気が水面に上がり気がつかれることもない。


「耳が良いと――誰から聞きました?」


 聞くだけ愚問だろうと思うが、シズカは聞く。

 まさに気配を捉えた今、この会話こそが彼女が勝利を手にする鍵だったからだ。


「さてね」


 バーンドルは呼吸を整える。

 地の利。

 この水脈を縦横無尽に知る男は、シズカの着水から短時間で決着を付けるべくすべてを掛けていた。だが、このシズカという近衛。かの一族の生み出した、また別の生き物は、格が違うようだった。


「小細工せずに戦えば、まだ私なら倒せたでしょうに」

「言うじゃないか」

「あら、本当のことですよ。傭兵としての現在の強さを棄てて、今はもう過去の栄光ともいうべき暗殺の技に頼ろうとしたあなたが私に勝てるはずもございません」


 あっさりと言い放つシズカの言葉に、しかしバーンドルは怒りが湧いてこなかった。何故だろうと考える前に、シズカが動いた。

 全くの暗闇の中で目が見えぬのは彼も同じだった。しかし、着水から大まかな地点の道理を弁えていたために、こうして奇襲も掛けることができた。防がれたのはシズカの勘と強さが上回っていたからだが、こうして仕切り直しとなった今、持ち前の能力がすべてを左右する。


「返します」


 そう言って投げつけられたのは、バーンドルの盾だった。

 浮き、流されてきたそれを手に、シズカが投擲したのだ。水音と風斬る音に守りの構えを取る傭兵の、はるか左後方で石灰壁にぶち当たる盾。

 ――囮。


「あら失礼」


 それに気がついたのは、自分の背後から聞こえてきたシズカの言葉。

 何故、この一瞬で背後に回り込んでいたのか。

 何故、この一瞬で近衛の長剣が自分の右拳を容易く切り落としているのか。

 何故、この一瞬でまたも正面から切れの良い掌底を叩き込まれたのか。

 何故。

 いくつもの何故を沈む頭で考えつつ、膝から水面に沈み往く傭兵。


「刹那の見切り誤りが命取り。我らを侮られるな」


 やや古い言い回しを呟きながら、シズカは傭兵の血止めと自殺防止の拘束を素早く行い、音の反響から割り出していた水路通り道へと彼の体を転がす。

 同じく這い上がると、「さて」と一息つき、耳をすます。

 反響がひどい。

 音から周囲の地形を割り出すのはかなり苦労だが、灯を灯すにはまだ早い。他のふたりが闘争している気配が伝わってくるからだ。


「アカネはまずまず。しかし――」


 未だ底の見えぬ実力の剣士の無事を祈り、ふたつの気配を探る。

 さて、どっちがどっちだろうか。


「わたしの耳もまだまだね」


 それでも彼女は、水路を上流へと進み始める。

 急がねばなるまいという決意を込めて。おそらく、勝負は長引かないという確信のもとの、焦りでもあった。


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