第16話『死闘暗夜6 アカネ』


 体が落下し始めたときには「まずい」と身構えた。隠し持っていたナイフを投げようとしたが、思いとどまる。短槍使いのアルスティーンがその槍を崩落する地に突き立て、そこを支点に身を翻すように後方へと飛んだからだ。


「闇か――」


 夜闇ではなく閉ざされた空間による闇を予想し、アカネは内心自分は死ぬかもしれないと、薄く覚悟した。

 シズカは近衛の中でも、群を抜いて強い。戦闘能力ではなく、かなりの強かさを持っている。様々な局面で縦横無尽な強さを発揮するシズカとは別に、アカネは自分でも認めるほどの後方支援役だった。

 里で一番の機転、ごまかしの利かぬ才媛といわれたアカネだったが、近衛を担えるほどの腕は持ちつつも、この手の状況で立ち回れる自信は無かった。

 文字通り、鼻の利く特技は持ちうるものの、闇を見通す目もなければ、短槍使いとの武技による攻防を暗闇で凌げるほどの自信はない。


「ああ、しかもこれは。なんてこった、水か。水はマズイ」


 アカネははっきりと吹き上がる澄んだ水の匂いを感じていた。流れる気配と、むわりとした濃密な湿度。地下水脈まで通じているのだろう。

 匂いの拡散と沈着、そして消失を促す水気。

 なかなかに、アカネにとっては悪条件の舞台へと落ち行くようだ。


「――にゃッ!」


 しかし彼女は焦ることを辞め、覚悟を整えた。覚悟をしたのではない。あくまでも、やることの優先順位を整えたのだ。

 まずは、無事の着地、または着水。

 その後、短槍使いとの決着。

 さらに、他のふたりとの合流。

 ――いちばん最後が難しそうだニャー。

 内心の軽口が出る内は、まだ戦える。

 アカネは水の匂いがいっそう濃く巻き上がって来た瞬間に、地を蹴った。ふわりと浮いた体は、轟音立てて水に落ちる岩盤の波の向こう、ややすれば石灰石の突き出た足場の手前へと着地する。

 岩盤のスロープに流され、随分と南へと落ちた。上を伺うと、やや北、四階建ての高さあたりのところに、茫洋とした夜空がちらりと見える。

 そんな僅かな明かりに目が慣らされた瞬間、土の匂い。

 アカネが振り向きざまに跳ね上げた長剣が、投げつけられた刃物を偶然はじき返す。重い手応え。激しい金属音が轟き、アカネの手は痺れを覚え、その長剣を構える後方に投擲された短刀がドプンと沈み往く。

 刺し殺すように投げられたものではない。力任せに投げつけられたものだ。様子見――うまくいけば倒したい。そんな荒い攻撃だったが、短槍使いの放ったものに間違いはないだろう。あの土の匂いは、あの者の匂いだ。


「シズカには聞かれただろうニャー」


 あの耳のよい何でも屋は、きっと聞いている。聞こえている。彼女もまた、自分と同じく闇夜の中での戦いを強いられているのだろう。――が、心配はしていなかった。あのシズカだ。彼女はきっとうまくやるし、その後もきっとクライフの元に馳せ参じるだろう。

 いつだって、近衛は、彼女たちは、目的を忘れない。

 死なせてはいけない人間を、死すら厭わぬ人間が護らねばならない。

 さて、どう出る。

 アカネが五感を働かせようと、まるでネコ科の動物のように足場で身を縮こまらせる。獲物に飛びかかる寸前のそれである。鼻には、流れる匂い。下流に陣取られているのはそれとなく伝わってくる。風下であることも同意だった。アカネは自分の位置の不利を知り、同時に短槍使いアルスティーンの場慣れを感じ入っていた。

 ここは、彼らの庭なのだろう。

 その思い至りはシズカと大差はなかった。なかっただけに、生きねばならぬと決意し、さらにはただでは死ねないと冷たく息を吐く。――息を止める。己が呼気から生じる匂いさえも疎ましい。無呼吸での、索敵。

 水音。

 シズカほどではなくとも、集音と音の分析は人並み以上。アカネの耳には、確かにアルスティーンの気配を捉えている。――その後、殺気。意図しない場所から知覚に反応が来ると同時に、長剣を斜めに掲げて身を完全に伏せた。


「……勘がいい」


 アルスティーンの感心する声は、耳元を掠める死の羽音と同時だった。

 ――投擲武器。

 それも、円状態のものか、回転により重心を移行させることで複雑な軌道を描く薄い刃物。何かを投げつけられた。土の匂いがしなかったと言うことは、水中で洗ったか、どうか。

 詳しい分析はしない。

 要は、離れているだけ不利ということだった。


「近衛は度胸ッ」


 ニャ! と内心押し殺しながら、暗闇の中、あろうことかアカネは跳んだ。目の前に障害物がある恐怖に、足下が無限の底に落ちそうな感覚の前に足を踏み出せぬものだが、暗闇の中、彼女は勢いよく跳躍した。声の方向に。

 柔らかい着水。水の深さは膝下、感触は石灰岩、柔らかい着地で腰を落とし、両腕を伸ばし目の高さに上げた切っ先を保ち、速いすり足で闇の中で間合いを詰める。


「ややッ」


 これに舌を巻いたのはアルスティーンだった。

 自滅を誘うためにちょっかいをかけたが、さすがは近衛。生半可な相手ではなかった。しょせんは鼻の利くだけの女であると侮っていたのを内心謝罪しながら、短槍を構える。


「…………ふぅ」


 腰を落とした己が正面、目の高さの切っ先をそのままに、アカネは諸手で構えた長剣の柄を、左前方、肩の高さまでスゥと上げる。刃は水平に寝ているが、切っ先はそのままの高さ。闇を見据える目線が、切っ先を通して真っ直ぐにアルスティーンへと注がれている。

 無論、一寸先も見えぬ闇の中だが、それは確かにアカネは感じていた。経験に裏打ちされた『勘』という才能がささやく、不確かで強固な確信。

 アルスティーンも、かろうじて上の孔から注ぐ明かりで彼女の姿を捉えていたに過ぎない。夜目は鍛えたが、それが限界だった。同じように暗夜に身を投じた彼女を、彼も捉え切れてはいない。


「小細工が過ぎたか」

「ごめんね。こういうのは不得意で。加減ができないの」


 アカネの足が、スゥと、進み往く。水の音がうねらない中、足下はそう歪ではないという希望の元、どうとでも動けるよう柔らかい構えのまま、彼女は間合いを狭める。左前方から諸手で支える剣は、いわば触覚だった。その先、剣にかかるすべてを知覚し、相手を探る。アカネのできる限りの戦法だった。

 アルスティーンの構えが、左足を前にした半身に移行する。短槍は垂直に右に立てられている。両手で軽く支える穂先は、顔の横に。非常に小さい構えだが、打ち込みは早い。一撃で決められずとも、身もすり合うような接近戦で畳みかけるのが彼の闘法だった。

 じわりと間合いが詰まる。

 隠しきれない、呼気。

 気配も匂いも、すべてが一足一刀の間合いと示していた。


「邪魔だな」


 アルスティーンがそう感じたのは、彼女の構える剣だった。まるでこちらの打ち込みを阻害するかのように寝かされ、突き出された剣。右からの打ち込みはその剣に阻まれ、正面、やや左からのものはこちらの動きに隙ができやすい。いや、この暗夜の中、あの構えのままである確信はない。あるのはだけだ。


「ひとつ間違えば血に沈む」


 アカネは、整えた覚悟をしっかりと胎に決めた。どこから来ようと、即死しなければ殺せる。そう信じて。情報などは、シズカにまかせる。自分が生き残り、かつ、仲間を助けるためには、ここでこの短槍使いは殺さねばならなかった。捕まえたら、離さずに斃す。相手は逃げずに来る。確信はない。あるのはだけだ。


「――!」


 どちらの気迫だったか。

 正面から真っ正直に打ち込まれた短槍が、長剣に触れた。その瞬間、柔らかく流された。左に踏み込んだアカネが同時に剣を胸元に立てるように引いたからだ。剣と槍は、かすかに触れ合ったままという具合の中、瞬時に動いたのはアルスティーンだった。

 反応して動いたわけではなかった。あらかじめ、畳みかけるように攻撃を組み立てていたのだ。アカネが判断したように、水底はまだ平たく安定している。彼の動きにも支障はなく、その確信が闊達な攻撃を支えていた。

 槍の穂先が後方に転じる。跳ね上がってきた石突きがアカネの左腕をえぐるように抜けるが、彼女はズイと身を寄せて打撃点をずらす。それでも肉が削がれるかと思うほどの一撃を受け、アカネがたまらず重心を崩す。覚悟がなければ後方に跳んでいたかもしれない。しかし、今は距離は取れなかった。

 短槍使いの踏み換えた足の間に身を滑り込ませるように踏み込み、切っ先を突く。柄で受け流される。同時に降ってくる槍を寝かせた剣で受け流す。長剣の柄がしらで鎖骨を砕かんとするも、半身で躱される。

 その瞬間、お互いがお互い、「ここだ」と思った。


「――ッ」


 武器を手放した。ふたりとも同時に。

 相手の右手を己が左手で掴んだ。ふたりとも同時に。


「つかまえた」


 交錯の中の僥倖に、そう飲み込んだのはどちらであったか。

 暗闇の中の相手の存在に安堵したのは、どちらであったか。

 アルスティーンがアカネをねじ伏せるよう身をねじった瞬間、彼女はふいに力を抜くと、大きく身を沈める。左足を大きく引き、体にまくように引いた腕で相手を崩すと同時に、垂直にねじり上げた腕を掲げる。アルスティーンの掴んでいた腕が、体幹から発揮された軸のちからで振りほどかれている。

 彼女は右腕を男の右太ももを内から巻くように絡めると、身を反転させ、肩に乗せるや一気に後方足下に投げ落とす。

 回避行動を許さぬ勢いで、アルスティーンの頭蓋は水底に叩きつけられる。瞬間、アカネの膝が顎に乗せられ、ふたり分の体重を掛けたねじ切りが脛骨を完全に破壊した。


「秘投、必殺。『葛踊かつおどり』――。……痛ゥ!」


 己が背を向くように首をねじ切られたアルスティーンの体が倒れ伏すと、彼が持っていたであろう隠しナイフがアカネの左肩甲骨の上から抜け落ちる。

 彼女には何に傷つけられたかは判断できなかったが、浅い傷だが、投げに遅滞あれば斬られていたのは頸動脈であっただろう。際どい勝利だった。それしか思い至らず、今になって肝が冷える思いだった。


「着込みに食い込むくらいやられるとは……。未熟未熟……ニャ」


 さて、とアカネは手探りで長剣を拾い立ち上がる。

 こうはしていられない。

 シズカも、クライフもまだ戦っているのかもしれないのだ。

 この暗夜の中で。


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