第25話『因縁』


 魔女セイリスは、肉体に残った意識の残滓と『奏者』の呪力によってかろうじてガランを北に抜けたものの、ひどい飢えを意識できぬままに漠然と心に残っていたベルクファスト銀嶺士領へと飛ぶように突き進んでいた。

 顎より上を鈍色のマルクに削ぎ飛ばされ、目も耳も鼻も利かず、さりとて忌々しいことに屍人としてのちからか、はたまた右手を伝う宝玉の力が為せる業なのか、意識こそないが、目的に向かうに足る認識ははっきりと持てていた。

 ――ベルクファスト銀嶺士に。

 ただそこへ向かい、彼に会い、渡すだけの人形と化したセイリスに、夕焼けの赤い光が落ちる。夜は屍人の時間。嫌なにおいを発している自分の頭部を気にする鼻がないとはいえ、気温が落ち着くのは心地が良かった。

 筋肉の限界を超えた体の節々は断裂、破砕など、生きていれば地獄の忍苦を強いられる怪我だが、その故障は暗い魔力によって補われ、更なる力となって彼女の体を推し進める。

 日が落ち、夕闇からストンと暗さが増すころには、彼女は林道を抜け、街道へと身を躍らせた。

 ひどく腹がすいている。

 しかし、空腹を、命への渇望を認識できぬまま、己を消費する形で肉体を朽ち果てさせながらも彼女は走った。

 ベルクファスト領に着けば、ほどなく肉体は崩壊するだろうことは明白だった。

 それでも彼女は足を止めなかった。

 宝玉を放さなかった。

 なぜかもわからぬままに。





 夜半。

 地方領主である銀嶺士ベルクファストは普段着のまま、家格にそぐわぬ小ぢんまりとしたもとは平城であった邸宅を供も連れずに出る。

 三十も半ばを過ぎたが彼の心は未だ暗く燃えており、その草臥れた印象以上に手負いの獣を前にしたかのような危なさを相手に印象づける。

 月明かりだけで充分に見通せる草地。そこを南へと抜ける道の白い上を、重い足取りで、しかし早い足運びで進む。

 十五年。

 彼が、アイルストン=ベルクファストが孤独になり、もう十五年だった。

 彼が、シャール許すまじと心に暗い火を灯してから、もう十五年だった。

 村落を荒らす獣は駆除している。夜盗落ちした破落戸ならずものの類いもこの数年出てはいない。領民の生活も港町ガランに近い北街道沿いということもあり安定している上に、彼は公共事業としての道路整備や領土の維持に力を入れているので、生活は豊かであった。

 ただ犯罪だけはそれでも無くならなかったので、専らベルクファスト銀嶺士領の衛士たちの仕事は、この防止と謙虚にあった。今アイルストンが夜道を灯も持たずに歩き回れるのも、「他にやれることがない」という彼の口癖の通り、それに傾注している衛士たちの功績であった。

 自分、国の衛士含め、領民、それらを支える収入も今は盤石に思える。

 ありがたいことだった。

 しかし、彼はそれでも、自分が生きるこのシャール帝国が嫌いであった。

 とりわけ、エレア=ラ・シャールが嫌いであった。憎んでいるといってもよかった。それ以上に恐れているのは彼自身よく理解しているつもりだった。

 エレアの母はこの国で生まれた。アイルストンの妹として生まれ育った。名は、エリゼ。この十数年顔も見てはいないが、エレアは母に生き写しのような成長を遂げていることだろう。

 城からほど近い橋を渡ると、普段は意識的に目を背けているとある一画を、今夜ばかりはふと、そこへと目を向けてしまう。

 治水が行き届いた領内の中、ただそこだけは、かつてのあの日のままであった。十五年前のままだった。

 橋の先を左手に折れた先、かつては林道の果てにあったであろう邸宅跡。いや、そこにかつて邸宅が建っていたことを知るものは少ない。ましてや、このような枯れ果てた木が幽立する広い窪地だけを見てそれを想像できるものはいないだろう。

 ここだけは。

 ここだけは、アイルストンはけっして直そうとは、整地しようとは、罪を隠そうとはしなかった。心を背けはしないと決意し、目を背けた。

 十五年を経て、それが今日、目が行った。


「――魔女か」


 そのきっかけ。

 アイルストンは静かに誰何した。

 暗闇に溶け込むような屍人色の褐色。幽立する枯れ木と見紛うかのような立ち姿。

 顔の上半分が削ぎ飛ばされているその異様な姿にも関わらず、アイルストンはそれが魔女セイリスであることを理解していた。

 セイリスは生者の気配に振り向く。

 ガランより夜通し走り、ひどく飢えているはずだが、アイルストンに仕掛ける気配もなければ、アイルストンも仕掛ける気配がない。


「予定通りだな」


 相手が答える術がないのを知っていても、話しかけざるを得なかった。


「宝玉は」


 との問いかけに、セイリスは持っている宝玉を差し出す。歩み寄り受け取るアイルストンは、それをつまらなさそうに一瞥すると、興味もなさげに懐にしまい込む。


「こんなものが国の根幹を担っていたとはな」


 色の窺えぬ言葉を吐き捨てる。


「……話は通じるのか? それとも、惰性で動いているだけなのか?」


 さて、と仕切り直したアイルストンだが、それに答える者はいない。


「そのままではどうしようもあるまい。追っ手もかかろう。数日後の来る満月の夜、導師が来るまで匿ってやる。着いてこれるか?」


 その言葉に、魔女セイリスは体を向ける。どうやら、意識はないがそれらしく動けるようには染まってきているらしい。


「体も修復せねばなるまい。追っ手も討たねばなるまい。地下牢ならば誰も近寄らぬ。家畜の死骸を流し込み、もっともっと、貪欲に染まり抜いておくがいい。魔女セイリス。忌々しい奏者の手先め」


 踵を返すアイルストン。

 セイリスは静かに着いていく。砕けたすじ肉の足で。いびつに。しかし、力強く。






「それ以来、私は燐灰石の尖塔に住むようになったわ」

「――今なんと?」


 同じ夜。

 クライフは林道の脇で野営を組みながら、ぽろりとエレアが口にしたそれを聞き流してしまいそうになり、まさかと思い聞き返す。


「実の母と伯父の妻と子を屋敷ごと吹き飛ばし、私は王族となった。それ以来、私は燐灰石の尖塔に住むようになったの」


 馬が、ブルと鳴く。

 黙って聞き終えたクライフが馬の頭に留まった小鳥エレアの言葉を反芻しながら、腹に落ちるにつれ、表情が引き締まっていく。


「以後、公務で領内を通ることはあれど、この状況がひどくなってからはとんと疎遠になっている。書状はやりとりすれども、顔を合わせたことは一度もない。伯父とはいえ、アイルストン=ベルクファストと私の間に面識らしい面識はない。向こうは私を知っているとは思うけどね」


 ふむ、とクライフは頷くも、「妻と子を、そして妹を、か」と内心で呟く。その心情たるや、いかほどのものであろうか。そしていつぞやのベイスの言葉を思い出す。魔力の発露、王族であると発覚する場合、「とどのつまり、に初めて分かることが多い」というあの言葉。

 言い換えると、「実の母と伯母と従姉妹を、生まれたばかりのエレアが――」ということになる。

 これは傷だ。

 その傷に触れてはいけないという気持ちと、その膿んだ傷に集るハエのように飛び交う魔女や『奏者』の陰に、因縁じみたものを感じずにはいられない。それはエレアも同じだろう。いや、エレアはこのすべてが自分のせいであると確信している。それはクライフにも分かった。


「落としどころは考えねばならぬな。クライフ、言ってはなんだがシャールとは縁もゆかりもないあなたがいることに感謝するわ。いや、それでもかすかな……確かな縁はあったのかもしれないけれど」


 と、落葉に目を向ける二人。


「因縁に、心の隙間に魔が付け入ることは良くあることでしょう。私もこれまでの短い人生を振り返れば、思い至ることは我が身を思っても、相手を思ってもいくらでも出てきます。……ともあれ、敵がどう動くかです。少なくとも、ベルクファスト銀嶺士が自分で使うものとは考えられません。手引きしたにしろ、なんにしろ、魔女セイリスがあの状態ではどうしようもないでしょう」


 エレアもそれに頷く。


「明日には銀嶺士領。休んでおきましょう。いいこと? 宝玉の奪取こそが、勝ちの条件。それを嫌みったらしく兄上の使者に返すのが今から楽しみで仕方がないわ」

「よかった。あの二人、目が覚めたのですね」

「ええ、先ほど。浸着装甲の騎士アリッサはあなたたちのあとを追おうとしたけれど、また前後不覚に陥って貰っても困るからと説得したわ。ひどく落ち込んでいたけれど」

「増援は無しということですね」

「そういうこと。私も、姿を隠すほかはない。クライフ、あなたは奪われた宝玉を取り返すために雇われた者として、伯父の周辺を調べ、奪い去られる前にこれを取り返すことが仕事です。場合によっては――」

 不敬とは思ったが、クライフはエレアのその言葉を遮る。

「なんとかしましょう。我が身の大事がまず先ですが」


 笑う剣士に、苦笑する。


「そうだな、それがまずだな」


 エレアはチチと鳴く。

 思っている以上に、この糸は絡んでいる。絡み合い結びつき、引っかかりあって、重く垂れ下がっている。どこに繋がり、どこに垂れるのか。

 ――奏者か。

 エレアは内心呟き、クライフを見る。

 確かに何かが動き始めていた。十五年前か、はたまたそれ以上前からか。いちどシャールから消えた落葉が、再び新たなる遣い手を伴い、戻ってきた。エレアの元に。力強き無力な姫の元に。

 ――縁か。

 果たして、どう転がるのだろうか。


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