第19話『追跡行』
鈍色のマルクが回る世界からようやく回復したときには、水追いの広場は騒然とした様相だった。
落とされたと思っていた橋は無事であったし、なぜ自分があのような失態を演じたのかが、分からなかった。
ただ、現実に広場中央――丸盆には牛頭の悪魔の死体がある。
現実だった。
「おい、水晶の爆煙があったというのは本当か」
マルクが兜を脱ぎながら赤獅子の相談役に問う。
「連れてこられた奴だろう。近衛と新参は魔女を追ったよ」
「魔女か」
橋が破壊されたという認識。
前後左右天地を把握する認識。
マルクを含め、多くの傭兵たちが一瞬のうちに術中にはまったのだろう。
「よほど新参を始末したかったと見える。――さて」
マルクは相談役と矢を回収する仲間、そして他の傭兵団の隙間を縫って、件の悪魔の死体へと近づく。
「こんな魔物、北の蛮族たちの国にしかいねえと思うがなあ。シャールじゃあまりお目にかかれない大物ですぜ」
「一匹だけというのも頷ける。仕舞って、持ってこられたんだろう。街中でおっ始めるなんて、常識のねえ奴らだ」
「ところで魔女とおっしゃいましたか」
マルクは牛頭の死体の傷を見て、新参の腕も侮ったものではないと感じていた。手首の断面は鮮やかで、圧し斬ったと思われる下腹や、頭蓋ごと両断された頭部を伺うと、武器も業物らしい。
「何人かが目撃した。うちの三階からはよく見えたらしい」
「目を付けられたのは近衛でしょうか、新参でしょうか。まあこれを見れば両方でしょうが。……追いますか?」
「矢の援護をしたんだ、腕前の見物料は払ったさ。それに、うちの人間らを動かすほどの報奨金も出そうにないのに、働けるか?」
それもそうですなと、マルクはひとつ、はははと笑う。
「この喧嘩、奴らのものですな」
「そういうことだ。――この死体はうちらで片付けよう。それくらいはしてやらねばな」
「角は無傷ですからな」
強大な魔物の角などは、好事家に高く売れるのだろう。
傭兵は只では動かない。自分の領域で騒ぎが起きた先ほどは自衛のために矢を射たが、手助けはしない。ましてや、ここにいる傭兵団は赤獅子を筆頭に雇い主がちゃんといる。二王子たちをはじめ、諸侯との雇用関係にある。勝手はできない。
「報告は上げておくがな。なあに、ネズミの一件といい、今回の魔女の一件といい、金になるようなら動けるだろう。……個人的な手助けはするなよ?」
「へいへい。……じゃあ俺は何をしてましょうかね?」
「傭兵の流儀に則って、好きにしろ」
相談役はそう言い含め、部下たちに指示を出す。牛頭の悪魔は瞬く間に解体され、角を始め金になりそうなものは分配され、そうならないものは捨てられる。
その作業を眺めながら、「好きにしろ」と言われたマルクは鉄棍を担ぎ直しながらつまらなさそうに「でもなあ、好きにしろと言われてもなあ」と思案顔だ。
しかし、「傭兵の流儀」という文言を思い出し、はたと天を仰ぐ。
「なるほど、やられたらやり返せか」
なんたることだ。
魔女セイリスは左目からしたたる出血を布で押え拭いながら、街路を疾走していた。早い。軽装と言うこともあるが、伸びゆく四肢に遅滞はない。
なんたることだ。
もう一度、歯がみする。
牛頭の悪魔が、いとも簡単に屠られた。只のひとりの犠牲者もなしだった。逃亡と援護を阻止するために、橋を落とした幻影を見せた。牛頭に影響が出るのを恐れ、剣士と近衛ではなく、脅威である『鈍色のマルク』の認識を乱した。矢は、ものともしないだろう。
しかし、やられた。
斬ったと思った瞬間には、返す刀で致命傷を与えていたように見える。あの牛頭の筋肉がいとも容易く斬り裂かれた。分厚く頑丈な頭蓋を断ち割った。
そして感じた。
女王の匂いのする武器は、あれだ。あのゆるい曲線を描く剣だ。
あの剣が牛頭を斬り裂いたときに体を駆け巡った稲妻は、確かに女王のものだった。シャールの力だった。
近衛の罠か。
あの新参の傭兵は、流れ者ではなかったか。
残る正八面体は、ひとつ。
魔物を封じ込めた黒水晶。それが、あとひとつ。虎の子の秘宝だった。水追いの広場で使用した幻術で、今はもう術の方も打ち止めだった。左目の毛細血管が弾けたのか、流血は未だに止まない。鈍い痛みは疾走に早める心臓の鼓動に併せてずきりと痛む。
店をかき分ける。
人並みを縫う。
奔る。走る。
背後を伺う。
「――しつこい!」
追いつく勢いの近衛の制服。あの場にいた近衛、ウラルだった。さすがに地の利を得たウラルの動きは速い。撒こう撒こうとする動きを読んでいるかのように、ピタリと付いてきている。完全に捕捉されている状況の中、セイリスは逃げ切ることを諦めた。
「くそ、追いつけねえ」
ウラルも焦っていた。
足取りの流れを追うにつれて、魔女の行き先が港――燐灰石の尖塔に向かい始めているのを感じた。
ウラルの後ろ、遅れてクライフも走る。
漆黒の鎧を鳴らしながら、疾走している。落葉の鍔は左手でしっかりと胸元に、全速力で疾走をしている。息が上がり始めるが、ここからは長い。騎士として、剣士として、装備を身につけての持久力は鍛えてきた。
「これは、撒くのは無理かしら」
セイリスは、ウラルが行動する、とある一定のタイミングで呼子笛を吹いていることに気がついていた。吹き鳴らし方は都度違うが、呼応するように周囲からも聞こえはじめ、それが近づくにつれ、諦観が彼女の脚をエレアの元へと向かわせる。
逃げるのではなく、攻めるために。
疾走する。
店をかき分ける。
人並みを縫う。
奔る。走る。
背後を伺う。
脇道を伺う。
明らかに、衛士が増えてきている。
逃げられる道から塞がれている。
左目からの出血は止まらない。
認識を阻害する術は、まだ使えない。
術を修め山野を駆け、腕を磨いたとはいえ、術の使えぬ術士が武器もなくシャールの衛士に勝てるはずもない。武器があったとて、付け焼き刃で通用する練度のものは、このシャールに、ガランにはいない。
八方塞がりの中、左耳のイヤリング。その正八面体の黒水晶に触れる。ここに封じた、奥の手。それを発動させるために、なんとしてもエレアの居城――燐灰石の尖塔へとたどり着かねばならない。
ここから飛び出す魔物は、周囲を巻き込み暴れるだろう。そこにエレアが巻き込まれなければ、意味を成さない。その規模で暴れなければならない。自分が、魔獣が衛視たちに斃される前に、エレアを害さなければならない。
あと数分で倉庫街、更に走れば、燐灰石の尖塔まではすぐだ。そこまで行かずとも、エレアの気配が感じられるなら、魔獣はその匂いを辿り彼女を襲うだろう。
囲む気配が増える。
倉庫街を抜ける。
息が上がってくる。
魔女は海岸線に出るや、東に駆ける。サンダルが蹴る石畳が、いつしか草土に代わり、視界が開けた瞬間だった。
その光景を、ウラルも、クライフも、駆けつける十人あまりの衛士も見た。
蒼空に黒い点のような物が見えたと思った瞬間。
ビシィ――。
のけぞる魔女セイリスの眉間から、矢が生えていた。細身の鏃は脳幹を引き裂き小脳を破壊していた。運動中枢を破壊され、彼女は勢いのままねじれるように倒れる。
矢の尾羽が土を削り、力のない脛骨をグイと跳ね上げ、いびつな姿勢でそれは止まった。
林野の手前に、ひとりの少女がいた。
半弓ではなく、長弓を手に佇む少女。アリステラだった。
長距離の狙撃を成した彼女は、死体に駆け寄る幾人もの猛者を確認すると、ひとつ伸びをして肩を回す。
恐ろしい腕前だった。
「あのバカ、殺しやがった」
衛視たちの賞賛の中、それでもウラルの評価は手厳しい。
「狙撃か――」
クライフも舌を巻く。
死体の側でイヤリングを注意深く引きちぎり、絶命を確認し、ウラルは衛士に「死体は任せてもいいか?」と聞く。
衛士は頷き、「では、検分を?」と問い返す。
「検分はうちの姫さまが……と、明日はそうか、アレがあったか」
その言葉に、衛士もはっとし、「北の門には、すでに使節が到着してるとのことです」と報告する。
明日。
件の『回収屋』たちのことだろう。
「明後日。ん~、明明後日まで、安置しておいてくれ。なに、少しくらい腐っていても構わん」
「承知いたしました。おい、運ぶぞ」
衛視のひとりが仲間に声をかける。突き刺さった矢はそのまま、体格のいい一人が担ぎ上げる。声をかけた者は、そこに自分のマントを外してかぶせ、遺体を隠す。
「では」
一声かけて去って行く衛士。駆けつけてきた割には、みな一様に息は上がっていない。
練度が窺える。
「さて、背後関係、手がかりは、まずはあとだな。しかし、良くやったな新参」
と、『新参』を強めにウラルは褒める。牛頭戦のことだろう。魔女を仕留めたひとまずの安心感が、口を軽くさせたようだった。
「あの女、いったい何者でしょうか」
「少なくとも、外見は西方。しかし、持ってきた魔物は北方奥深いやつだったな。……つまり、どこの手先か、目的が何かは、まださっぱり分からんてことだ。エレア姫を害しようとしてるのはなんとなく察するが、その理由は……それこそ余りあるな」
はははと、自嘲気味に笑う。
クライフは思う。
国力の要は、王と王子たち、諸侯の元にある。
その活動を支える魔力そのものは、エレアが文字通り供給している。それは分かる。それを分断、ないしは亡きモノにするのが目的であれば、それこそ容疑は総ての外国にあるのだろう。
「つまり、なにもわからんと?」
「つまり、なにもわからん」
ウラルは笑う。それこそ、折れてはいられぬとばかりの、あのニンマリとした笑いだ。
「ともあれ、明日。二王子の使者が事を終えたら、じっくり構えよう。あれほどのもの、そうおいそれとは起こらぬだろうからな」
掌にのせた正八面体の黒水晶。それをクライフに見せながら言う。
「姿は西方、魔獣は北方、そしてこの秘宝は東方ときた」
そのどれか。
そのすべてか。
そのうちどれでもないのか。
様々な『何故』に、彼らはただ、重く沈黙し一息つくのみであった。
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