第18話『牛頭』
水追いの広場を見下ろす、南側の建物。この広場にあることから、名うての傭兵団のものと思われる。掲げられる団旗は、赤獅子とは違い第二王子直属を顕す濃緑に、荒鷲の紋章。
赤い丸瓦を無数に組み合わせた屋根の上に、褐色の肌をもつ年の頃二十半ばと覚しき女が立っている。髪は焦げ茶で軽く波立ち、身に纏う衣服は薄いベージュの貫頭衣で、朱色の腰帯できつく締められている。紺の股引きは足首で締められ、革のサンダルといった出で立ちだった。
魔女の名はセイリス。
男を高純度の呪いでネズミへと変貌させた女は、その呪いがいとも簡単に断ち切られたことを知るや、情報を求めて一日、歩き回っていた。
そこで知ったのが、件の剣士、クライフの存在だった。
その剣士は今、見下ろす広場の真ん中で、かの傭兵『鈍色のマルク』との攻防を繰り広げている。
年若い風体、動きは切れるものの、目を見張るものはなかった。地味な動きの中で、魔物を倒しきれるものは感じられない。
「やはり、倒したのはエレア=ラ・シャール本人か、近衛の者か」
ネズミの魔物は、通常殺しきれる存在ではなかった。ネズミという外見ではあるものの、そこに注ぎ込んだ呪いはすさまじい濃度であった。
その証拠に、彼女が感じた呪いの消失には、確かに女王特有の鮮烈な魔力を感じたからだ。少なくとも、目下あの剣士が使う武器でも、ましてやあの近衛に預けた『名剣』などではないだろう。
この一件、エレアの画策した罠だと思っている。
ネズミの初手で目的は遂行できると踏んでいたが、そう上手くはいかないらしい。彼女は近衛への認識を改めると同時に、残り少ない持ち駒を効果的に使うべく、ここにこうして現われた。
下で、どよめきが起こる。
鈍色のマルクと、剣士の戦いが終わったようだった。
「もたもたしていたら、決着か。ともあれ、近衛と剣士が近いのは良いことだ。さて、お前はどの程度暴れられるかな?」
耳飾りを外すと、魔女はそっとそれに息を吹きかける。摘まむ鎖の下で、正八面体の黒水晶がじわりと揺れる。
「位相の地、隔離の世、人から生まれし人でなしよ」
歌うような魔女の言葉に揺さぶられるように、正八面体に茫洋とした炎がともる。黒が朱に赤に橙に白に揺れる。
「龍の奔る先へ至らんとする魔物よ、生まれ直し、存分に暴れなさい」
語りかける。正八面体に宿った炎は、白から青に、青から濃紺へと輝きを変えていく。
「在れ」
ヒュ……と、空へと投げる。
鎖は溶け消え、中空を舞う正八面体は、くるくると、くるくると、先に、中央に、水追いの広場に、そして近衛と剣士の元へと落ちていく。
「甲冑も粗みじんに砕く魔獣、はたして、どう倒す」
腰の落葉を確かめ、一息ついたときだった。
――カツン!
硬いものが石畳を打つ音に、ふと振り返った。
認識しているはずの空間で認識していない物事が知覚されると、人はそれを殺気などと感じることがある。
落葉の鯉口を無意識に切っていたのは幸運だった。クライフはその音に自然体の構えを取り、ウラルはふと周囲を、上を仰ぎ見た。
正八面体の何かが石畳を跳ね、数歩先に転がり落ちるその一呼吸ほどの時間を、クライフはその十倍ほどの時間で見ていたような錯覚に陥った。
怖気。
首筋が総毛立つような、嫌なものを感じた。
「こ――」
瞬間、言葉がかき消えるような、硬質のものが激しく砕け散る音が炸裂した。
爆発する禍々しい黒煙に押されるように砕けた水晶の破片はクライフの頬を斬り裂き、鎧を削るように四散する。
頬の痛みを知覚する前に、腰を引いて抜刀した落葉を入り身青眼に構え、その刀身の影に隠れる。
感じた怖気は胴震いとなり舌の根を乾かす。
「避けろクライフ!」
頭上にすさまじい気配を知覚した瞬間、クライフはウラルの叫びに反応して左へと飛んでいた。一歩引く、ではない。完全に飛んでいた。そして、着地をする瞬間、自分がいた石畳が巨大な戦斧によって両断、破砕されているのを知った。
当然あったであろう破砕の轟音も、間一髪よけたクライフの耳には入ってこなかった。
砕け盛り上がった石畳から、そいつは一挙動で戦斧を引き抜いた。
「馬鹿な! なんでコイツがこんなところに出てくる!」
悲鳴を挙げたのはウラルと、周囲の傭兵だった。
コイツ。
そう呼ぶには、いささか異様な風体だった。
丸盆に立つそいつは、牛の頭と下半身を持ち、浅黒い屈強な人の上半身で戦斧を構えている。身の丈は三メートルほど。『鈍色のマルク』も子供に見えるような体躯の――魔物であった。
数は、一。
まるで巨大なコウモリが羽を広げたかのような、巨大な戦斧。それをすくい上げるような強烈な薙ぎ払いを後ろに飛んで辛くも避ける。
「
クライフは絞り出すように叫ぶ。
これは魔物だ。魔獣だ。断じて、ネズミのようなものではない。
正真正銘、かつて読んだ十の風の伝承に描かれ、勇士たちによって討伐されたという、冥界の獄卒、
現実離れしたその偉容が振り抜いた戦斧を担ぐやいなや、四方八方から矢が打ち下ろされてきた。
周囲の傭兵たちだった。
「クライフ、こっちだ!」
飛び来る矢の射線を邪魔しないように腰をかがめたウラルが、四方の橋を指さす。シャールの南奥ガランの街に、牛頭の悪魔。即応した傭兵たちの反応は特筆すべきものだったが、同士討ちを避けるために建物の窓から打ち下ろしているものの、手持ちの矢はすぐに底を尽きた様子だった。
効果があったかどうか。戦斧を盾に俊敏に跳ねる牛頭の体には数本の矢が刺さってはいるものの、致命傷にいたるものは見受けられなかった。矢の補充を急かす怒号が飛び交う中、赤獅子の傭兵団の詰め所の出入り口から扉をぶち破らんばかりに出てくる鈍色があった。
「なんじゃあ、こりゃあ!」
マルクは怒号と共に、愛用の鉄棍をぶんとしごき上げる。
「俺が足を止める! 貴様ら手を貸せぇえい!」
そう言ってガシャガシャと鎧打ち鳴らし疾走をするマルクだが、突然天地が分からなくなったかのように横転して目を回す。
かの巨漢、重装、鈍色のマルクが立ち上がれないでいる。
その一瞬の隙に、東西南北四つの橋が、轟音と共に一斉に砕け落ちた。跳ね上がる水しぶきはそれらを落とした何かによる衝撃だろう。これで差し渡し数メートルの水路により、完全に退路を断たれた形となった。
水の深さは腰の少し上辺りまで。
流れ緩しと逃げたところで、体格に勝る牛頭の追い打ちで、逃げ場もなく戦斧の錆となることが予想できる。向こう側に這い上がる場合も、同じだろう。
ここで斃すしかない。
クライフはまさに飛びかかる直前の、しなやかに身を縮める牛頭に、落葉の切っ先をピタリと向ける。
人外の膂力。
あの重量の戦斧は、人の力を以てしても、腹の打ち込みの重さを以てしても拮抗できかねる威力だ。ましてや、あの戦斧はまるで小枝のように振るわれる。
内心の焦りと共に、落葉の切っ先を上げ、右八相に構える。顔の横に右の拳。鼻から大きく息を吸い、口からゆっくりと、ゆっくりと吐き出す。硬くなりそうな拳を緩く、死の恐怖ですくむ足に力を込めるため、腹を中心に引き締め、柔らかく石畳に立つ。
三十人を超える傭兵たちが白兵戦を挑まんと水路を越えてくるだろう。そうすれば、この牛頭の悪魔も倒されるかもしれない。しかし、それまでクライフもウラルも生き残っている保証はない。逃げ回ったところで、その体格から押し込められてしまうだろう。
ここで、斃すしかない。
周囲の怒号、音、匂い。そういった牛頭の動きを知覚するに邪魔な総てが、彼の五感から遠のいていく。
静かな騒音の中、仕掛けてきたのは牛頭の方であった。
片手打ちの、戦斧。力任せに振りかぶる。その凶器の軌跡はクライフの左肩から入り、鎧を砕けば両断し石畳を割り、砕かねば脛骨を砕き石畳に押しつけるように圧し飛ばすだろう。
だが、動きは大きい。暴力の塊だが、実に正直な軌跡だった。筋力と加速と遠心力に期待した、暴力だった。
クライフは、左足をそこに残し、大きく右足をその先に真っ直ぐ踏込む。腰を大きく落とす。完全に膝を直角に曲げるほどに。腰と足の動きが、引き締められた腹と胸を伝い、腕へ、切っ先へとみなぎる。
――ザッ。
落葉に感じたのは軽い手応えだった。
手応えを感じたときには、重い破砕音が背後を打っていた。
「あぶねえ!」
両断された手首が握ったままの戦斧が石畳を跳ねウラルの肩を掠めるように水路へと落ちていく。
絶叫、いや、咆吼。
失った右手首からどす黒い血潮を吹き散らしながら、振り抜いたクライフの背後に左拳打ち下ろしてくる。
切断することに重きを置いた一撃だったこともあり、死角からのその拳を懐に潜り込む形で文字通りかいくぐった。
肉薄。
獣臭さを間近に感じた瞬間、左上段に抜けていた切っ先を、腰を入れるように牛頭の腹筋に圧し入れる。
落葉の刀身は鍛え上げられた牛頭の腹筋を容易く斬り裂いた。潜り込んだ刀身は、鍔元から切っ先まで使い脊椎を掠め腸を存分に撫で斬った。
そのまま、引き抜きざまに左後ろへと飛びすさる。
そこに、前のめりになった牛頭の頭蓋が降ってきた。目前に来たそれを、無意識に掬い斬る。
ガッ。
顎骨の継ぎ目から頭頂に、落葉の刃が抜ける。
そのまま切っ先を向けながらクライフは二歩下がる。
おびただしい出血。
血だまりの中に倒れる牛頭がピクリとも動かないのを、じっと残心で見守る。
斃したという実感よりも、切り抜けたという安心感のほうが強かった。
刀刃を片手に、肩で息を吐く。
音が、戻ってきた。
怒号、歓声、そして風の音。いや、自分の息の音だった。心拍の音だった。
魔物の血潮、その鉄の臭い。獣臭。
声をかけ駆け寄るウラルに肩を叩かれて、初めて実感がわく。
「斃したのか――」
通用したのか。剣術が。魔物相手に。
クライフはふと見上げる。
そこに、敵がいた。
「――女?」
目が合った。
視線からねっとりとしたものを感じる。
これが、敵。
姿を消すその影に、ウラルが駆け出す。
あれが、敵。
にじみ出る冷や汗に、クライフは渇いた喉をひとつ鳴らす。
あの視線。敵も自分を敵とみたのを感じる。
「敵」
ひとつ呟き、手拭いで血を拭う。
いや、その血もまた、かつてのようにう塵と化して落ちていく。
「魔物か」
納刀し、クライフは大きく息をつく。
敵は動くだろう。
駆け出す。もはや猶予はなかった。
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