第12話『あそこが燐灰石の尖塔よ』
おびただしい酒瓶と熟柿臭、そして聞く者の胃の腑を震わせるいびき。閉め切った部屋の中には執務机――ここにも酒瓶が転がっている。雑多な酒瓶が囲い込む椅子の上には、背もたれに体を預け真上を向いて寝るベイス。
そんな魔窟に通じる扉を開けて入ってきたのは、しかめっ面のコティである。床の酒瓶を蹴飛ばしながらズカズカと執務机の前に来ると、腰に手を当てスゥと息を吸う。
「起きなさい!」
一喝。
瞬間、ベイスは首だけ真上を向いたまま椅子を蹴倒し跳ねるように起立する。
「んが!」
いびきか息継ぎか、喉の奥で呻くやベイスはゴキンと首を直す。
「おはようございます長官!」
「……気持ちは分かるけれど、この体たらくは何? 未だあの魔物の発生原因をつかんでいないというのに、部下に任せてあなたは鬱憤晴らしに痛飲? どういうつもり?」
「お、お言葉ですが長官!」
ベイスは直立したまま、カーテンを開けるために窓辺によるコティを目だけで追う。
「こうでもしなければ俺は、私はアリスをぶん殴っていたかもしれません!」
カーテンを開けるコティは、海が照り返す日の光に目を細めながら「あのねえ」と眉を寄せる。
しかしその文句を、あえてベイスは遮る。
「私は我慢の利かぬ
ちょうどベイスの背後のカーテンを開けながら聞くコティは振り向きざまにベイスの背中をひっぱたく。彼の後頭部はやや高いからだ。
「起こさねば昼まで寝ていたことでしょうね」
「ご明察。未だ、本調子ではありません。が!」
回れ右。ベイスは睨み上げるコティに正対し、ややドキドキしながら目を真上にそらして胸を張る。
「長官のご命令ならば、今すぐにでも魔獣の一匹や二匹、素手で血祭りにして進ぜましょう!」
「ネズミに渾身の一撃を跳ね返されたのに?」
古傷をえぐる言葉にベイスはガクンと項垂れる。上下に激しい部下に、コティはやれやれと思いつつ、彼女自身姿勢をただす。
「ベイス」
「は」
彼もまた、姿勢をただす。
「身だしなみを整えなさい。姫さまからお話があるそうです」
「エレア姫から!」
目を見開く。
「……お時間をください。すぐに身だしなみを整えます」
その顔に、酒の気配はなかった。
「息はご勘弁願いたく」
「そこは姫さまに請いなさい。……お昼は、姫とご一緒になります」
そこだけは、コティの顔は側御用の侍女の物になる。
「長官の手料理ですかッ」
「期待はしないように」
「お断りいたします」
むふ! とベイスは胸を張る。
「……それまでに、腰の長剣も整えておきなさい」
「あ」
腰の長剣は、アリスに預けたままである。あのあとおずおずと返そうとするアリスに、彼はなんと言い放ち追い払ったか。
思い出した。
「……あの剣士を見張ってろって言ったままだった」
あの我慢してるような悲しそうな顔を思い出す。
「そう。じゃあ、はやいところ呼び戻しなさい。いい? お昼までによ?」
「は、承知つかまつりました!」
「よろしい。私は奥に行きます」
ひとつ頷くと、コティは出口に向かいがてら彼の腰を拳で小突く。
「アリスも反省、猛省していることでしょう。あの剣士が許した以上、許して上げなさい。彼女なら、あのアリスなら、あの行動には納得できるのでしょう?」
「ですが、今は近衛のアリステラです。ま、許しますがね。酒で洗い流しました」
「そ。じゃあ探し回るくらいはできるわね?」
「は」
頷く。そこはヴァルとイーモンを走らせよう。
「自分で探さないとだめよ? 身だしなみを整え、アリスから近衛の長剣を受け取り、正装で奥にいらっしゃい」
ドア口でそう言うと、コティはじゃあねと去る。
残されたベイスはもう一度「ぬう」と呻くと、顎を掻く。
「双剣亭と言ったな、あの宿」
傭兵街。
アリスはまだあの周辺にいるだろうか。
「傭兵街からまっすぐ港に向かうと、燐灰石の尖塔に行くには迂回しなければならないの。だからこっち」
アリスの後ろをついて行く形で、見覚えのある道を往くクライフ。
「意外と素直に教えてくれるんだね」
「黙ってても仕方がないでしょうし、嘘教えて歩き回られても困るのは私だから。見張ってろって言われてるのよ?」
「それはそうだが」
嫌われているわけではないが、警戒はされている様子だった。
「ちゃんと付いてきてる?」
チラリと後ろを振り返るその距離は、しかしやや近い。
「……その」
クライフは今まで、誰かの事情を詮索するということを、あまりしたことはなかった。ただ、実直に、頼まれたことをこなす朴念仁であったと、自他共に思っていた。色事にも興味が薄く、騎士を目指してからこっち、海を渡る前までは剣に生きてきたと言っても良い。故に、いま年の近い、やや年下に見える異性の弓兵に対して、どう声をかけようものか迷っていた。
「なに?」
足を止めて振り返るアリス。
「名前を聞いても? こちらの名前は知ってると思うが」
「アリステラ」
あっさりと答える彼女に、ふむと頷く。
「弓はどこで?」
どこで覚えたのか、という問いだった。
「教えない」
こちらもあっさりとした答えだった。
「連れない答えだね」
「そうぽんぽん他人……に教える気はないの。あんたほんとに燐灰石の尖塔で働けって、言われたの?」
「紹介状の表には、そう書いてあったな」
クライフもその返しには少し困ったように返す。
「だとしたら……まあ、いいわ。そのときはそのときよ」
「釈然としないな」
再び、今度はやや肩を並べるように歩き始める。
クライフの右で往くその歩みはしっかりしてはいるものの、眠そうな様子で瞬きは多く強い。あくびこそしていないが、呼吸も重そうだった。
「ここを通ると、近いのよ」
しばらく歩くと、見覚えのある場所――空の木箱が積まれた、ベイスと一戦こなしたあの場所へと出る。
近いのよ、と言う割には、アリスはつかつかと、昨夜クライフが立っていた辺りに向かうと、やや後ろで立ち止まった彼を振り向く。
「昨夜は、ごめんなさい。仲間がやられる前に撃たないとって、体が動いてた」
ぺこりと、頭が下げられる。
「でも、隊長にヤバいと思わせる方が悪い。だから、これはもう不問にしましょう」
「そっちが言うことでもないだろう」
しかし、クライフはそんな不器用な謝罪と開き直りに笑う。
「いいさ。だが、貸しだぞ」
「道案内で帳消し」
「……安すぎないか?」
まあいいかと、肩をすくめる。
「ただ、男の戦いに水を差したことは、いずれ何らかの形で返すわ」
「あの隊長に返してあげなよ。一番気にしてるのは、たぶんあの人だ」
「知ってる」
ばつの悪い表情で頷くアリス。
「で、燐灰石の尖塔は、あっちよ」
「あ、ああ」
そそくさと東に踵を返すアリスの後ろを、慌ててついて行く。少し早足だ。
「ほんとならダメなんだろうけど、あなたがいるなら良いわよね。良いに違いないわ」
何のことだと思ったが、しばらくついて行くと、港湾街区の作りではない風景が広がり始めてきた。潮風の強さも、若干増してきたように思える。それもそのはず、海風を遮る建物がなくなってきていて、二人は石畳の道が途絶え始めた、草混じりの土の道を踏んでいた。
ずいぶんと歩いてきたらしい。
なだらかな白い道はまっすぐに東へ延びている。
先を見通せば、右手は海。左手は草原。遠くには小さな森林。道はその先へ。
かつて赴任していたあの漁村を、ふと思い出す。
「なに遠い目をしてるのよ。あれが燐灰石の尖塔よ」
「……あれか」
アリスが指し示す先、森から垣間見えるそこに、青い屋根を持つ――。
「――尖塔だ」
それが見えた。
何かの比喩かと思ってた『尖塔』だが、本当に尖塔だった。
城から落ちたような、建物の一部と言うより、地下から生えてきたかのような尖塔、そのままだった。傾いてもいなければ、崩れてもいない。それに、綺麗な、青い、蒼い、屋根。
しかし、入り口もあれば厩舎のようなものもある。
「あれが……」
クライフがそう漏らすと、アリスも追従する。
「ん。……まあそういうこと」
「どういうことだ?」
アリスは、さて……とクライフを面白そうに見上げる。
「ともあれ、あそこよ。私は入り口で待ってるから、中の者にその紹介状とやらを渡しなさい。ふふ」
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