第10話『巨漢の拳』
静かであった。
喧噪から離れ先導されること、少し。
クライフの武装が立てる音。そして、ベイスからも聞こえる重い音。着込みだろう。
案内されたのは水揚げされた木箱が乱雑に積まれた一画だった。中身は空だろう。港から船への運搬に再利用されるのを待つ、空の木箱だった。
運びやすい高さにまで積まれているのだろう、ちょうど周囲から彼らを隠す壁のような、逃がさぬような囲いにもなっている。
彼らがいるのは、作業場所となる広めの空間であった。
「ここらで良いだろう」
ベイスは楽しそうに笑い振り返る。
互いに距離を十歩ほど置き向かい合う二人の間に、静かな緊張が生じる。
「しかし素直によくついてきたな」
「逃げるなと言ったのはあなたじゃないか」
「もっともだ。もちろん逃げたら逃げたで、シャールで生きちゃいけねえ目に遭わせるところだが――」
腰に手を当て肩幅に開いた両足を左半身に引くベイス。そのとき、周囲の木箱がかすかに軋む。
「立会人だ」
周囲に生じた気配に、クライフは周囲を見回す。ベイスから気をそらさぬとはいえ視線を外したのは、彼をある程度信用してのことだ。
「……七人」
ベイスの着るものと同じ制服姿を確認する。
半弓を携えているものは三名、いずれも不安定な木箱の上で片膝立ちに見下ろしている。
剣を持つものは四名、いずれも逃走経路になり得る木箱の隙間に立っている。
各々、クライフに静かなまなざしを向けている。
佇まいでわかる。皆一様に強いと。
「八人よ」
「長官!」
斬りつけるなら今だとばかりに動揺を見せるベイスの声に、クライフは彼が見据える先に視線を向ける。
若い女性――コティだった。同じように黒い近衛の制服を身に、囲いを徹って静かにクライフの元までやってくる。
「初めまして。ここにいる者たちを束ねる者、と言えばわかるかしら」
見た目はただの若い女性。厳つい制服に着られている雰囲気は、しかしなかった。クライフに近づくその歩みは、ネコ科の動物のようにしなやかであったからだ。
コティは警戒のためか、やや離れて立ち止まり、いつでも腰の投擲剣を放てるよう、腰に手を当てる。
ツイと一歩、クライフは右足を引く。コティの投擲を意識したわけではないだろうが、自身の左側に半身になった彼を見たとき、素直に頷く。
「コティよ。よろしくね」
「――クライフ」と名乗りながら、彼は「どういうつもりですか」と、敬意を捨てずに訪ねる。
「長官!」
これに口を挟んだのはベイスだった。
「まずはぶん殴って問いただします。お下がりください」
「『ぶん殴る』――」
クライフの肩越しにコティはベイスに言う。
確認するかのような言葉に、顔色がやや曇ったのがクライフ。それを見てコティは肩をすくめる。
「良い気分ではないでしょうね。ですが、あの魔物を倒してのけた使い手を、ただ放っておく訳にはいきません」
魔物――。
クライフはその魔物という言葉に込められたニュアンスに引っかかりを覚える。
「私たちでも手を焼いたネズミを良く倒したわね」
コティの目が、落葉に注がれる。
「……それなんだが」
疑問。
クライフ自身感じた、ベイス――そして今周囲を囲む彼らから感じる猛者の気配。あの怪物に、おいそれと後れを取る面子には思えなかった。
「あなたたちはあのネズミを倒せなかったということですか?」
「おうよ」
クライフのそんな素直な疑問に、ベイスは悔しそうに言葉を絞り出す。
「渾身の力で打ち込んだこの長剣が、あのネズミ野郎の頭蓋にはじき返されてな」
おいそれとは信じられない話だった。
あの腰の物は、なまくらであるはずもない。もし鈍器のようなモノだったとしても、眼前の巨漢が渾身の力で振り落とした一撃を、なまなかな生き物が頭蓋ではじき返せるはずはない。
だが、嘘を言っている目ではなかった。
「それで、俺の剣か」
何で倒したのかが重要。
そう言っていたベイスの言葉が、ここに来て腑に落ちた。
「……ということで」
コティが仕切り直す。
「その剣、ひとまず預かります」
「さも当然そうするかのように言われても困る」
コティの視線から落葉を外しながらクライフはどうしたものかと眉根を寄せる。
「貴様! 腕試しの前に腰の物を預かるという長官の優しさを蔑ろにする気か!」
これに腹を立て、今にも飛びかからんとする気迫を込めたのがベイスである。
「あなたの心酔する長官とやらの申し出そのものが図太いだけだと思うんだが」
「どこが図太いだと貴様ぁ!」
長剣の柄に手をかける巨漢の動きに、クライフは半歩退いて正対する。こちらはまだ手はかけていない。柄を胸元に、その下に柔らかく開いた右手をスと寄せている。
「『ぶん殴る』――」
もう一度コティは逃走の空気にその言葉を投げ込む。
「そう言ったのはベイス、あなたよ? 意地でもぶん殴って言うことを聞かせなさい。なら、その腰の剣は不要でしょう?」
「長ぉ官……」
情けない声で相好をゆがめるベイスに構わず、「そういうことだから」と、クライフに向けて手を差し出すコティ。
要するに、クライフにも腰の落葉を寄越せということなのだろう。
「この勝負が決まるまで、いったん預かるわ」
いったん、の部分に念を押すように言うコティ。クライフは諦めたように剣帯から鞘ごと抜くと、彼女の前に差し出す。
「師から受け継いだ大切なものなんだ」
「粗相はしないわ。――ベイス、あなたもよ」
「くそう、こうなったら仕方がねえ、クライフとか言ったな!」
「ああ」
頷くクライフから目を外さずに、ベイスは長剣ごと剣帯を半ば引きちぎるようにむしり取ると、背後のアリスに放り投げる。
「俺の拳は鎧の上からでも胸骨を砕き、内臓を踊らせる。頬桁に喰らえば顎も砕けりゃ首もねじ切れるぞ覚悟しとけこの若造!」
関節が白く浮き出るほど握り込められた両の拳。それが一瞬膨れ上がるかのようにぶるりと震え、次の瞬間には脱力――柔らかく握られ、体の正面、顎の下とみぞおちの前にピタリと据わる。軽く曲げられた左足を前に、右足はそのかかとのすぐ後ろに。猫背のようなやや半身。
吹き付けられてくるような眼光は闘志に満ちあふれているが、その佇まいそのものは巨木のごとき静けさを湛えている。
そんな重き異様が羽の軽さで滑るように眼前に迫った瞬間、矢のように左拳が目の前を通り過ぎ――それを意識する前に戻る。
避けられたのは偶然だった。
ベイスの接近に合わせ、間合いに入るその前に右足を一歩斜め前へと出した。ベイスの左側面にかろうじて移動し終える最中に、拳の軌跡を捉えていた。
柔らかく握った手が、瞬時に鋼鉄の重さの拳となりクライフの顔面を襲ったのだ。顎を砕くという弁舌に嘘はない。
――速い。
拳の速度も速いが、それ以上に最短距離という早さも併せ持っている。
鋭い呼気で放たれたその左拳がベイスの左に戻った瞬間、クライフは即座に引き寄せた左足とともに、左の手根――掌打をベイスの顎先に突き上げる。
ベイスはそれを左のかかとを中心に、クライフに正対するように左に小さくくるりと回る。クライフの掌打は彼の左頬を掠めるにとどまり、横を取られる形になった彼の左側頭部にベイスは回した腰の威力を乗せた右の拳を存分に打ち抜いていた。
剛風一閃。
掌打を放ち体幹が流れると見えたクライフだが、視界の端に右拳の起こりを捉えた瞬間、大きく右足を後ろに引き、打ち下ろされる巨漢の拳を鼻先で躱す。
会心渾身の一撃を避けられた驚愕よりも、振り抜いた右腕に抱きつくようにクライフの腕が絡みつくそのなめらかな動きに鳥肌が立つ。
ベイスの右拳はクライフの右脇にがっしりと極められ、肘関節の方向に一挙同で体を回し落とすズンとした重さに引き倒されそうになる。
一歩前に出そうとした前足は、クライフの体で邪魔をされる。完全にクライフに体重を預けそうになる――体重を利用されるその瞬間。
「んがああああああ!!」
雄叫びを上げてベイスは素早く右に回転。軋みを上げる肘に構わず、クライフを振り落とした。
鎧を着込んだ剣士の体が、ガランの夜に舞う。
巨漢の雄叫びが轟く中、飛ぶ、飛ぶ、まだ飛ぶ。
囲む近衛が思わず避けてしまうほど吹っ飛ばされたクライフは、声も上げられずに木箱をなぎ倒し、その中に埋もれるように叩きつけられた。
何という膂力だろう。
剛柔併せ持つベイスの力に、近衛の者たちは全員舌を巻く。
この一瞬の攻防すべて見えていたのは、ベイスの背後、ひとつ高い場所に控えていたアリスだけであったかもしれない。
ベイスが仕掛けた。クライフが動いたときには、左拳が空を裂き、ベイスがくるりと向き直ったときにはクライフの掌打が天に突き出され、ベイスの背が引き締められた瞬間には、その右にいたクライフがベイスの腕を取った。
その後に放り投げられたクライフが宙にいた時間のほうが長いくらいの、一瞬の攻防だった。
「……くそ」
だらりと右手を垂らしたベイスが毒づく。
クライフの技ではなく、力任せに彼を振り払ったために右肘をひどく痛めたらしい。
そして彼は木箱の間からゆっくりと体を起こすクライフを見た。
衝撃で飛ばされたわけではない。力任せとはいえ放り投げられたのだ。追突と落下のダメージくらいだろう。鎧を着けていても当たり所が悪ければ昏倒するだろうが、目の前の剣士はピンピンしている。
「なんて馬鹿力だ」
一瞬とはいえ過度の緊張を強いる攻防の果てに投げ飛ばされ、心臓が悲鳴を上げていた。クライフは大きく息を整え、この巨漢の認識を改めた。
格闘における技。
こと打撃に関しては何枚も上手だ。
それに移動。まるで蛇が砂地を往くが如きだ。
だが、動きの初動作は見える。
あとはクライフの技が通じるかどうかだ。
「やるじゃねえか」
それこそ殺すつもりで放った打撃が、二度、空を切った。無防備に顎をあげてるかと思ったが、広く取った視界のすべてに神経をとがらせていたのだろう。動きそのものが読まれていた。
ここで、ベイスも冷静に標的の特徴を改めた。
「なるほど、躱して、斬る――か」
ぼそりと呟き、ベイスは痛む肘に頓着せず、再びあの構えを取る。
「手加減してたらぶっ殺してやろうと思ってたんだけどよ――」
クライフも、柔らかく開いた手をだらりと体側に垂らし、ややおとがいを上げて佇立する。
「生憎と本気だよ」
大きく静かな呼吸が、ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ。
いつつめがお互いの腹に飲み込まれると、身を進めたのはクライフの方であった。
するすると間合いを詰めるクライフの動きに、すすッ……すすッ……とベイスは足を組み替え合わせるように待ち構える。
右半身、左半身、前後左右、緩やかに素早く動くベイスの間合いに――入った。
先に動いたのはクライフだった。やや右手を引き、攻撃の気配を見せた。
それを誘いと分かっておきながら動いたのはベイスだった。誘い重ねるように、剣士の右側面に回り込み左腕を鉤状に曲げ、その拳を側頭部に打ち落とす。
クライフは右前には出られない。ベイスの拳から遠ざかるなら、下がるか、上下左右に回り込むか。
下がれば右拳を真っ直ぐ打ち抜き、回り込むなら至近距離から右拳を突き上げ顎を砕く。
クライフの、染みついた剣士としての動き。それをベイスは信頼した。
下がるだろう。
その読み通り、クライフは一歩右足を引き下がった。
弧を描く拳の軌跡――肘を伸ばしたところで届かぬ外へと逃れたクライフは、この隙に乗じて仕掛けるだろう。
今度は逃がさねえ。
その思いの通り、相手はベイスの正面を貫かんと引いた足をずいとばかりに踏込んできた。
待ち望んだ状況。誘い込んだ状況だった。
クライフが踏込む。その出会い頭に渾身の右拳を顔面に叩き込む。
鋭い呼気が双方から漏れる。
ベイスは右の拳を一直線に叩き込む。
渾身の力の奔流がクライフの鼻先に迫った瞬間。
ベイスは、その伸ばした右腕がふわりと持ち上げられたのを感じた。いや、実際には右足の踏み込みを半歩で止めたクライフが、左半身で大きく踏込み、その左掌打でベイスの右肘のあたりを重く弾いていた。
同時に、左へと。ベイスの右側面へと回り込んだクライフの、引き絞った右の拳が打ち抜かれるだろう。
弾かれた己が腕の死角から必殺の気配を感じ、ベイスは静かで冷たい思考の中で、「ああ、やられたな」と思った。肘をやられていなければと言う思いが脳裏を掠め、一撃ではやられぬという気概が腹の底にすとんと落とし込まれたその瞬間だった。
「ぐぁっ!」
裂帛の気合いが放たれるクライフの口から漏れたのは、呻きであった。同時に乾いた音が響き、その体は大きくよろけるように後退する。
何があった。
ベイスの思考が冷静さを取り戻しかけたとき、クライフは周囲を警戒しながら、右手を抑えて彼の背後、ややその上を見据えている。
「アリス!」
コティの叱責が飛ぶ。
アリスは矢を放った姿勢のまま、クライフを睨むように唇を真一文字に引きしめている。
乾いた音。――木箱に刺さった矢は彼女の手から放たれ、クライフの手甲に当たり攻撃を阻害し、その先で刺さったものだろう。
ベイスはゆっくりと振り返る。
信じられないものを見る目でアリスに問う。
「邪魔をしたのか、アリス」
アリスは顔を背ける。
ベイスは瞑目し、大きく深呼吸をする。
そしてゆっくりと目を開けると、クライフに向き直り、沈痛な面持ちで頭を下げる。
「すまん」
あの破裂しそうな気迫は、もうすっかり形を潜めていた。
そんな肩を落とす巨漢に、クライフは「いいさ」と頷く。
「……用は終わりか?」
クライフは、コティに目を向ける。
「ええ」
コティは頷き、彼に歩み寄ると、大事に抱えていた落葉を差し出す。
クライフは黙って受け取る。
右手にはまだ痺れが残っている。相当な手練れだろう。狙われていたのは首だった。それを辛うじて右手で逸らせたのだ。
この街を守る衛士。その腕はやはり折り紙付きのものと言うことを、若い弓兵が射たそれで文字通り骨身に感じたクライフは、あえてベイスにではなくコティに礼を取って、踵を返す。
向かうは、街。そして、宿だ。
囲いは彼に道を開けるように広がる。
「生憎と仕事先にはアテがあってね。衛士の手伝いすることはできない。この先何があるか分からないが、縁があったら力を貸そう」
そう言い残し去るクライフの背を、ベイスはじっと見ている。
その姿が見えなくなると、大きく、大きく息を吐く。
「帰るぞ」
そしてそれだけを命じると、のしのしと、とぼとぼと、クライフが去って行った方向とは違う、南の海沿いを進んでいく。
慌てたように部下も彼を追うが、アリスは彼の剣を胸に、じっとへたり込んでしまっていた。
項垂れるアリスを、コティはため息交じりに見やり、肩をすくめる。
思わず放った一矢。
その理由を問いただすほど、コティも野暮ではなかった。ベイスも省みぬ男ではなかった。
「ともあれ、後味が悪いわね」
さて、どう動きますかね。
コティは姫殿下の思惑とこの顛末の先を思い、一人思考を巡らせるのであった。
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