第23話『慟哭――逆鱗に消ゆ』

第六話 『慟哭――逆鱗に消ゆ』


   *


 龍鱗山脈北方の玄関口である。

 逆鱗といわれる北の要害、クローヴァー渓谷まで、あとわずかであった。

 二十騎あまりの白金の女騎士が、一台の二頭立ての馬車を二列縦隊、前部十五騎、後部五騎で固めている。先頭はキアラで、殿は副団長のキャサリン、馬車の御者はクライフである。

 山村でウェンディ、コルムの夫妻と別れを済ませた一行は、補給を済ませた後に北上を再開した。東西に大きく広く伸びる龍鱗山脈を貫くひげ街道を北に外れ、領都への新街道を進む白金の一行は、大きく人の目を惹いた。

 商人たちの旅隊も道をあける荘厳ぶりである。

 南方警戒の動きが活発な今、噂の一角にはなるだろう。


「ここまで来たことなんか無いわねえ」


 御者台に顔を出し、ヴェロニカが山脈の表情を眺めて、そして思わず嘆息を漏らす。


「そろそろこの旅も終わりかぁ」

「そうだな」


 がたごとと軽くゆれる馬車の中には、娼婦たちとイリーナ、そして赤子のキアラがすやすやと眠っている。結局、イリーナはキアラと名付けることを頑なに言い張った。こうなったらもうダメであると、アンナは早速白旗を揚げる。本家の白百合騎士団のキアラも、少し迷って言葉を選んだ挙句、静かに頷いてそれを了承した。


「ねえ、クライフ」

「なんだい?」


 ヴェロニカは、殊更に言葉を選んで尋ねる。


「あんた、この後どうなるの?」

「そうだなぁ」


 旅の間にも何度か訊かれた事だった。

 今、こうして状況が変わり、今ならこうであろうという漠然としたものはある。


「そうだなぁ……南方の侵攻に区切りが見えて、安定しなければ緑葉周辺に赴任、落ち着いたら落ち着いたで、緑葉奪還のため周辺に赴任、と、そんなところじゃないかと思う」


 なにせ序列最下位の騎士団で、しかも団員は団長見習い一人のみだしな。

 クライフは誇らしげに自嘲した。


「じゃあ、どちらにせよすぐに任務が待っているのね……」

「そうなるかな。遊ばせておける騎士団はひとつも無い……というのが、我が領主の公式見解だからね」


 車輪の音、馬蹄の音、そして渓谷から聞こえてくる風の音。

 それらが全て、彼らの別れを歌っているようにヴェロニカには思えてならなかった。


「私たちは、どうなるの?」

「イリーナ様は、正式な側室となるかもしれないし、若くして領土の一画で隠居同然の幽閉生活を送ることになるかもしれない」

「うぇえ……」

「……中枢に顔が利くキアラに、後のことは頼んである」

「クライフは……もう……」

「俺はねヴェロニカ、薪売りの三男坊で、庶民上がりの騎士で、序列も最下位の数に入っていない騎士なんだよ。とても権力の波から皆を守ることはできないんだ」


 寂しげに笑む。


「じゃ、本当にお別れなのね」

「一見の客だと思ってくれ。もしかしたら、こんど夜霧が再建したら客としていくかもしれないけどね」


 ――この一件が片付いたら、少し女性のことも考えてみます。

 クライフは緑葉脱出の折、アンナにそう言ったのを思い出す。


「ホントに?」

「ええ」


 クライフが頷くと、幌の中からエレナが声をかけてくる。


「そのときは、誰をご指名になられますか?」


 笑いを含むような声に、騎士も「さて、どうしようか」と笑って答える。


「俸給は安いので、それでも良いと言う女性にするよ」

「……それじゃあ選べないわよ」


 ヴェロニカは微笑み、エレナもそうですね、と頷く。


「クライフ、貴方からお金を頂こうなんて女、ここにはいないわよ」

「ええ、その通りですわ」


 クライフは頭を掻く。


「まいったな」


 嬉しくないといえば、嘘である。

 商売女が商売抜きで好意を寄せてくる。

 クライフにとっては未知の世界である。

 ――未熟という言葉が身に染みるな。

 何がカイデンなのかと、自嘲する。自分はまだまだ、これからだ。


「鼻の下を伸ばして……みっともない」


 馬の足を遅らせ寄せてきたキアラが、開口一番、そう吐き捨てる。


「キアラか」

「キアラか……じゃない。もうすぐクローヴァー渓谷だ、馬も揺れる、色香に惑わされて手綱を怠るなよ」


 ヴェロニカは早速「あ、怖い怖い」と頭を引っ込めて幌のヴェールを下ろす。


「まったく、在野の女はかくも、こう……」

「何をぶつぶつ言っているんだ」

「お前が気にするようなことでは無い」


 きっぱりと言い放ち、キアラはもう一度注意を喚起し、先頭へと馬を戻す。

 そうこうしているうちに山林は途切れ途切れとなり、一行は龍鱗山脈の逆鱗、クローヴァー渓谷へと足を踏み入れるに到ったのである。




 切り立った崖が、太い街道の両脇に壁のように続いている。

 バレンタイン領、北の要害――逆鱗の異名をとるクローヴァー渓谷である。

 左右は崖の壁で行軍も長蛇になり、先の道では逆に奈落の崖が左右に口を開く細道となる。通商になんら支障は無いが、こと兵站を考えると厄介な地形と言わざるを得ない。この逆鱗に陣を張ること、砦を築くことは領内の守りを固める重要な要因である。中央王都の意向で砦の建設は認められなかったが、即座に陣を張れる準備は近衛によって整えられているのだ。

 ここにガレオン総騎士隊長の双剣騎士団が陣を張れば、三年は戦線を保てるとさえ言われている。

 その切り立った崖の壁を左右に、一行はゆっくりと進む。

 ここを乗り切れば、領都のある平野部、晴れていれば彼方に領都が望めるはずである。


「やっと、ここまで来たか」


 この断崖を相棒と突き抜けたのが、遠い昔のことのように思える。

 山間部の雲間から、青空と太陽が覗いている。

 ――……。

 左右の崖壁が切れ、奈落の崖が口をあける、道が軽く広がる一画に差し掛かったときだった。三十メートルほど先の先頭から、動揺に似たざわめきが広がり伝わってくる。それは馬の足にも現れ、蛇腹が寄せられるように馬が寄る。


「どうしたんだろう」

「かまわん、このまま進めとのことだ」


 瞬時に指示が回されてきたのだろう、近い女騎士がクライフに口頭で伝える。

 ――かまわん、か。

 路面が悪路になっているなどの理由か、はたまた……。

 動揺が見られたということは、キアラ自体にも把握できていない展開、そして諾々と流されるしかない状況……と見るか。

 クライフはひとつ深呼吸し、背後に気を配りながら、馬車を進める。

 両側が開けたとき、彼は予想だにしないものを見た。


「総員、展開」


 白百合騎士団に指示が飛び、広くなった道幅いっぱいにまで左右展開する。

 ちょうど、馬車に対して道をあけるような形となる。


「なるほど、そういうことか」


 クライフは見た。

 逆鱗に集結した一部隊を。


「よくぞ無事に帰ってきたな」


 把握できるだけでも五列横隊、百数十人の一団から歩き寄るのは、領都から南方に下る際に一度拝謁したバレンタイン夫人……キーリエであった。深い真紅の衣服を纏い、指揮官を気取る錫杖を手に優雅に微笑んでいる。


「キーリエ様、逆鱗まで部隊を率い行軍なさっているとは……如何様な作戦でしょうや」


 キアラは下馬し、歩み寄り礼をとった後にそう言った。

 彼女たちの会話の間にも、クライフは御者台の上で素早く周囲に気を配った。

 前方には道を阻むように百の軍、そして逆鱗の中央に入った今、両崖の上には弓を携えた一団の数が無数に見て取れた。まさに虎口に入り込んだ獲物という布陣だ。


「作戦?」


 意外そうにキーリエは聞き返す。


「さて、作戦とは……どのようなものであったかの」


 キーリエは背後に錫杖を促した。

 静かな渓谷に馬蹄の音。一騎の馬が、のたのたと一団から離れ、キーリエの元へ寄る。


「大臣……」


 クライフは呻いた。


「文官の長が、領主夫人とつながっていたのか」


 だとすると、アゴラの双龍を雇ったのは……。


「ケネス大臣、遊撃近衛部隊を率いてきた理由をお教え願いませんでしょうか」


 苦い顔のケネスに、キアラは厳しく問うた。

 しかし馬上のケネスはそれには答えずに馬車を見据える。

 二十メートルほどの短い距離をはさみ、クライフとケネスの視線が交差する。


「なるほど、貴公が騎士クライフか」

「御者台から失礼します」


 文官にしては良く通る声であった。その色には、かすかな賞賛の色が見受けられる。


「バレンタイン様の御子を孕んだ者は?」

「無事お連れいたしました」

「……そうか」


 諦めと賞賛、そして後悔……いや、悔恨と覚悟の色が浮かぶ。


「ですが」


 キアラが恐れながらと口を挟む。


「先日、逆鱗南の山村にて産気づき、無事出産を終えましてございます」

「なんだと!?」


 キーリエが瞬間、弾かれたように錫杖を振るい叫ぶ。


「して、どちらじゃ!」


 悪鬼の気迫だった。

 相対するものを視線で射殺す勢いを込めた、有無を言わせぬ問いである。


「……姫でございます」


 キアラは搾り出すように答える。

 聞いた音を言葉として認識するに到ると、キーリエはかすかに数度頷くと次第にその顔の微笑を深く刻み、かかとひとつ哄笑した。


「そうか、女児か、そうか、そうか」


 そしてひとつ落ち着き、視線を初めて馬車へと向ける。


「そのご尊顔、拝謁仕ろうか」


 ――いざ、対面……か。

 クライフは素早く背後を伺う。ほろのヴェールを上げ、中に声をかける。


「イリーナ、起きているか」

「ええ、声は聞こえていましたわ」


 すやすやと眠る我が子を抱き、イリーナは静かに微笑んだ。


「覚悟はしていました。参りましょう、騎士様」

「今更私たちができることは無いけれど、あんた、イリーナのこと頼んだわよ」


 アンナも難しい顔で呟く。

 クライフは頷き、歩き寄るキアラに気が付いて振り返った。


「娼婦たちも、全員降りてもらう」

「……そうか」


 軍勢から感じる威圧に、騎士は頷かざるを得なかった。


「みなさん、降りていただきます」


 クライフの言葉にヴェロニカはさもありなんとため息をつく。


「まあそうだろうね」

「すまんエレナ、オリビアも頼む」

「わかりました」


 クライフは御者台を降り、イリーナに手を貸すために後ろへと回る。

 キアラは崖上を仰ぎ見る。

 近衛の第二部隊であろう。弓を携えた者たちが布陣している。

 獲物を吟味し、食らう気配に満ちている。


「近衛の第二部隊か」


 文官直下に位置する、武官における例外的政治部隊だった。

 中枢の文官を守護する任務、特に文献や文書の保持、確保と守護が任務である。

 文官直下といえども、謎多く侮りがたい部隊である。


「ケネス大臣直属の私兵とも言われていますね」


 副団長のキャサリンが傍らでキアラの心を代弁する。


「……さて、対面か」


 クライフがイリーナに手を貸し馬車から降ろすと、静かに促し、キーリエ待つ馬に囲まれた円陣へと静かに歩いて往く。


「………………」

「………………」


 女同士の視線が交わった。

 五メートルほどの距離を置き、イリーナは泰然と構え子を抱き抱え、キーリエは悠然と彼女の姿を頭の先から足元まで、何度も何度も、ゆっくりと睥睨する。


「ふむ」


 キーリエは納得したかのように頷く。


「よく我が夫をたぶらかし、子を孕んでくれたの」


 眼前まで歩み寄り、キーリエは嘲笑を浮かべて錫杖を彼女の胸元、眠る赤子の眼前に突きつける。

 瞬間。

 子を守るように身を引いたイリーナが右手をかざしたと思った瞬間、ぱんぱんと鋭い音が二度、渓谷に響き渡った。

 暫時。

 キーリエはよろめき、膝を追って尻餅をついた。


「な、な……!」


 両頬を真っ赤に腫らし、キーリエは呆然とイリーナの厳しい顔を見上げた。

 それは見事な往復の平手を叩き付けたイリーナは、厳しい顔で視点の定まらぬ領主夫人を見下ろし、見据え、睨み付ける。

 そしてキーリエの顔に一瞬の怯えが走った瞬間、ふっとその表情を和らげる。


「あら、失礼」


 彼女はそういって笑う。


「ぶ、無礼な!」


 顔を青白く、そして次の瞬間には紅潮させて夫人は立ち上がり、気色ばんで叫ぶ。

 そこでようやく周囲の人間が娼婦に領主夫人の尊顔が往復ビンタされたことを正しく認識し、息を飲んだようにざわつき始める。


「やったわね」

「すご……」

「まぁ」

「うわぁ」


 アンナ、ヴェロニカ、エレナ、そしてオリビアも彼女の思い切った行動にあっけにとられながらも納得した。


「……キーリエ様、大丈夫ですか」


 傍らからキアラが支えると、その手を振り払うようにキーリエは錫杖を突きつける。


「この無礼者を処刑せよ!」

「キーリエ様」


 キアラがついに、と言った感じで眉を寄せ呻くように呟く。


「下賎な血が混じった赤子もろとも、そこの崖から突き落とせ!」


 見ものじゃぞ、と哄笑するキーリエに、キアラはじめケネスも苦い顔つきだ。


「……そうやって、己が無理と意地を通しましょうか」


 静かにイリーナは呟く。


「ええい、煩い!」


 キーリエの錫杖がイリーナの頬を強かに打つ。

 口の端から血が滲むも、彼女はキーリエから一瞬たりとも視線を外さずに見据え続ける。


「貴女も母なのですね」


 イリーナは呟き、クライフに目を向ける。


「騎士様、クライフ=バンディエール様、貴公のご尽力に感謝いたします」


 そして静かに頭を下げる。


「お待ちくださいキーリエ様!」


 キアラが領主夫人の膝元で必死に取り成す。


「生まれ出でたのは女児にございます、東の辺境区にとのお考えではなかったのですか!」


 言うキアラだが、この軍勢を率いてきたのを確認した瞬間に、恐らく彼女は娼婦たちを生かしておくことはしないであろうと疑念を持っていた。

 そしてそれは、今、確信へと変わる。


「男児であろうと女児であろうと、災いの種には変わらん」


 その楽しそうな表情に、キアラは息を飲む。

 見慣れた女君主の顔が、見たことも無いような悪鬼に変わった瞬間である。


「嫌とは言わせぬ」


 キーリエが首肯すると、ケネスはそのっま右手を挙げて指示を出す。

 横隊の最前列が、ぎしりと弦を鳴らして鉄鋼の矢を数十も構え、満月に引き絞り娼婦たちに狙いをつけるではないか。


「正気でございますか!」


 クライフはアンナたちの前に立ちはだかり、守るように両手を広げる。あの長弓の斉射を浴びれば、鎧を着た自分ごと針山の如く葬られるだろうが、立ちはだからずにはいられなかった。


「キアラ、この状況はどうかしているぞ、私情からの弾劾ではないか!」


 クライフは叫ぶ。

 白百合騎士団の面々にも叫ぶ。

 顔を、目を逸らす彼女たちに、クライフは歯噛みした。


「せっかく生まれ出でた命を、大人が寄ってたかって踏みにじろうと言うのか! 私情は鑑みよう、だがこれはやりすぎだ! ここに正義があろうはずが無い!」

「だまれ小僧、領の禄を食む末端の騎士ごときの癖に、何を言うか」


 キーリエの一喝にも、クライフはまったく揺るがなかった。

 怒りに震え、両の拳を握り締める。


「貴女も母親ならば分かるだろう! 命が生まれたんだぞ!」

「下賎な命が消えうせても、それは淘汰というものだ!」


 クライフの気迫さえも跳ね返すキーリエの、奥底に眠る感情の爆発だった。


「命には貴賎がある、貴様ごときには分からんだろうがな!」


 クライフは確信した。

 彼女は母であるが……女なのだ。母以上に、今はもう、女であるのだ。


「それが貴女の言う正義か」

「血筋、血統こそこの制度の正義よ」


 クライフは天を仰いだ。

 蒼空は、果てしない。

 彼の感情も、果てしなく虚空へと吸い込まれていく。


「貴女の言う正義に、笑顔はあるのだろうか」


 クライフは、誰の耳にも届かぬ呟きを漏らした。


「何があっても、その子を殺すのですか」

「無論」


 キーリエの断じる言葉に、クライフはひとつ頷くと、静かにイリーナに歩み寄った。


「イリーナ」

「クライフさん」


 キアラがキーリエをクライフの間合いから自然と離し警護する。

 それに対し、騎士は取り立てて興味もなさそうに無視をして、一人の母であるイリーナの膝元に恭しくかしずいた。


「序列百五十四位、剪定騎士団団長見習い、クライフ=バンディエール。イリーナ様にお願い申し上げ奉る」


 顔を伏せたまま、厳かに言う。


「……その子を」


 顔を上げる。

 イリーナは全てを受け入れた男の顔を見た。

 それは女の心にいつまでも残る男の静かな笑顔であった。


「その子を私めにお預け頂きたく」


 イリーナはじっと、騎士の顔を見下ろしながら、ひとつ、頷く。


「わかりました」


 騎士は安んじて眠る赤子を恭しく受け取り、その胸へ抱く。


「……良く寝ている」

「先ほどまで、お乳を飲んでいたのですよ」


 イリーナも微笑む。


「……クライフ様――」


 彼女の言葉に騎士は少し微笑み、キーリエに顔を向ける。


「貴様……」


 キーリエの呻きに、ケネスが目配せをする。

 矢の狙いが、クライフに集中する。


「クライフ!」


 アンナの叫びに一度だけ後ろを振り返る。

 娼婦たちは、騎士の安らかな笑顔を、ここで初めて見ることになった。

 年相応の、しかし、男の顔だった。

 それを見ると、もう女は何も言えはしなかった。


「きしさま……」


 オリビアが呟くと、聞こえはしなかったがその口の動きで騎士は察する。そして騎士は声を出さずに口だけで一言少女へ返す。

 少女は、しかし、悲しげな顔を返すのみである。

 騎士は胸元の子を覗き込む。


「ほんとに小さいな」


 生後数日だが、生まれたときよりも大きくなっているように思える。


「貴様がその手で子を投げ捨てるというのか」


 キーリエは面白そうに口元を歪めると、面白いと吐き捨てた。


「私も母だ、己が子を投げ捨てるなどは勘弁してやろう。騎士、お前がその手で投げ捨てよ」


 クライフはキーリエの言葉に頷きもせずに、静かに一歩一歩と崖淵へと歩いて往く。


「この逆鱗の崖は、統治が落ち着かない不安定な時代、世を儚んだ人々が身を投げた場所という伝承が残っているんだ」


 白百合騎士団の面々は皆一様に沈痛な面持ちで。

 ケネスは険しくも眉根を寄せ。

 近衛は訓練された顔の下で疑問を渦巻き。

 キーリエは愉悦の表情で子を失う寸前のイリーナを嘲り。

 娼婦たちは歯を食いしばり。

 イリーナは祈るような表情で。

 そしてクライフは脆く崩れそうな崖淵に立ち、子を抱えて眼下に広がる遥か下方の山林を臨む。冷えた風が、背後から流れてくる。


「俺にできることは、こんなことぐらいだ」


 むずがる赤子をあやすように、ゆらゆらとあやす。


「もう少しだけ寝ていてくれ」


 ――もう少しだけ。


「確かに、ここから落ちれば、肉塊すら残らないだろうな」


 遥か下方は未開の山林だ。

 地元の猟師も寄り付かぬ獣の領域。

 クライフたちの体は、彼らの糧となるか、土へと還る運命であろう。


「こんな状況になってしまったのは、俺の責任――だけではないか」


 苦笑する。


「なんにせよ、君と一緒に身を投じてあげることくらいしか、俺にしてやれることは無いんだ」


 ――母、か。

 ついぞ思い出さなかった故郷の母の顔を思い出す。

 はらりと、涙が落ちた。

 皆に背を向けていることを感謝した。


「何をしている、早く投げ捨てぬか!」


 キーリエの絶叫がクライフの背中に叩きつけられる。


「まったく、うるさいおばさんだ」


 完全に無視し、赤子に苦笑する。

 ……しかし、なんと小さくも強い命だろう。しかしこの強い生きる活力の塊ともいえる赤子も、護る者がいなければ容易く死に瀕するだろう。


「下に川があれば助かるかもしれないが……夏とはいえ濡れてしまえば体が冷える。そうなれば、俺はともかく、君は難しいか……」


 ははは、困ったものだ。

 苦笑し肩を震わせるクライフに、キーリエは業を煮やす。


「ケネス」

「……は」


 ケネスは近衛の団長に指示を与える。

 団長は馬上でひとつ頷くと、馬を半回転させ、己が左手にクライフの背中を捉えると、長弓に矢を番え一息で満月に引き絞る。

 瞬間、矢は一条の光となってクライフの耳元を近く掠める。


「まったく、せっかちな奴らだ」


 騎士は微笑を絶やさずに赤子に笑いかける。


「何を外している、当てるのだ!」


 キーリエが近衛の団長に柳眉を逆立てる。当てようと思い当てられぬ距離ではないのは、近衛の実力からして明らかであったからだ。

 威嚇のみと判断したが、団長は諦めたように第二射を番え、ケネスを伺う。

 ケネスは難しい顔を崩さずに、クライフの、一人で困難に立ち向かった騎士の背中へ声をかける。


「騎士よ、お前が死ぬことは無い。早くその子を――」

「お断りいたします」


 クライフは振り返り、向かい風の中でも良く徹る声で言う。

 その笑顔に、ケネスは内心、呆となる。


「全軍、矢を番えよ!」


 キーリエがケネスを差し置き、団長に叫ぶ。

 もはや、何も言えぬ、何を言っても耳には届かぬであろう彼女に……団長は静かに頷く。

 数十の矢が番えられ、引き絞るぎりぎりという音が無常にも連なる。


「クライフ、ああ、クライフ!」


 キアラが喉から搾り出すように叫ぶ。


「死ぬな、お前は……死ぬな!」


 その言葉にも、騎士は静かに目を細める。

 近衛団長は、惜しい……そう心の中でのみ呟き……。


「撃て!」


 斉射された数十の矢が、風を切ってクライフという騎士一点に迫る。

 赤子を護るように抱き込み、騎士は半身となり重心を落とし――。


「嫌ぁぁぁああああああああああ!」


 その肩当てを矢で大きく弾かれた騎士の体は、一瞬の虚空に身を浮かせ、眼下の奈落へ赤子もろとも吸い込まれるように落ちていく――。

 無数の矢が虚空をなぎ払い、消えていく中、全ての人間の心の中に一瞬の空虚が生まれた。


「は、はは、死んだぞ!」


 キーリエが弾かれたように崖淵に駆け寄り、這い、覗き込む。

 深い山林、いかな生物とて生存している可能性はあるまい。

 赤子なら、尚更であろう。


「ははははは、はは、はっはっは!」


 キーリエの哄笑。

 イリーナは覚悟をしていたとはいえ、膝から崩折れる。

 落涙に気が付いた娼婦たちも、アンナに身を寄せ、その顔を伏していた。

 白百合騎士団は沈痛な面持ちで絶句し、ケネスは無念の表情を一瞬で改めると、片手を水平に振り近衛を一旦下がらせる。


「ふふふ、なかなかに面白い見世物だった」


 それっきり興味がなくなったのか、キーリエはイリーナには目も合わせずに歩み戻った。


「キアラ、あとはよしなに」

「――は」


 もともと、この任務に旅立つあいつに、死ぬぞと警告はしていたではないか。

 今更、何を……。


「総員、撤収準備」


 キアラは馬上のキャサリンに寄り、御者台に乗り娼婦たちを護送するよう指示を出す。

 キアラは愛馬にまたがり、キャサリンの馬を共に引き、近衛本隊に合流する。

 白金の鎧を鳴らしながら娼婦の元に向かうキャサリンの表情は、勤めて冷静なものだった。かけてよい言葉が見つからなかったからだ。


「先に馬車に乗れ、私は彼女を連れてくる」


 促し、キャサリンはイリーナに肩を貸し、力が入らないようだと判断し、抱え、馬車へと乗せる。

 重い空気の中、龍鱗山脈を涼風が薙ぐ。

 二つの命を飲み込んだ奈落は、表情を変えずに深い緑を風で揺らしていた。




 序列百五十四位、剪定騎士団団長見習い、クライフ=バンディエール。

 彼はこの日、バレンタインの子を殺し、妹分となるイリーナを迎えに来たキーリエ、そして大臣のケネスをも殺害せしめんとし、近衛に討たれた逆賊として処分された。

 反逆の理由は不明。彼の名は公式の騎士団名簿からも抹消され、名を残すことも許されぬ存在として闇に葬られることになった。

 一件を聞いたオーギュスタン=バレンタインは、「そうか」と呟いたかと思うと、ケネスがもたらした彼の処分書を即座に決したのである。




 ひとつの命の誕生と、続くふたつの命の死は、領土の民に知られること無く、ここに終わったのである。

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