第21話『乱れる麻縄のように(7/8)』
*
暗い山林は、月と星によって切り取られたかのように白い道を浮き上がらせている。
左手に小川の音を耳に、上流へと彼女たちは歩いていく。
ゆっくりと。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なあに?」
「……あかちゃん、だいじょうぶかな」
一瞬の間があり、ヴェロニカは頷いた。
「みんなが付いているんだもの、大丈夫よ」
オリビアはこくんと頷いた。
「じゃあ、お姉ちゃんにはオリビアがついてるからあんしんだね」
ヴェロニカが、その一言にぴたりと足を止める。
「……どうしたの?」
「な、なんでもないわ」
足を止める彼女の前で、オリビアは不思議そうに姉の顔を覗き込む。
ぽたぽたと、なにかがこぼれ落ちてきたかと思うと、姉は膝を折り、幼女から手を離して座り込むように伏す。
「――ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
搾り出すような呟きだった。
肩を震わせ、きつく拳を握り締め、己が体を胎児のように丸めて嗚咽を漏らす。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「お姉ちゃん、なにが哀しいの?」
その背中を優しく撫でながら。母にされるように、優しく撫でながら、オリビアはまるでこれから産まれ出る妹か弟をあやすように首を傾げて問いかける。
「だいじょうぶだよ、きっと。……オリビアもいっしょにがんばるから。ね?」
痙攣しかけの体を優しく撫でる。
オリビアは、川と山林の先を見据えた。
「……むこうに何かがあるんだよね」
そこに行けば、姉は死なない。
そこに行けば、姉の哀しい顔は笑顔に変わるのだ。
「……オリビアが行くから、あんしんして。あやまらなくてもいいんだよ」
任せてとばかりに、幼い彼女は自分の胸をひとつ叩く。
「――え?」
オリビアは顔を上げる。
涙でくしゃくしゃになった顔で、誇らしげな幼女の笑顔を見上げる。
「ここでまっててね」
山林を行く幼女を引きとめようと、ヴェロニカは息を呑んで立ち上がろうとする。
「――!」
足に力を入れた瞬間、下腹部に異常を感じる。途端に力が抜け、前のめりに倒れてしまう。
「行かないで、オリビア! ダメよ!」
――毒は胃腸から、体の内部を腐らせる。
その言葉を思い出し、恐怖で身がすくむ。
毒の効果が現れ始めたのだ。
体に力が入らない。恐怖か、毒か、思うように手足が動かない。
幼女は立ち止まることも振り返ることもしないまま、一目に先を目指す。
小さい村の小さい教会は、もうすぐだ。
ひとつ高くなった丘を越えれば、すぐだ。
そこにはあの悪鬼がいる。
「ダメ……オリビアぁ……!」
自分はもう助からないだろう。
毒の効き目は思うよりも早かった。きっと、運命を操る何者かが自分に下した罰なのだ。幼い女の子を自分の命惜しさに利用しようとした自分への罰なのだ。
手足に、力を込める。
幼い子供があの男の手に落ちたなら、更なる地獄をみんなにもたらすだろう。
産まれるであろうイリーナの子供にも災禍が降りかかる。
もう、たくさんだった。
「行っちゃ……ダメ!」
足が地を蹴った。
体が前へと進む。
ヴェロニカは涙で霞む目で幼女の背中を追い、必死に手を伸ばして追いすがる。
子供の足も、意外に早い。力の入らない足では、なかなかに追いつけない。
夢の中で死んだ両親に追いすがろうとしていた自分を思い出す。
「行かないで、行かないで……!」
丘に差し掛かる手前まで追い、ヴェロニカは再び前のめりに倒れ伏した。
その音で、やっとオリビアは振り返り足を止める。
「お姉ちゃん……」
幼女はヴェロニカの元に駆け戻り、おろおろしながら彼女の肩をゆする。
「じっとしてていいんだよ? オリビアががんばるから」
「行かないで……ごめんなさい……ごめんなさい……」
オリビアはそんな彼女の顔を優しくその胸で抱きしめると、優しく頭を撫でる。
「いい子、泣いちゃダメなんだよ。誰もお姉ちゃんをいじめないから」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
ヴェロニカは、そんな幼女に縋りつき、胸で泣く。
オリビアは母譲りの微笑で、姉の頭と背を優しく撫でる。
そんな彼女たちを丘の上、その樹上から見る邪悪な目が、あった。
「ははは、とんだ茶番だ」
遠くその様子を見つめていた青龍は、月光に照らしぬかれたそんな女二人を静かな嘲笑で見つめている。
追い込まれた人間の醜い様子は彼の糧だ。
しかし、これは初めてだ。
一度落ちた人間が我を取り戻すとは。
こうなれば、あとはヴェロニカという娼婦を殺し、醜く裂き開き、臓物を撒き散らした死体でも放置しておこうか。
青龍は遠く丘の下の二人に迫らんと、静かに木から飛び降りる。
その瞬間、彼と彼女たちの間に立つ小高い一本の木の幹の間から、ゆらりと姿を現す男がいた。
「――貴様、いつの間に」
「彼女たちには指一本たりとて触れさせん」
クライフは剣を抜き放ち、左片手で大上段に構え、右手刀を拝むように顔前に立てる。半身で、左足を前に、道に立ちふさがる。
「貴様が青龍か」
「いかにも」
間合いは十メートルほどか。
剣の間合いではない。
青龍という男が弓を持つことは聞いていた。
しかし、弓を組む間に即座に仕留められる間合いであるにも拘らず、青龍に焦りの色は無い。
「弟が世話になったようだな」
生死を聞くほど依存は無かった。
「ふふふ……こいつを知っているか?」
青龍は右手の指の間に、いつのまにか月光にもぬらりと濡れ光る数本の手投げ杭を取り出していた。細く手のひらに収まるその武器は、すでに投擲用に素早く構えられている。
「塗られているのはバルドラスの蛇の毒を濃縮させた薬液だ」
クライフの眉がピクリと動く。
「掠っただけで、即……死ぬ」
青龍は打ち下ろしの姿勢だ。
合わせ、十数本の手投げ杭をじっくりと騎士に見せ付ける。
「この十数本を一気に、あるいは時間の差を出して投げ込む。全てよけられるか? ひとつでも当たれば、掠っただけで、即……死ぬ」
青龍は嗜虐の笑みで騎士の顔を舌なめずりをしながら覗き込もうとする。生憎と月は天上、影となった騎士の顔は伺えない。恐怖を滲ませているであろう相手の顔が見える位置に動きたいところであった。
「まず、体が動かなくなる。激痛に苛まされ、苦しみぬき、肌は黒く変色し、水ぶくれに覆われ、二目と見られぬくらいに顔が醜く膨れ上がり、腐った泡が口から漏れる。緩んだ筋肉がだらしなく伸び、尿も糞便も垂れ流し、醜く死んでいくのだ」
一言一言、ゆっくりと区切るように、青龍は騎士に聞かせる。
果たして、その通りの毒であることは騎士も感じている。
北の辺境でもバルドラスの蛇の毒は聞いたことがある。確かにそのような死を迎えるそうだ。
だが、騎士はひとつ息を吸うとため息をつく。
「――下らん」
そこにはなんら怯えの色はなかった。
青龍は顔を上げる騎士の目が爛々と闘志に燃えているのを確認し、息を呑む。
そんな彼に騎士は言う。
「もともと、我らがこれと決め打ち込んできた闘術というものは、喰らえば死ぬものばかりだ。いまさら一撃が命に到ることをことさらに誇張したがるのは、弱者の戯言に過ぎん。毒であろうと、剣であろうと、その一撃は必殺であることを知るべきなのはお前の方だな」
クライフは、静かな気持ちだった。
「――では死ね!」
ビョウと投げられる手投げ杭が闇夜を切り裂く。投擲の間合いを飛来する十数本の杭。青龍は左右どちらにも身をかわせぬよう、狭い道全てを覆うよう、一気に投げ込んだのだ。
「つぁ!」
クライフは彼が投擲の姿勢に入った呼吸を読み、間合いを高速で詰める。
半身になった体を一直線に跳ね飛ばす。
杭と体の死線が交錯する一瞬、その体が大きく沈み込む。
騎士の体は大地すれすれの部分を走り抜けていた。
刺さりやすい太もも部分をも狙った青龍の杭も、それよりも低い位置を滑り迫る騎士の体移動は想定外の間合いだった。
柔軟な重心移動と柔軟でしなやかな股関節、そして呼吸。
一瞬で重心を落とした騎士の姿は、青龍の目から消えたも同然であった。
打ち下ろした杭のことごとくが空を裂き、木々や大地に穿たれる。
「げうっ!」
――瞬間。
刃を上に、剣を腹腔から肺腑まで抉り上げられ、多量の体液と臓物を巻き散らかし、青龍は絶命した。
騎士は重心を跳ね上げさまに剣を振り上げ貫く。湿った音とともに青龍の首の後ろから刃が飛び出る。
恐るべき切れ味を秘めた剣だった。
臍のあたりまで斬割された青龍の死体が、血生臭さをあたりに撒き散らす。
ひとつ息をつき、クライフは風向きが二人のほうに流れないことを確認し、懐紙で血を拭って剣を納める。
そのとき、丘の上に立つ騎士の姿に、下の二人が気付いた。
動揺するヴェロニカが、オリビアの胸元から彼を見上げる。
月を背に優しく佇む騎士の姿。それは彼女が追い求めた末に見た幻なのか。
しかしその騎士は現実に申し訳なさそうに手を振り、彼女たちの元に急ぐ。
駆け寄るその顔が大きくなり、表情を確認すると、ヴェロニカの心は堰を切ったように感情の坩堝となった。
「クライフぅ……あたし、あたし……」
「大丈夫、青龍は倒した。もう怖いことは……」
ヴェロニカはビクリと体を振るわせる。
「殺したの!?」
不思議に思いながら、騎士は頷いた。
「そ、そう……」
どこか諦めたように、ヴェロニカは項垂れる。
「でもよかった……解毒薬が無くても、これで死ぬのは私一人で済むのね」
「どういうことだ」
クライフはヴェロニカの体を支えると、抱え上げながら聞く。
「実はね――」
ヴェロニカは事の成り行きを語った。
諦念に彩られた彼女の口調はあくまでも安らぎに満ちている。
――激痛に苛まされ、苦しみぬき、肌は黒く変色し、水ぶくれに覆われ、二目と見られぬくらいに顔が醜く膨れ上がり、腐った泡が口から漏れる。緩んだ筋肉がだらしなく伸び、尿も糞便も垂れ流し、醜く死んでいく。
ヴェロニカはそう言った。
「バルドラスの蛇の毒……?」
「あんた、知ってるのね」
「ああ、しかしそれは」
遅効性ではなく、先ほどの闘いでも使用した通り、即効毒のはずだ。
「……飲まされたと言ったな。どんなものに入っていた」
「こんな、小瓶だよ」
ヴェロニカをオリビアに戻し、クライフは踵を返す。
「こっちには近づかないように、危ないから」
死体に近寄らせないように騎士は言い、青龍の懐をまさぐった。
荷物袋らしい腰の皮袋から、いくつかの瓶と粉末が見つかる。
それを皮袋ごと回収し、クライフは他の手荷物を確認する。
路銀と少量の生活用品。
彼らの職を考えるなら全ての武器は身につけているはずだ。
「……こんなものか」
ヴェロニカの元に戻ったクライフは、青龍の手荷物の中身を彼女に晒す。
「月明かりで見えにくいかもしれないが、どれだ?」
ヴェロニカは汚いものを触るような手で荷物の中身を探る。
「あ、不用意に触らないで」
「もう死んじゃうのに、そんなこと気にしてたって……」
「解毒薬があるかもしれないし、他の毒に触る可能性だってあるんだ」
あ……とヴェロニカが呆けて、希望の光を滲ませて騎士を仰ぎ見る。
そして注意深く袋の中身を探り、「これだわ」とひとつの瓶をつまみあげる。
クライフは受け取り、同じような瓶をもうひとつ見つける。
こちらは空の瓶で、飲み口の少し下に紅が付いている。
「私に飲ませたときに付いた口紅だわ、きっと」
「すると、これか」
クライフは瓶を空け、注意深く臭いをかぐ。
「――……これは」
騎士の反応に、ヴェロニカがぐびりと喉を鳴らす。
「ど、どうなの?」
「ヴェロニカ」
その問いには答えず、クライフは娼婦の顔を覗き込む。
「いまどんな感じだ?」
「え、うん……その、力が入らないし、すこしお腹が変かな」
騎士は彼女が言う症状に納得したように頷いた。
「ほ、ほんとに毒なのね……」
改めて絶望を突きつけられたようにヴェロニカが顔を青くする。
「落ち着け、これは油だ」
騎士は真面目にそう呟く。
「わかったわ、油なのね……」
ヴェロニカは、それで自分はいつ死ぬのかと聞き返す。
騎士はもう一度真面目な顔で、今度は彼女の肩をしっかりと掴んで言う。
「油だ。ヴェーラの実を絞り抽出した、日持ちする油だ」
「げ、解毒薬はあるの!?」
騎士は首を振る。
娼婦は絶望に、乾いた笑いを漏らす。
「は、はは……ど、どんな症状が出るの?」
「まず、これだけ飲むと胃腸に影響が出る」
「やっぱりね」
「一日二日は消化能力が落ち、お腹の具合が悪くなる。下ることも多い。食用油としては使えない燃料用の油だ」
「今の私もお腹の調子が悪いの……」
騎士は頷く。
「そうだろうな。俺もむかし興味本位で飲んで大変な目にあった」
「………………」
そんな騎士の顔を、やっと、ヴェロニカはしっかりと見据えることが出来た。
「なんであんた、生きてるのよ」
「死ななかったからだろうな」
あっさりと言う騎士に、娼婦は大きく深呼吸し、もう一度聞く。
「これは何?」
同じ瓶を指して言う。
「油だ」
娼婦は黙り込む。
騎士はその同じ瓶の中身を地面へと軽く垂らし、そこへ道具入れから出した火打石を使い、火花を数度散らせる。
――ぼぅ。
明るい光が三人を照らす。
生真面目な騎士の顔。
涙でぐしゃぐしゃになった、それでも呆けたような怒ったような娼婦の顔。
そして突然上がった炎に興味津々なニコニコとしてる幼女の顔だ。
「油?」
娼婦の問いに、騎士は頷く。
「種カスを絞って作る、あれ?」
「そうだ」
「もしかして、あんたの実家でも扱ってるってやつ?」
「薪と、この油の二種扱っている」
火がゆっくりと小さくなっていく。
クライフは瓶の中身を注意深く指に垂らし、舐めてみる。
燃えた炎から不審な色も臭いも無い。
味も……懐かしくも苦い思い出の味だ。
「これだろう?」
クライフは指に垂らし、ヴェロニカの口元に持っていく。
娼婦はボーっとしながらその指を舐める。
「……これだわ」
「油だな」
ヴェロニカは思い切り騎士の横面に平手打ちをかます。
鋭い打撃音が夜の山林に響く。
騎士がこの旅で唯一こうむった、まともな打撃。
それはこの娼婦からのものだった。
「い、痛いな……何をする」
「こ、怖かったんだぞ」
驚く騎士だが、娼婦の顔は少女のように弱く涙ぐむ。
「凄く怖かったんだから……」
そのまま、ヴェロニカはクライフの固い鎧の胸に顔を埋める。
いきなりのことで表情とともに硬直した騎士が両手をどうしようか迷ってるのをよそに、オリビアが一人すべて納得したかのように騎士と娼婦の頭を撫でるのであった。
「ウェンディが……?」
「そうだ」
クライフはオリビアを背負いながら、よたよたと足腰の定まらないヴェロニカに手を貸しながら夜道を戻る。
青龍の荷物は、怪しげな毒と見つけられた限りの毒杭とともに土に埋め、油をかけて軽く燃やし、煙が激しくなる前にクライフが土をかけて封じた。
「産所の俺に知らせに来たんだ。ヴェロニカを助けてあげて、ってね」
「イリーナは?」
「彼女も妹を助けてあげてってさ」
息みながらも、彼女はクライフの手を自ら離し、苦悶の色を拭いながらも気丈に微笑んだのだ。もう勇気は充分に頂きました、と。今はヴェロニカを助けてあげて、と。
「……かなわないな」
ヴェロニカは呟く。
幼女に縋りつくように泣き、騎士に助けられ、姉たちに心配されて。
「あたし、とんでもないことしたのに……」
「……」
騎士はヴェロニカの言葉に苦笑を漏らし、静かに言う。
「『どんな場合だって、やっちゃった奴らのほうが悪い。理由こねて人のせいにするのが上手いんだ、あいつらは』」
「え?」
「緑葉を脱出する際、イリーナに君が言った言葉だ。悪いのは、君を追い込んだ青龍であって、たぶん俺でもあるんだろう」
「そんな、クライフ……」
「もっと早く聞いていればよかった。聞こうと決めたはずなのに、優先順位をつけて君を後回しにしていた俺が悪い」
前を向いている騎士が後悔の表情をしているのを、ヴェロニカは見なくても分かっていた。
「……覚えてる?」
「何をだ?」
「今夜の一騎打ちのとき、『悩みを話してくれ』って言ってくれたでしょう」
クライフは思い出したように、ああと頷いた。
「ちゃんと話していればよかったのよ、私も。だから、おあいこ」
そうか、と騎士も苦笑する。
「……背中で寝息を立てている。寝たのか、オリビア」
話を変えるように騎士が言うと、ヴェロニカは腕を絡めてくる。
「ねえ、クライフ」
騎士は首をかしげる。
「もし私が本当に毒で醜く死んじゃうとしたらさ」
ヴェロニカは腕に力を込める。
「醜く死ぬ前に、女として……普通の女として抱いてくれる?」
騎士は、見上げるヴェロニカの目を真っ直ぐに見つめる。そこには女性の持つ恥じらいが滲み出ている。
彼女の脳裏には、幸せに暮らすウェンディの姿が去来しているのだろう。
彼女の憧れ、幸せな家庭。
遠い夢だった。
「そうだな……」
騎士は少し考え、答える。
「毒が感染りそうで怖いから勘弁してもらうかな」
騎士が答えた瞬間、ヴェロニカの拳が騎士のわき腹に勢い良く突き刺さった。
わき腹を押さえた騎士が宿に戻ろうとしたとき、勢い良く馬を飛ばす白百合騎士団の女騎士が三騎、巡回から駆け戻ってくる。
「クライフ=バンディエール!」
女騎士がやっとと言うように声を上げる。
「どうかしたのか!」
「そろそろだ! もう頭が出ている!」
背中のオリビアがはっと顔を上げる。
「あかちゃん!」
騎士もヴェロニカも、はっとした。
「急げ!」
「ありがとう」
先んずる騎馬の後を、騎士は娼婦の手を取り駆けた。
「急げヴェロニカ、新しい家族の誕生に君が祝いの言葉をかけなければ、イリーナが悲しむぞ」
「わ、分かってるわよ! でも力が……」
「食事をきちんと摂っていないからだ」
騎士に叱られ、素直にヴェロニカは足に力を込める。
息が上がる。
騎士の背中でオリビアがはしゃぐ。
ゆるい上り坂を駆け上がる。
広場を疾走する。
「見えた……!」
宿の明かりだ。
三騎の馬も、入り口の脇に止まっている。
――う……あああああああああああああああああああああああ!
「イリーナ!」
ヴェロニカがその絶叫に宿へと駆け込み、続いてクライフがオリビアを背に産所へ参じる。
全員がイリーナに目を向けていた。
全てがいま、一転に集中していた。
イリーナと……そのへその緒で繋がれたひとつの小さな生命に。
その命は、産み出した母親のお腹に顔を出し、こんにちはをしている。
瞬間。
――っあああああああああああああああああああああ!
火がついたような産声。
イリーナは元気に声を上げるわが子を愛しげに見、その元で赤子を抜けた腰で支えるのは疲弊しきったアンナである。その産声を、その場に居る全員が粛々とした気分で聞く。
産まれ出でた命は、生きる力に満ち満ちていた。
「…………ふふ」
いま母になった女は、騎士に連れられて駆け込んできた妹の顔を見て安堵の笑顔を返す。
息み過ぎたせいで内出血した顔はひどかったが、それでも威厳と美しさに満ちていた。
「騎士様」
クライフではなく、イリーナはキアラへと言葉を投げかける。
「…………」
「騎士様」
再度呼ばれ、キアラは我に返ったかのように頷く。
「あ、はい……なんでしょうか」
何故か敬語で返し、言葉を待つ。
「へその緒を切ってください」
私が……とキアラは戸惑い、クライフを見る。
「俺は今、清潔な手ではないからな」
「う、うむ……では仕方がないな、私が……」
キアラは用意してあった煮沸消毒済みのナイフを手にし、へその緒を見やる。
羊水と血にまみれたそれは、彼女の体内から赤子の臍につながった、まさに命の道だった。切り離すことに躊躇を覚えるが、静かなイリーナの視線に、すいと刃を走らせる。
命の分離が、いま終わる。
共有されていた命をイリーナは優しく布で包み、抱え上げる。
そのふらつく体を、一斉に十人近い人間が支えようと手を差し伸べる。
イリーナは、軽くへその緒をしごき、細く深く結ぶ。
「ふふふ、女の子で出臍は可哀想ですからね」
羊水を優しくふき取りながら、イリーナは笑う。
「クライフさん……」
彼女は騎士を呼ぶ。
クライフは、オリビアを背にしたまま、歩み寄る。
「さあ……」
赤子を差し出すイリーナ。
クライフはその火が付いたように泣く命を前に戸惑う。
彼は駆けつけて尚、手も洗っていないのだ。
それでもイリーナは笑顔だ。
「やさしく、抱いてください」
「は、はい」
クライフは命を抱きうける。
皮手袋ごしに、柔らかいものを感じる。
軽いが、この上なく重い。
そして、熱い。
「わあ……ちっちゃい!」
背中から乗り出すようにオリビアもその無垢な赤子のしわくちゃな顔を見つめて言う。
「ああ、ちっちゃいな」
でも、なんと巨大な命の輝きだろうか。
クライフは、安心して目を細めるイリーナに頷き返す。
そして横合いから手を差し出すアンナに赤子を託す。
「さて、産湯の準備は出来ているのか…………って、あんたたち」
アンナは白百合騎士団の女たちが熱く目を潤ませているのを今更ながらに気が付いた。
「まったく、あんたらも女の子だね……」
苦笑するアンナに、エレナが声をかける。
「大きい桶ですが、これを使いましょう」
使っていない鉄の桶を、エレナが持ってくる。大人でも一抱えありそうなものを一人で運び、隣の卓に置く。
「綺麗に洗っておきましたよ」
「さすがエレナだ」
そのとき、やっと気が付いたようにウェンディが厨房から夫とともにやってくる。
「お湯の温度は人肌ですよ」
その手には、胴鍋で湯気を立てる湯。
ウェンディはヴェロニカに視線を交わし、頷きあう。
「さ、あとの処理は任せて、他の女は寝床の準備! 男どもは外へ行きな!」
アンナの声が響き、皆が一斉に動き出した。
気を抜くのは、後産を終えてからだ。
「産後の肥立ちが一番大事なんだよ!? さ、早くしな!」
誰しも顔に喜色を浮かべていた。
そんななか、クライフは一人沈痛な面持ちのキアラを誘い、外へ出る。
まだ夜明けまでだいぶ時間はありそうだった。
星空、そして月。
クライフは花畑のそばで振り返る。
「キアラ、どうするんだ?」
「どうするとは、何をだ」
「彼女たちを、だ」
そうだな……とキアラは首肯した。
「生まれてきたのが女児であるなら、確かに話も変わってくるだろう」
「なんだって?」
クライフは聞き返す。
「女の子なのか!?」
「……お前は何を聞いていた」
呆れたようなキアラの言葉に、クライフは咳き込みながら答える。
「布にくるまれていたし、そんなにマジマジと見てはいないからな」
「ちがう、あの娼……イリーナがへその緒を結んだときに言ってたではないか」
――女の子で出臍は可哀想だ。
クライフは思い出すかのように首をかしげる。
「……言ってたっけ」
「言っていた」
まあ私も確かめたわけではないがな、とキアラは言う。
「これで跡目争いに関しては終結するだろう。なにせ、サーシャ様がいるのだから、継承権に何も問題はなかろう。……政治の道具になる可能性はあるがな」
サーシャとは、オーギュスタン=バレンタインとキーリエの間に唯一もうけられた女児のことであると、クライフは思い出す。
「とにかく、貴様らを護衛し、領都へと向かう。それは変わらん」
キアラの言葉に、クライフも頷いた。
「やっと安心できるな」
「……その間抜け面を引き締めろ、まだ帰り着いたわけではないのだぞ」
「それもそうだな」
騎士は苦笑する。
「深手を負っているとはいえ、あの赤龍も――」
「赤龍は死んでいる。巡回中に死体を発見した」
クライフはそうか、と呟く。
つとめて表情を崩さないようにキアラは気をつけていたが、覆い隠せていたかどうか。
「青龍も仕留めた」
「そうか」
今度はキアラが頷いた。
「アゴラの双龍も、寒村の土か」
「……キアラ、ひとつ聞かせてくれ」
「なんだ」
「あの暗殺者、誰が雇ったのかは聞かない」
「…………」
「覚えているか?」
クライフは空を振り仰ぐ。
「白百合騎士団設立に際して謎の死を遂げた文官の話だ」
「……!」
キアラは眉根を寄せた。
「ああ、知っている。設立反対を唱えていた、武官寄りの生真面目な文官だったな。ケネス大臣とも反りが合わぬ、武官の間者とか噂されていた男だな」
クライフはそこまでは知らなかったが、頷く。
「毒殺されたと思わしき死に様だったらしい。北方辺境区で砦の老騎士隊長に聞いた話なんだが、妙に記憶に残っていてな。今回のことがあって、ふと思い出したんだ」
記憶をたどりながらクライフは言う。
「肌は黒く変色し、水ぶくれに覆われ、二目と見られぬくらいに顔が醜く膨れ上がり、腐った泡が口から漏れ、緩んだ筋肉がだらしなく伸び、醜く死んでいたらしい」
「恐ろしい毒もあったものだな……」
「バルドラスの蛇の毒という」
キアラは騎士の顔を見る。
笑ってはいなかった。
「青龍が同じ毒を使っていた」
「なんだと?」
「どうつなげるかは自由だ。彼らを雇った真の雇い主がどういう意図で彼らを遣わせたのかはわからんが、あの腕を見ても、獲物を前に遊びをする未熟者であることは明白だ。真の意図が共倒れであったのかもしれないと、少し思っただけだ」
キアラはキーリエの顔を思い浮かべる。
この一件、確かに全容を知るものは彼女一人なのかもしれない。
「キアラ、気をつけろよ」
クライフは一言のこし、宿へと入る。
キアラはじっと佇むのみである。
「……まったく、次から次に」
ため息が漏れた。
そして誰しもが忘れられない夜は、静かに明けたのである。
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