第18話『乱れる麻縄のように(4/8)』

   *


 周囲を囲む人数は、二十騎。

 彼いわく、カーライル傭兵団の半数近くらしい。残りはいま、侵攻路の最前線を警護するため、いまだグレイヴリィ本隊と緑葉に残っているらしい。……らしい続きだが、クライフはその情報を素直に信じることにした。


「これはな、儀式なんだ」


 バドラスの言葉を借りるなら、そういうことらしい。

 彼ら傭兵団の伝統。彼らの中で地位あるものが、仲間に引き入れるべき者を己が力で試すのだそうだ。その際に流した血で染め上げたものが、腕に巻く布……であるそうだ。

 そのとき、クライフは得心した。

 間引きされたが故の精鋭。


「そいつをあれだけ倒しのけたのだ、お前は見た目や経歴以上の奴なのだろう」


 だから欲しくなった。

 バドラスはそう言った。


「ビスタルの野郎に圧し折られたんだってな」


 クライフの剣のことである。


「だが、手加減することも剣を貸してやることも傭兵の仁義に反する。悪く思うなよ、騎士殿」

「わかっている」


 クライフは頷いた。

 彼は短剣ひとつで戦うつもりである。


「受けるかね、この闘い」


 バドラスは殺気を込めて問う。


「受けよう」


 クライフはその殺気を弾き返す気迫を込め、返す。

 ――そのときだった。


「副隊長!」


 河川に掛かる橋を越え、一騎の伝令が駆けつける。


「……水を差すな馬鹿者」

「申し訳ありません。北より、例の部隊が……」

「なんだと?」


 バドラスは意外に冷静にそれを受け止める。


「少し待て、騎士。見物人が増えたぞ」


 騎士は歯噛みした。

 まさか、増援か。

 ――いや、確か北からと言ったか?

 クライフの疑問が形を成す前に、それはやってきた。

 月光を反射する白銀の鎧。透き通るような白馬。


「ほう、あれか。噂どおりだな」

「ば、馬鹿な!」


 クライフは叫んだ。

 御側御用親衛隊、白百合騎士団。

 キアラの厳しくも懐かしい顔が、カーライル傭兵団の騎馬の先導の下、やってくる。

 馬蹄の音が聞こえ始めたとき、クライフはことの状況を理解した。

 理解し、歯噛みし、拳を関節が白く浮き出るほど手甲の中で握り締める。


「貴様ら、道を空けてやれ」


 騎馬の囲みが左右に分かれる。

 だく足の騎馬が、後続の部隊を手前で残し一騎で近づいてくる。

 白銀の鎧、白馬、そして見知った顔。


「キアラ」

「クライフ」


 馬上へ投げかけられた言葉は、馬上から返された。


「びっくりしただろうな」


 バドラスが言う。


「どうするよ、女騎士」


 バドラスの問いかけに、キアラはつまらなさそうに背筋を正す。


「貴公らの邪魔はせん、そう指示されているからな」

「結構だ」


 キアラはそのまま独りの妊婦に目を留める。


「彼女が……」


 美しい娘だった。

 キーリエとは対照的な娘である。

 ――バレンタイン様が夢中になるはずだな。

 キアラの視線を受け止めるイリーナは、優れぬ気分の中でも気丈に目を逸らさない。


「これからこいつの入団を試す大事な儀式だ、しばらく大人しく見ているんだな」

「儀式だと?」


 バドラスは簡単に事情を説明し、キアラはクライフに「本当なのか?」と目線で問い、騎士は黙って頷いた。


「お前ら、馬の幅を広げろ」


 カーライル傭兵団の馬の間に、白百合騎士団の女騎士たちを交互に配置するよう指示を出し、キアラもそれを受け入れて指示を出す。

 わずかに戦場が広がる。

 キアラは酷く厳しい顔つきで馬を降り、愛馬を副官に託す。


「…………」

「元気そうだな、キアラ」

「元気なものか、馬鹿者!」


 しばらく見詰め合っていた二人だが、不意にクライフが笑いかけると、キアラの緊張も頂点に達する。


「貴様、一騎打ちだと!? ふざけているのか!」

「ふざけているつもりは無い」


 そうするしかない状況なのだと、付け足す。

 簡単に説明し、キアラも一応は納得する。


「あのバドラスという男、相当強いぞ」

「かの傭兵団の二番隊隊長だ、弱いはずは無い」

「あの武器の間合いと威力は相当なものだぞ。騎士の長剣一本では――」


 そこでキアラは言葉に詰まった。


「クライフ、貴様、剣はどうした」

「折れた」


 こともなげに答える彼に、キアラは目をむく。


「武器も無く一騎打ちを引き受けたのか! ――――!!」


 瞬間、キアラは自分の言葉に思いがけず肩の重みに意識が向いた。

 中を確認した覚えは無い。

 しかし、確信はあった。

 あの老師匠は、これを弟子に――クライフに渡して欲しい、そう言っていた。


「どうしたキアラ、飯が喉に詰まったような顔をして」

「……クライフ、貴様は私を軽蔑しないのか?」

「軽蔑?」

「バレンタインの禄を食みながら、反逆行為に身を投じている私をだ」

「キーリエ様私設騎士団だからな。騎士団として正式な序列を得ていない白百合騎士団が主君と仰ぐはキーリエ=バレンタインただ一人。そう教えられているが?」

「……私は」

「騎士として、主君に忠誠を誓っているのは当然だ。主君をいさめるのは騎士ではなく家臣の役目だ」

「…………」

「お前は昔から生真面目な奴だったからな」


 クライフは苦笑する。

 そんな騎士の苦笑に、キアラは諦めたかのような表情を一瞬浮かべ、左肩に担いでいた物を引っつかみ、厳しい顔つきで彼に投げ与える。


「受け取れ」

「……これは?」

「貴様の師匠とか言う、片目の老人からお前に、だそうだ」


 クライフはその両手にズシリと来る重み、その重心の配分、長さ、全てに驚いていた。


「古く言えば、これも巡り合わせというやつなんだろうな」


 キアラの言葉を耳に、クライフはその包みを開ける。


「話は済んだ、あとは好きにしろ」


 黙って聞いていたバドラスに、キアラは場所を譲る。


「お仲間同士の最後の会話、堪能したようだな」


 キアラは答えずに副官が曳いた愛馬の馬の元に戻り、一言二言指示を出している。


「さて、頃合だ。準備は…………なんだそれは」


 バドラスはクライフが持つそれに目を留める。


「これか?」


 クライフは包みを脇に置き、その中身を両手で押し頂くように掲げ、左手に持ち替える。


「――どうやら、俺はカイデン、とかいうものになったらしい」

「ん?」

「異国の剣だ。国許からキアラ……白百合の団長が俺に届けてくれたんだ」

「ほう、ちょうどいいな。悪運はあるようだな」


 まあ、もっともそれが闘いには欠かせはしないのだがな。

 ビスタルはそう呟き、彼の持つ一振りの剣に目を留める。

 微かに湾曲した黒塗りの鞘、柔い四角にも見える円形の鍔、蛮刀のように両手で扱うくらいの長さの柄。


「その剣、欲しいな」

「俺が死んだら、好きにしろ」

「そうさせてもらおう」


 飛び退るようにバドラスとクライフは間合いを開く。

 その間合いは、大きく、じわじわと開く。

 バドラスは武器を背から引き抜き、鞘を払って投げ捨てる。

 クライフは左腰に刀の鞘を差し込み、静かに鞘走らせ、抜き放つ。

 ぎらりと、鈍色の刀身が月光と篝火の光を跳ね返し、その腰間から姿を現した。

 微かに湾曲した、幅広の片刃。王国所領で採用されている鋼の煌きのそれとは違う、ま白き刃と鉄の織り成す文様が刃に龍鱗山脈の峰々、雲々のように連なっている。

 引き抜きながら、クライフは闘いの緊張の中「美しいな」と呟いた。

 相対するビスタルも、白百合騎士団と傭兵団の面々も、息を呑み、続いて「おお」と嘆息する。


「細身で薄いな、美しいが……簡単に折れるんじゃないか?」

「心配無用だ」


 クライフは手甲の部位を調整し、手首の部分の装甲を外しながら答える。

 馴染んだ皮手袋だけにし、やわらかく柄を握り正眼に構える。

 戦闘の気迫に、周囲がシンと静まり返る。


「いい気迫だ」


 バドラスも大上段に構える。

 気迫が満ち、緊張が高まる。

 ――これが、あのクライフか。

 キアラは息を呑んだ。

 情報をあわせれば、彼の戦歴はここ数日で十数人を屠っている。

 カーライル傭兵団の末端だけならばまだ頷ける。

 しかしまぐれではビスタルとか言う男は倒せまい。

 気配が、動いた。

 バドラスの垂直に構えた長柄の直刀が、右足の踏み込みと同時に最短最速の軌道で叩きつけられる。正眼に構えた剣の切っ先を体の重心に合わせ、柔らかくばねのように、しかし強かに受け流し弾き返す。

 言うなれば、体全体の粘りによって吸い寄せ、弾いたようなものだった。下手な受け手では、この一合で刀身を圧し折られていたであろう強烈な斬撃であった。

 素早い体さばきで左右を入れ替え、再び間合いを取る。

 戦場の乱戦とは呼吸が違う。

 常に相手の気配だけに集中できることは、お互いにとって幸か不幸か。

 見守る娼婦の視線は、必死である。

 この絶体絶命の状況下で、騎士は自分たちのために命と尊厳をかけて戦っているのだ。

 白百合騎士団と呼ばれた騎士団も、なぜか南方からの侵略者に阿るかたちで追従している状況は理解ができなかったが、ただ、自分たちが現状で孤立した存在であると言う事実だけが認識できた。

 彼女たちの味方は、たった一人戦う騎士を含む彼女たちだけなのだ。


「お願い……勝って」


 はらはらと涙をこぼしながら、ヴェロニカは祈った。

 その祈りに呼応するかのように、クライフの持つ異形の剣の切っ先がツと上がる。正眼から、顔の右に垂直に立てるように構えが変わる。兜をつけぬバドラスの眉間を断ち割らんとする意図が読み取れる。

 ――ここに来て頭を狙うか。

 バドラスは自分の間合いと騎士の間合いを感覚で把握している。

 柄の長さと半身に打ち込む分、自分のほうが長い。

 しかし、あの騎士の受け流しと踏み込みに瞠目するべき物があるのは事実だった。

 だが、かの騎士が自分を討つには、この長柄の直刀の内に入り込む他は無い。長柄である弱点は、故にそれが長いことと挙げられる。外に広い分、内の殺傷能力は低い。

 ……十中八九、対手はそう見る。

 唯一の弱点を如実に感じさせることこそバドラスの、いや、熟練で老獪な傭兵の技でもあるのであった。


「どうした、逃げてばかりではいつまでたっても娼婦は救えないぞ」


 バドラスの攻撃は言葉でも行われる。

 焦りを生ませれば、容易く罠に掛かる。

 このくらいの挑発に乗るようでは、なりふりかまわず命がやり取りされる戦場で生き残ることは到底できないのだ。

 クライフは彼の言葉に己が剣の柄頭まで左手の握りを滑らせる。そして左足を前に構え、静かに呼気を歯の隙間から押し出す。


「懐に飛び込めば、隠し武器の餌食と言うわけか」


 騎士が呟いたその言葉に、バドラスが眉根を寄せる。

 動揺がそれだけに止められたのは奇跡に近かった。


「やはり欲しいな、お前」


 正直にそう思ったが、逆に「こいつだけは生かしてはおけない」とも同時に思っていた。

 十把一絡げな雑兵相手なら、この長柄の直刀の一振りで事足りる。少々の使い手でも飛び込んでくるところを石突で刺し殺せる。かなりの使い手が現れた場合でも、彼は隠し武器である小手から突き出す仕込みナイフで仕留める自信があった。逆に長物で戦う者は懐に入られると弱いという固定概念を逆手に取り、それを誘いとしているのが彼の戦法なのである。


「完璧を希する者は、わざと弱点を作るものだ」


 騎士は体の力をフと抜き、半眼になって気を静める。――いや、気を圧縮し始めていることをバドラスは感じた。

 懐に誘い、仕込みナイフで重傷を負わせると言う計画を彼は捨てた。この騎士は、間違いなく今までの相手の中でも屈指の使い手であると、己が驕りを捨てた。そして命さえも、いったん考慮の外へと捨て去った。


「……師匠の言葉だがな」


 クライフは、じわりと、爪一枚分間合いを詰める。

 その間合いは、バドラスの間合いぎりぎりである。傭兵が踏み込めば、即座に騎士の額が断ち割られるであろう間合いであった。


「ちぇぇい!」

「――ふっ!」


 勝負は一瞬だった。

 長柄の直刀がクライフのむき出しの顔面に突き出され、瞬間軌道が喉に変わる。騎士の体が半歩左に流れた瞬間、その右肩を直刀が走り抜ける。肩当に受け流され、刃が騎士の右に流れた瞬間、騎士はそのまま左片手上段に剣の一撃を斬り落とした。

 ――ばごっ!

 白銀一閃。

 クライフは己が間合いに入ったバドラスの右小手を、手甲もろとも拳を斬り飛ばしていた。

 バドラスの勢いはそれでも止まらない。

 左手一本で右わき腹を掬い抉らんと、巻き込むように直刀部分を切り返してくる。

 小手を断ち割った切っ先を跳ね上げ、溜めていた右足のバネを開放し、クライフはバドラスの懐に一瞬のうちに踏み込んだ。


「げぅ!」


 血風が傭兵の口腔から吹き荒れた。

 間合いを詰め際に放たれた突きが、喉元から後頭部を突き抜け、切っ先がぬらりとした体液を付着させたまま月光でぎらりと光る。


「ああっ!」


 その時、初めて周囲の者たちが事の次第を認識した。

 周囲のどよめきの中、騎士は傭兵を貫いた切っ先を引き抜く。

 脳を破壊されたバドラスの体が、痙攣しながら横倒しに倒れ、ゆっくりと仰向けに伏していく。

 ――騎士の勝利だった。

 残心のまま、騎士は一歩、一歩と間合いを離し、懐紙で血のりを拭き取り、ため息とともに納剣する。


「……俺の勝ちだな」


 気迫をこめた視線を、クライフはカーライル傭兵団、二番隊副隊長である男に向ける。

 信じられないものを目の当たりにした全ての人間の視線を受け、クライフは全てを敵にするのも厭わぬ覚悟を決めていた。


「仲間を率いて、南へ帰れ」


 勝った者は正しい。

 それは彼らの不文律であった。

 しかし、その勝利の、強さの象徴とも言うべき男が、今彼らの目の前で騎士の突きで頭部を刺し貫かれ息絶えている。約定に従い、撤退をするのが筋ではある。しかし、今、騎士が勝利したと知っているのは、騎士と娼婦と……自分たちだけである。

 唇を噛み締め、副長の男は決死の瞳で片手を挙げる――。


「全員――」

「――総員抜剣」


 美しい声とともに鞘なりが連なった。

 篝火の炊かれる月夜の村に、白金の刃が二十一条閃く。

 傭兵たちは馬上の死角となる左隣から脇腹、首を貫かれ、ある者は即死、命あるものも致命傷を追って落馬した。

 一人一殺。

 白百合騎士団の鉄の乙女たちは、腰から刺突剣を抜き払うや否や、騎士に瞠目していたカーライル傭兵団の面々に容赦の無い一撃を与えたのである。


「貴様ら、何を!」


 騎士への攻撃を命じようとした刹那、同盟とも言える共闘を約束されていた白百合騎士団の突然の反抗に、成す術も無く倒される仲間。彼らが断末魔の呻きを発するのを耳に、カーライル傭兵団二番隊副隊長は、白百合騎士団副団長の電光石火の三段突きにより喉と両目を潰され、強かに脳髄を破壊され即死した。


「そんな……」


 エレナが大量殺人を目の当たりにしてへたり込む。

 オリビアでさえ、目の前で何が起こったのか不完全ではあるが理解をしているのだろう。泣きそうな顔で母親の足にすがり付いている。母親も気丈に事の成り行きを見守っていたが、意外な展開に、すがるような視線を騎士の背中へと向ける。

 イリーナはヴェロニカに支えられていたが、こらも顔を蒼白にして崩折れる。


「……どういうことだ」


 戦闘の気配を絶やさぬまま、クライフはキアラへと目を向ける。

 抜剣と殺戮を命じた彼女は、あくまで無表情を装いクライフの視線を受け止める。


「わが白百合騎士団は、グレイヴリィとの繋がりを持った覚えは無い。故に、敵侵略軍斥候をこの村で討ち果たした。それだけだ」


 クライフは苦笑する。


「その戦いのさなか、一人の騎士と娼婦たちも相果てた……というのが筋書きか」


 厳しい物言いに、キアラの表情に苦悶が走る。


「キーリエ様の筋書きであるとするならば、カーライル本隊も餌食にされる流れだな」


 クライフが嘯き、しかしキアラはそ知らぬ顔で聞き流す。


「どうするんだ?」


 クライフは剣の柄に手を添える。

 一戦も辞さない意思表示だ。


「正直、貴様と戦いたいとは思う。養成所時代の屈辱は忘れていないからな」

「結局、キアラが勝ち越しだろう」


 ふん、と女騎士は話を打ち切るようにクライフを見据える。


「安心しろ、領都まで護送するのが我らの役目だ」

「なんの冗談だ?」

「言葉どおりだ」


 キアラは片手を挙げて納剣を命じた。


「そこの娼婦は、私たちが連れて行く。……貴様も一緒に来い」


 一応、クライフは理解はした。


「納得はしていない顔だな」

「当然だ」


 事の発端の首謀者であるキーリエが何を意図しているのか分からない。彼女が描く絵図面が、どこまでを視野に入れて描かれているのか――全容を理解しているのはおそらく二人だけ。

 キーリエ本人。

 そしてグレイヴリィ子爵。


「そういえば、やつらは狙撃手を配備していたはずだが」

「闇に乗じて始末してある。獅子身中の虫とはよく言ったものだ」


 自嘲気味に苦笑するキアラ。

 正直、ここまでの不意が打てたのは、友軍であると言う情報を与えていた流れと、彼らの目の前でクライフが強敵バドラスをかくも見事に討ち果たした衝撃があってこそだ。

 でなければ、ここまですんなりと猛者を殺傷することは不可能だったであろう。

 クライフは、居並ぶ白百合騎士団の面々を眺める。

 顔色が悪いものが大勢いる。


「さしもの親衛隊も、殺人だけは今日が初めてだったようだな」

「何を!?」


 団員の一部がクライフの言葉にいきり立つ。しかし彼の目に哀れみでも同情でもない光が浮かんでいることに気が付いた彼女たちは、彼もまた今回の一件で初めて人を殺傷したことを思い出す。彼もまた、この吐き気を催すような自己嫌悪を感じていたのだろう。


「……明日早朝に出発だ。宿はこのまま徴発、中にいる店主に話を通しておけ」

「了解しました」


 副団長はひとつ頷くと娼婦たちの脇を通り抜け、宿へと入る。


「さて――」


 キアラは下馬し、クライフに歩き寄る。


「そんな顔をするな、お前は悪いようにはしない」


 ――『俺は』だと?

 クライフはそのニュアンスに、やはり気を許してはいけないものが待ち構えていると読む。むしろ、キアラの方からの譲歩か。……考えても仕方が無いとはいえ、流されるままであることは不安を呼ぶ。


「とにかく、そこの娼婦たちを――」


 キアラが彼女たち娼婦に目を向けた瞬間、宿の屋根から一人の男が音も無く飛び降り、イリーナの背後へと着地した。


「何!?」


 キアラの驚愕の叫びにはっと振り返ると、彼らが見たのは顔面の右半分を包帯で覆い、ぐったりとするイリーナを抱え上げている長身の男の姿だった。


「貴様、何者だ!」


 抜き打ちの構えで間合いを詰め、クライフは瞬間的に現れた包帯の男の動向を素早くうかがう。彼が抱えるイリーナは、当身でも打たれたのか、意識が無いように見える。彼女を支えていたはずのヴェロニカは、そのそばで腰を抜かしたかのようにへたり込み、震えている。アンナもエレナも、オリビアを庇って後退している。


「お前、強いな」


 答えず、包帯の男、赤龍は騎士に言う。


「下手に動くと、この娼婦の腹の子を、母親ごと押しつぶす」


 途方も無いことを言ってのけるが、それが恐らく本気であり、可能なことであると本能が感じていた。突如現れた男は、何者なのであろうか。イリーナを娼婦であると断ずるところを見れば、この一件に関わる者、またはこの一件を傍から観察していた者である可能性が高い。もしくは、その両方か……だ。


「遊ぼうぜ、騎士」

「なんだと」


 意外な言葉に、騎士は怒りを募らせる。


「状況は変わらない。何人いようが構わない。こうして娼婦が人質になったからには、お前は言うことを聞かなければならない」

「…………」


 剣の柄に手を添えたまま、歯噛みする。


「だから、遊ぼう、騎士よ」


 赤龍はもう一度言う。


「今から俺は、この丘を登ったところにある炭焼き小屋にこいつを閉じ込める。火を放つ。焼け死ぬ前に助け出せばお前の勝ちだ」


 どうだ、と赤龍は聞く。


「ふざけるな、決着なら今ここでつけてやる!」

「それでは面白くないじゃないか」


 揶揄するようなニュアンスで、つまらなそうな顔をする。


「それじゃあ、俺はこいつを連れて行く。追おうとすればすぐに殺す。……準備ができたら、村の半鐘が鳴るから、それを合図に来い。鳴ったときにはもう火が着いてるから、それはそれは急ぐと良いだろうなあ」


 監視する共犯を示唆する男に、クライフの苛立ちは頂点に達しようとしていた。


「俺たちの邪魔をすることは、白百合騎士団の仕事には含まれていない」


 男、赤龍は言う。


「どういうことだ」


 クライフはキアラを促すが、キアラは今まさに思い至ったといった顔つきでクライフを見返す。


「遊びだ、騎士。楽しくなければ人生は詰まらんじゃないか」


 赤龍は踵を返して歩き去る。


「待て!」

「やめろクライフ!」


 勇むクライフをキアラが止める。

 低く笑う男の姿が、花畑を越えて丘へと消えていく。

 その姿が見えなくなって、やっとキアラはクライフを抑えていたその力を抜く。


「説明しろ、キアラ」


 キアラは難しい顔をしたまま、項垂れる。

 キーリエが聞かせたということは、彼に教えろ、ということなのだろう。


「金で雇われた、暗殺者だ」

「暗殺者だと? 傭兵団と白百合まで動かしておきながら、暗殺者まで雇ったと言うのか!」


 それに、アンナが加わる。


「娼婦一人を殺すのに、なんて念の入れようだ! こんなことを考えるのは、おおかた領都のお局様だろうよ。そんなだから旦那が他の女に奔るのさ!」


 白百合騎士団の面々が気色ばみ、剣の柄に手を伸ばす。

 しかしアンナは少しも怯まなかった。


「そうなる前に、何で旦那と話をしなかったのさ。ろくに話もしないで勝手に相手の腹の中を想像して、勝手に諦めて、勝手に嫉妬してるだけなのさ」


 女なんて、弱い生き物なのに。

 そう呟くアンナに、白百合の面々は苦しい顔で引き下がる。


「……あいつのことを詳しく知っているのか?」

「アゴラの双龍と言われている、北の大陸から流れてきた兄弟らしい。現在は二代目で、代替わりしたての頃からここ数年、被害者を弄び、残忍な手口で遊び殺すらしい。嬉々としてキーリエ様が紹介していたよ」

「暗殺者、か」


 クライフは思い出す。


「暗殺者と言えば、ガレオン総騎士隊長を狙い、返り討ちにあった奴が耳に新しいが」

「それとは別だ」


 それに関してもキアラは何か知っているような素振りだったが、クライフは追及しなかった。


「双龍、と言うことは……他にも一人いるということか」

「ふ、ふたりもいるの!?」


 ヴェロニカが声を張り上げる。


「あ、あ、たぶんな」


 何故彼女が狼狽にも似た悲鳴を上げたのか、このときはまだクライフには分からなかった。ただ、極度の不安と緊張で情緒不安定なのだろうと思うのみであった。


「青龍と、赤龍。奸智に長けた奴と、無双の豪腕の組み合わせだ」


 無双の豪腕……。

 クライフはあの包帯の男がそれであると判断する。


「やつが赤龍か」

「私が知るのはそこまでだ。残念ながら、あいつの言うとおり邪魔をするなとは言われていないが、邪魔をしろという任務は受けていない」

「……騎士と言うのも、大変なものだな」


 自分を棚に上げてクライフは自嘲気味に呟く。

 焦る気持ちは、いつしか闘志へと変わっている。


「炭焼き小屋と言ったな」

「暗いから良く見えぬが、ちょうど中腹あたりにある……」

「あ、あそこか」


 闇夜の中目を凝らしていた彼らは、闇にポツリと灯った炎の赤にそれを確認した。

 瞬間、川沿いの櫓に据え付けられた半鐘が、勢い良く打ち鳴らされる。あそこにいるのは、恐らく青龍。クライフは迷いを振り切るように弾かれるが如く疾走を開始した。

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