第16話『乱れる麻縄のように(2/8)』

   *


 深夜。

 ウェンディは遅くまで話し込んだかつての仲間との歓談に区切りを付け、皆を休ませてから寝室へと戻ろうと、宿の本館と住居を繋ぐ一階の渡り廊下を歩いていた。

 夜風が少し肌寒い。

 すぐに水場などに行けるように、渡り廊下には左右を遮る壁は無い。


「え……?」


 ウェンディは一瞬、硬直した。


「こんばんは、お嬢さん」


 そこに、見慣れない一人の男が立っていた。

 近隣の村の男だろうか。

 狩人風の格好で、背には弓、腰には矢筒、ベルトには短刀といった出で立ちだ。


「だ、だれ!?」

「雨滴の大河南東の町から、クライフという騎士と、イリーナという子を孕んだ娼婦を追って来た、ただの殺し屋ですよ」


 淡々とした声と、底冷えするような死の気配に、ウェンディは息を呑み、一歩後退さる。その一歩のみで、もう足は動かなかった。腰から下、膝の感覚も冷えて萎えてくる。腰が抜ける一歩手前だった。


「あなたを殺しても得はありません。おとなしく言うことを聞けば、何もしないと約束しましょう。断るようならば、村中にあなたの昔の職業を吹聴して差し上げましょう」


 ウェンディの頭の中の処理能力限界のところで、その言葉は辛うじて認識された。

 拒否すれば、生活そのものが奪われかねない。

 いや、奪われるという確信がある。


「どうしても死にたいなら、いまここで苦しみ抜いた末の死を与えて差し上げますが」


 力なくウェンディの首が左右に振られる。


「では、これを」


 いつの間にか間近まで近づいていた男の手が、摘むように持った一本の小さなガラスの小瓶を差し出していることに気がついた。透き通る小瓶の中身は、薄く黄色い液体が満たされている。


「明日の食事に混ぜ、騎士と娼婦たちに食べさせなさい。なに、死にはしない。普通の人間が摂取しても、なんら害は無い類の薬だ」


 今回の任務を受けて特別にあつらえた薬であった。

 彼女が恐る恐る受け取るのを確認し、青龍は頷いた。

 そしてその耳に唇を寄せ、何事か一言二言呟く。

 すると彼女はびくんと身を震わせ、諦めたように頷いた。

 ――貴女の旦那さんは、まだ死ぬには若い歳でしょう。

 耳の奥に残るその声を払拭しようとかぶりを振ったとき、すでに狩人姿の男の姿は無かった。しかし、今のことが嘘ではない証拠に、彼女の手の中に、冷たく硬い小瓶が握られている。

 彼女はすとんと、やっと抜けてくれた腰に従ってへたり込み、大きく、しかしか細い息を長く吐き出したのである。


「私……どうしよう。どうしたらいいの?」


 しばらく呆けていたが、ウェンディはやっとのことで寝室へと戻った。

 珍しく騎士という立場の人間と酒を酌み交わしたのが疲れたのか、話に花が咲いているであろう妻を待たずにコルムはすでに寝息を立てている。

 その平和そうだが頼れる伴侶の顔に、萎えていた背筋に力がこもる。

 ――明日の朝、主人に相談しよう。

 そう思い至る。しかし。

 その枕元に見慣れぬ矢が一本置いてあることに気が付き、彼女は絶望にへなへなと倒れこむ。ベッドが彼女の体を支えるが、彼女はその柔らかい感触に安らぎよりも、頼りない足場のような感覚を覚え、項垂れる。

 あの狩人風の男の、自らを殺人者と名乗る男の矢筒にも、同じ矢が入っていなかっただろうか。……自分に声をかける前に、あの男は主人の顔を確認し、矢を一本だけ置いていったのだ。

 彼女は涙をにじませながら、何故、何故と思考の迷宮へと踏み込んだ。

 一人で答えは出ない。

 しかし、相談できる相手は――。


「そうだわ……」


 ウェンディの脳裏に、強かな元同僚の顔が思い浮かぶ。

 彼女なら。

 そう思うや否や、力の戻った足で寝室を飛び出した。




「ヴェロニカ、起きて」

「……ん」


 深夜。

 浅い眠りが訪れている中、ヴェロニカは昔馴染みの声でそのまどろみから引き戻される。


「なによ、ウェンディ……明日にしてくれるかしら」

「ヴェロニカ」


 しかし、必死に彼女の腕をつかむウェンディの強張りと、その浅く早い呼吸に、ヴェロニカはふと、この少女が客とのいざこざで刃傷沙汰を起こされたときのことを思い出した。あの時もこんな顔で私に相談してきたっけ、と。


「なにがあったの?」


 答えながらヴェロニカは皆を起こさないようにベッドを降りる。


「外に行きましょうか」

「いや、外はっ」


 引きつったような声で、ヴェロニカは腕をつかまれる。

 ウェンディは外にあの男がいるのではないかと躊躇いを見せている。事情を知らない娼婦には、込み入った何かとしかわかるはずも無かった。


「じゃあ、酒場まで降りようか」


 一階の、今は無人の店部分だ。

 ウェンディは頷いた。

 暗い廊下を星と月明かりを頼りに歩き、手すり沿いに階下へ。

 酒場まで降り、手近の卓に椅子を下ろし、隣り合って座る。

 ヴェロニカは、彼女が話し始めるまでゆっくりと待った。

 そしてウェンディの呼吸が落ち着いてきたのを見計らって促し始める。


「……旦那さんと、何かあったの?」


 ウェンディは首を振る。


「良く聞いてね、ヴェロニカ」


 大きく深呼吸を三回し、ウェンディの口は、先ほどあったことを順を追って話し始めた。

 たかをくくっていたヴェロニカは、その内容に怖気を奮った。


「で、その薬は?」

「ここにあるわ」


 ウェンディが握りこんでいた小瓶を卓に置く。

 コツンという冷たい音が、娼婦の肝を冷やす。


「これ、毒よね」

「たぶん……そうだと思う。普通の人には効かないって言ってたけど」

「わかったもんじゃないわよ」


 これは、クライフに早く知らせなければ。

 何も知らない娼婦上がりが生き死にの判断をしようとしても上手く行くはずが無いと彼女は考えた。加えてあの騎士は何度も死線を潜り抜け、こと戦いに関しては冴え渡る動きと勘働きを見せているではないか。

 今の彼女に、彼以上に頼れる存在は無かった。


「それじゃ、ちょっと起こしてく――」


 あれ?

 と思ったときには、すでにヴェロニカの体は手先からしびれ、意識ははっきりとしているものの、舌先や手足の先まで、かすかに動かすことしかできない状態に陥っていた。支えきれず、ヴェロニカは立ち上がろうとした姿勢のまま卓に突っ伏すように倒れこんだ。


「おやおや、誰が釣れるかと思えばそばかすの娼婦ですか」


 些か残念そうな声が聞こえてきた。

 その声に聞き覚えがあったウェンディは、はっと硬直した。

 酒場の闇の中に、一人の男が滲むように現れる。


「ああ、気にしないで。気が付かなかったのも無理は無い。こちらはあの騎士が降りてくると踏んでいたから、念入りに気配を消していたからね」

「あ、あんた……」


 ウェンディはかすかに歯を打ち鳴らしながら、そう答える。恐怖で歯の根が噛み合わないのだ。


「いいよ、大丈夫、安心して。もうあなたには用は無いから、もう寝なさい。何もかも忘れてね」


 用無しと言われ、命の危険を覚えたウェンディに、青龍はにっこりと微笑む。


「犠牲者をおびき寄せた餌ですからね、ご褒美に命は助けてあげますよ。……そのかわり、昔の仲間を陥れたと言う甘い記憶をいつまでも忘れないでいてくださいね」


 少年のような顔が無邪気にそう言って笑う。

 もはや、ウェンディに抗う気力は無かった。


「さてと」


 青龍は右手でヴェロニカの髪をつかんで顔を上げさせると、左手で小瓶を取り、親指で蓋を弾き飛ばし、飲み口をヴェロニカの喉の奥に当て、ゆっくりと流し込んだ。


「あぐぅ……!」

「吐き出そうとしても無駄ですよ。これは少量でも大量でも効果を現す毒でしてね」


 すっと食道から胃に流れ込む感触に、反射的な咳き込みもできずにヴェロニカは怖気を覚えた。いま、確かにこの男は毒と言った。


「二日目あたりから、胃と腸が腐り始めます」


 ――遅効性なんです。

 男は天井を向く彼女の顔、それでも気丈に青龍を睨む相貌を嬉しそうに受け止め、耳元で言い聞かせるように言葉を続ける。


「激痛に苛まされ、三日三晩苦しみぬき、肌は黒く変色し、水ぶくれに覆われ、二目と見られぬくらいに顔が醜く膨れ上がり、腐った泡が口から漏れる。緩んだ筋肉がだらしなく伸び、尿も糞便も垂れ流し、醜く死んでいくのだ」


 ウェンディが短く悲鳴を挙げる。


「静かに、騎士に聴かれてしまいます」


 ヴェロニカが真っ青な顔で、絶望的な色を浮かべる。

 娼婦の反抗的な目が屈辱と後悔と不安に彩られていくのを、青龍は股間を隆起させながら見惚れている。

 騎士は酒と疲れ、そして距離を稼いだ安心から深い眠りにあるようだった。

 いかに剣の腕が立とうとも、所詮は騎士。青龍は古来より暗殺と誘拐を防ぐ手立ては皆無であることを教え込まれていた。誰にでも、睡眠と食事と排泄は必要なのだ。隙の無い人間はいないのだ。


「いいですか」


 ヴェロニカの耳元に口を寄せる。


「私は解毒剤を持っています。用を済ませていただければ命だけは助けてあげます。それはそこの女を見てもわかるでしょう? 私は紳士なんです。ですから、死にたくなかったら――」


 ――――。

 耳元で囁く。

 ウェンディまで、その呟きは聞こえなかった。

 しかし、娼婦の顔の、青を通り越し白くなってしまった顔色に、言い知れぬ不安を覚えるのみであった。


   *


 夜が、明けた。

 クライフは少し重い頭を揺すると、むくりと体を起こす。痛みは無い。二日酔いなどという不覚は取ってはいないようだった。

 体の調子は起き抜けにしては良い。

 気が抜けて疲れから熱を出すような痛恨の極みは、一度で充分だった。

 緑葉からこちら、気の張り詰め具合は続くものの、緊張との同居にもようやっと折り合いが付き始めたと思う。南方グレイヴリィの侵攻という現状は変わらぬものの、領都までたどり着けば一息つけるという希望があった。


「おはよう、やっと起きたのね」


 アンナが洗濯された綺麗な手ぬぐいを手にドアを開けて入ってくる。


「皆さん、早いですね」

「それなんだけどさ」


 アンナはベッドのひとつを目線で促した。

 オリビアのベッドも、ヴェロニカのベッドも、エレナのベッドも空だった。

 イリーナがまだ寝ているようだが――。


「まさか」


 クライフは飛び起きて彼女のベッドに駆け寄った。


「あ、騎士様……」

「寝ていてください、顔色が悪い」


 アンナが手ぬぐいでイリーナの汗を拭き始める。白い肌が胸元まで露になるが、女性二人も騎士も気にした風は無い。


「失礼」


 一声かけて、クライフはイリーナの首筋に手を触れる。

 熱くは、ない、

 ただ、少し脈が速いような気がする。


「すみません、やっぱり疲れていたようです」

「……無理もありません、少し休みましょう」


 狙われる立場の人間だ。

 騎士に守られているとはいえ、その不安を隠して今まで気丈に振舞っていたのだろう。彼女の体は、いま大事な時期だ。急ぐことは必要だが、無理をすることもできないのが原状だった。


「焦っても、仕方が無いか」


 クライフが首筋から手を話すと、アンナは胸元から下を拭き始める。そのときにはクライフも席を外し、階下へと向かった。


「妊娠中に酒や薬は悪い影響を及ぼすと言うしな……」


 階段を一段ずつ下りながらそんなことを考えていると、エレナが水差しとコップを携えて上がって来るところに出くわした。


「おはようございます、騎士様」

「おはようエレナ。イリーナ様は……」

「やはり疲れが出たようです。もう産み月ですから……この旅は厳しいのだと思います」

「体力的にも、精神的にも、な」


 支えきれぬ自分の不甲斐なさを責めるのは後にしよう。

 クライフはエレナに道をあけると階下へと急いだ。

 階下の酒場にはコルムの姿があった。


「おはようございます」


 騎士の姿を見ると、軽く頭を下げ、手を止めずに挨拶をする。


「おはようございます。あの……」

「聞いております。奥様に疲れがでたとか」

「ええ、まぁ」


 騎士は頷いた。

 建前上は、イリーナはクライフの妻で、お腹の中の子供の父親もそうであるとなっている。


「すみませんが、落ち着くまで部屋を」

「大丈夫ですよ、お互い様です」


 コルムの言葉にクライフは礼を言った。


「そういえば、うちのもヴェロニカさんも、なんか顔色が悪かったですね。昨夜すこし騒ぎすぎて疲れたのかもしれませんね」

「ヴェロニカも? ……だとしたら、飲みすぎたのかもしれませんね。ここのところ、お酒なんてものは一晩飲んだきりですからね」


 あの見事な踊りの夜を思い出す。


「おおかたうちのもそれでしょう。まあ、酒には強かった気はしますが、タガが外れたんだと思いますよ。昨夜は遅かったみたいですから」

「ふむ」


 クライフはオリビアの姿を探す。

 あの幼い子は姉と親の目を逃れて何かするような子供ではないとは確信しているが、子供にはそうとは分かっていても逃れることのできない好奇心というものがある。泳げないあの子が川などで遊んでいるとしたら危険だ。


「オリビア……あのちっちゃい子はどこに行きましたか?」

「ああ、あの子なら宿の裏の花畑ですよ」


 クライフは嘆息した。


「花畑ですか」


 少女には良く似合う場所だ。

 ……行ってみるか。


「ありがとう」


 コルムは微笑で返す。

 ――本当に騎士らしくないな。

 そんな彼の視線を背中に受けながら、クライフはドアを抜け、外壁沿いに裏へと回る。

 ちょうど酒場の二階、宿の部分の窓から覗くと一望できる小高い丘にそれはあった。

 白、と言える薄い、本当に薄い紅色の、四枚の花弁を持つ小ぶりの花が、それこそ一面を覆うように咲き乱れている。

 一つ一つは地味な花だが、集まり面を成すと龍鱗山脈の暗い山肌と相反して切り取られた雲のように浮かんで見える。

 その中にぽつんと、母譲りの赤い髪の毛を揺らしている少女の姿が見えた。

 熱心に花を摘んでいる様子で、手元を集中して見ており、近づくクライフに気が付かないままだ。


「オリビア」


 花畑に入る手前で立ち止まり、クライフは声をかける。

 数歩先に屈み込んでいた少女の顔がくるりと振り返る。


「おはようございます、きしさま」

「おはよう、オリビア」


 オリビアは右手で摘んだ花を、左手にいくつもひとまとめにして掴んでいる。それを差し出すようにクライフに向けると、「お姉さんにあげるの」と一言報告し、再び熱心に花を摘みにかかってしまう。


「イリーナ様に、か」


 どうやらなんでも良い訳ではなく、彼女の目から見て充分に合格している花しか摘まないらしい。選んでは手を伸ばし、躊躇い、他の花に目を向けては「うー」と唸っている。

 なんとなく、この花園に足を踏み入れてはいけないような気がして、クライフは花畑の端の方でしゃがみ込み、熱心な彼女の姿をしばらく見つめていた。

 末っ子の自分だが、妹がいたらこんな気分になるのだろうか。

 間違ってもアンナを「おかあさん」呼ばわりしたらさすがにへそを曲げるだろうな、と騎士は笑う。そしてそんな取り止めの無い妄想を、彼女が満足して花束を整えるまで続けた。


「うん、できた」

「いっぱい摘んだな」

「花瓶、あるって言ってたよ……ました」

「そうか、じゃあ早速持って帰ろう」

「うん……はい!」


 花畑から出るオリビアが、すっと右手を差し出すので、立ち上がったクライフもつい左手を差し出してしまう。その左手が小さい手のひらに包まれると、騎士は彼女と手を自然に繋いでる事実に驚いた。……これは親も心配するだろうな。

 かと言って、彼女が引っ張るわけではなく、あくまでもクライフの足に合わせる様子だ。クライフは歩幅などを少女にあわせ、ゆっくりと宿へと戻った。


「おや、二人揃って」


 汗を拭いた手ぬぐいと、お湯の入った桶を手に、アンナが階段から降りがてら声をかけてくる。


「姿が見えなかったもので、心配になってしまいまして」

「まったく心配性だね。……ま、よく懐いてること」


 アンナがコルムに桶と手ぬぐいを渡しながら、騎士と少女が繋ぎ合っている手を見て微笑む。


「仲良いじゃないか、オリビア」

「うん!」


 元気良く返事をするオリビア。

 次の瞬間には大人三人が一瞬ぎょっとするようなことを報告した。


「オリビアがお花摘んでるあいだじゅう、きしさまはずっと見ててくれたんだよ、おかあさん」

「………………」


 クライフは変な顔で見るアンナにブンブンと首を振って答える。


「ち、ちがいます」

「まさかこんな少女のおしっこをじっくりと眺めていたなんて……」

「誤解です」


 クライフはオリビアの左手に握られている厳選された花束を指し示す。


「本当の花束です。オリビアがイリーナ様にと……」

「ああ、そうそう、花瓶でしたね」


 と、やっとコルムが笑いをこらえながら口を挟んできた。


「今朝方、約束したんですよ」

「もう、あと少しはからかえたのに」


 アンナはため息をついてオリビアを抱き寄せる。


「それじゃ、活けようか」

「うん!」


 そのまま抱きかかえ、アンナはクライフに頷いてみせる。


「イリーナは寝てれば治るよ。あんたも少し休みなさいな」


 クライフは少し考えて首を振った。


「少し周囲を見てきます」


 ――嫌な汗をかいた。

 クライフはそのまま踵を返して外に出ると、厩舎へと足を向ける。

 相棒の様子が気になったからだ。

 昨日厩舎に留めたときまでは元気であったが、北方辺境区から緑葉までの旅路、緑葉から現在の山脈半ばまでの間には、疾走中の転倒などの事故も多い。人の身であれ疲れが出るのだ、生来繊細な馬にそれが出ないとも限らない。

 人よりも家畜のほうが多いとされる田舎の寒村とよく言われるが、この村の厩舎も大きいものだった。各家庭の持ち馬は各家庭で管理されていると思いきや、労働力たる馬以外にも、この厩舎には販売用の野馬や繁殖させた馬も多い。少し北方には繁殖馬の牧場があるそうだが……。

 クライフは遠くを見るが、馬の育成に必要な環境というものがピンとこない。


「おはようございます」


 厩舎の扉をくぐり一声かけると、作業着姿の老人が、クライフの長剣よりも大きい作業用のフォークを担いだまま振り返る。


「これはこれは」


 老人が軽く会釈で返すと、クライフは一番手前の囲いに近づいた。

 ――ぶひん。


「なんだ、元気そうだな」

「随分と飼葉を食べなさいましたよ」


 老人が言うには普通の馬の倍は食べて飲んだらしい。


「さすが軍馬といったところですか」

「まあ、これでも淑女なんですがね」

「ほかの紳士が、昨夜は興奮していましたから。なるほど良い淑女なんでしょう」


 老人が笑う。


「それでなのですが、実はもう少し滞在することになりそうなのです」

「かまいませんよ、多目に支払っていただいておりますから。あれでしょう、積もる話も……ってやつですか」


 早くもヴェロニカたちとウェンディが旧知の間で、数年ぶりの再会を果たしたということが広まっているらしい。昨日の今日で、さすがに早いものだ。


「旧友と再会して気が抜けたのか、妻に疲れが出ましてね」

「ああ、妊婦に無理はいけませんな」


 やっぱり伝わっているのか。


「よく食う相棒ですが、もう少し休ませてやってください」


 ――ぶひんっ。


「ははは、お任せください。おっと、お代はかまいませんよ」


 財布を出そうとする騎士を一言制して老人は笑う。


「足が出たときには頂きますがね」


 クライフも笑う。


「急ぎ出発できるような準備だけはしておいてくれませんか」

「わかりました」


 さしあたっては蹄の手入れと馬蹄の直し、鞍の調整ですな、と老人が仕事に戻るのを確認し、クライフは相棒の鼻筋を撫でてから厩舎を後にした。

 後にしたときだった。

 厩舎側に来るときには分からなかったが、東西を分かつ橋の下にヴェロニカとウェンディの姿があった。川辺で腰を下ろし、二人肩を並べて流れ往く水面をただじっと見ている。

 昔話をしているのかとも思ったのだが、騎士はその彼女たちの表情に不安げなものを感じて渡る橋の影にスと身を隠した。

 さて――。

 クライフは迷った。

 騎士として、男として、聞き耳を立てていいものかどうか。

 しかし、迷ったのは一瞬だった。


「おはよう、二人とも」


 橋の上から身を乗り出し、声をかけた。


「クライフ!」


 ヴェロニカの異様な驚きに、クライフは眉根を寄せた。


「ええ、どうかしましたか?」

「いや、なんでも……」

「………………そうですか」


 クライフはウェンディにも片手を挙げると、そのまま宿へと足を向けた。


「それじゃお先に。今日は一泊して、様子を見ましょう」


 複雑な顔の彼女に、クライフは苦笑する。

 ――これは彼女も知っている顔だな。

 果たしてその『悩み』がどの程度のものであるかわからない。

 気にするべきか、立ち入らぬようにするべきか。

 クライフは彼女たちの表情を思い出す。

 そこに救いを求める色はなかったか。

 彼女は大丈夫だと、なんでもないと言った。しかし、すがる様な目を見てなお、大丈夫だと何もしないのは、今後何かあった場合に自分に「あいつは大丈夫だと言ったから何もしなかったんだ」と言い訳したいが為なのではないか。

 それはただの怠惰であるのではないか。


「もう少し、お節介してみるか」


 涼風を吸い込み、深呼吸しながら騎士は一人呟いた。




 予想は、当たっているようだった。

 昼の食事、ヴェロニカはほとんど食が進まなかった。進まないどころか、水分を多少捕った後、あとで戻していたように思える。

 食事の後、注意して見ていたのだが、彼女は顔色も悪い。

 他の娼婦はイリーナ同様に疲れが出たのかと寝ているように言って、今は床についている。昨夜あまり眠れなかったのだろうか、いまは何も考えずに目を閉じさせているのだが、いつしか重い表情のまま寝息を立てていた。

 クライフはベッドに寝るヴェロニカを確認し、考えを整理しようと黙想する。

 気になること……。

 ――腕や足の肌を、気にしていたような気がする。顔に触ることも多かったような気がする。そして何より、震えていたような気がする。……いや、確かに何かにおびえるように震えている。


「ひっ!」


 ビクンと身を震わし、ヴェロニカは飛び起きる。肌を確認し、ぽとぽとと涙をこぼす。

 彼女はドアのところに居るクライフに気がついていない様子で窓の外、日の高さを気にしたようにじっと見ている。自分を抱きしめるように、大きく息を吐く。

 クライフはスと静かに廊下へと出る。

 部屋にはイリーナが寝ている。

 ヴェロニカも下手な真似はすまい。

 だとすると、唯一事情を知っているのは――。


「ウェンディさんか」


 ひとつ頷いて騎士は階下へと向かった。




「ほう、予想通りというか何と言うか。小娘というのは変わらん反応しかしないもんだ」


 遠く樹上で気配を殺す青龍は、窓辺から見えるヴェロニカを伺っている。その反応が今まで命をもてあそんだ人間たちのそれと似たり寄ったりで、あまり興味をそそられないのだ。


「もう一人の小娘が、あの姿に騎士に助けを求めるとする」


 青龍は赤龍に目を向ける。


「今夜あたり、お前が騎士を葬れば彼女たちも正気ではいられまい」

「わかったよ、兄さん」

「……鳥は放ったのか?」


 話題を変えて青龍は呟く。


「昨夜すでに二羽飛ばしたよ。来る前に飛ばした一羽はもう効果を出していたよ」

「ふむ、今夜は楽しい夜になりそうだな」


 じっくりと遊ばせて貰おう。

 双龍はにんまりと笑みを漏らす。

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