第15話『乱れる麻縄のように(1/8)』
第五話 『乱れる麻縄のように』
*
馬蹄の闊歩のする軽快な音が、早朝の龍鱗山脈に染み入る。
濃かった霧も晴れ、夜露に湿ったひげ街道を一頭の馬に横座りで乗った妊婦と、その轡を取って歩く騎士、その後には四人の娼婦が続いている。
夜明けからしばらく歩いたあたりで、騎士は歩きながら肩越しにエレナを振り返り、足元を目で指し示しながら「どうだ?」と首をかしげる。
「大丈夫です、少し赤いですが」
「軽い打ち身だったみたいだね」
するとイリーナがぽんぽんと自分の乗る鞍の前を叩く。
「だから一緒に乗ろうって言ったのに」
妊婦の言葉に、栗毛の相棒がヒヒンと鳴く。
「ほら、お馬さんも良いですよって――」
「勘弁してくれって聞こえるけどね」
ヴェロニカがぼそりと呟く。
「なあに、エレナくらいなら大丈夫ですよ。鎧を着た私を乗せて走り徹して来られたんですから。生粋の軍馬です、そんなに柔ではありません」
「じゃあ私も乗っていいのかな」
「アンナ姉さんが乗ったんじゃさすがに潰れるわよ」
ほほぅ……と睨み合うヴェロニカとアンナ。
「じゃあ、オリビアが乗ろうか」
騎士は轡を離し、幼女の脇の下に手を入れて軽々と持ち上げる。
「ほら、ちょっと高いけど」
「うわぁ……」
ぽかんと口を開けて、クライフよりも目の高さが上と言う景色に、幼女はあたりをキョロキョロと興味深げに見回す。
「おっきくなっちゃった」
「もう、あまり動かないの」
後ろからイリーナに抱きかかえられ、馬の背で立とうとするオリビアが不満げに眉を寄せる。その不満げな顔も、体の下で隆起し動く馬の筋肉の感触に和らぎ、面白そうに両手で触って確かめている。
栗毛の相棒が余り体を上下に揺らさないように歩いてくれていることに、騎士は気がついていた。相棒は気心が知れているかのように、妊婦に気を使ってくれている。
「やっぱり牝馬だからかな」
――そう思うと女だらけだな。
クライフは苦笑し、イリーナのお腹に目を向ける。
「君は俺の仲間かな、それとも男は俺一人かな……?」
轡を取って、軽く引きながら、往く。
このまま半日、休憩を挟んで夕刻あたりまで歩けば、山脈半ばの宿場町に着くだろう。
追っ手のことが頭をよぎる。
ここまでくれば、おいそれとは……とは思う。
さすがにひとつの騎士団が壊滅という憂き目にあった今、配備された連絡網により侵入路は別の騎士団に押さえられているだろう。南方の守りはより強固になったはずである。同時期に騎士団の斥候がひげ街道に散らばる傭兵の死体を見つけてくれれば御の字だ。
ここまでくれば、領都までもう少し。
日は徐々に高さを増し、一行の足取りも軽くなっていく……。
中天に上った太陽の光を反射する、美しい白金の鎧を纏った美しい乙女たちが、揃って白馬に騎乗し、龍鱗山脈北の入り口に差し掛かる。
白百合騎士団団長のキアラは精鋭二十名を率い、その先頭できりとした表情を南に向けて馬をとめる。南の玄関口と似たような、小さな宿場町である。しかし、領都に近いということで、その宿場の各地で見られる商品や宿の値段などに若干の差が見受けられる。
「全員、待機」
一声賭け、下馬する。
右半身を重点的に覆うような、重厚な、しかし無骨というイメージからは程遠い優雅な鎧が鳴り、その肩が多少上下し、荒い息が吐かれる。
「副長」
キアラは肩越しに副長を呼ぶと、一通の書簡を手渡す。
関所警護の兵士に、と言うと、副長は速やかにそれを手にして街中に消える。
それを確認し、キアラはため息にならないように気を付けながら、ゆっくりと息を吐く。
左肩に担いだ、かの『師匠』から序列最下位の騎士にと託された、ずしりと重みのある荷物である。その重みを感じながら、彼女はもう一度ゆっくりと息を吐く。
「私は何をしているのか……」
クライフが出発する際に見せた、あの変わらぬ生真面目な顔を思い出し、なぜか不機嫌になる。
――坊やを迎えに、ね。連れの娼婦も丁寧にもてなしてあげなさい。
公式な騎士団にありながら、白百合騎士団はその実情、領主婦人キーリエの私設騎士団である。そのキーリエの言葉が、ここしばらく耳から離れない。
「言葉どおりならば、護衛。その実情を鑑みるならば――」
娼婦を救うためなどに使う余分な騎士団は無い、というのが領都首脳陣の統一した意見だ。首脳陣には当然あのキーリエも入っている。その思うところのあるキーリエ自身が差し向ける私設騎士団の任務が一人の騎士とその護衛対象の娼婦の警護であろうはずはない。
後顧の憂いを絶つための保険なのだろう。
団員の多くはキーリエに拾われたり、その美しさを見出された女たちだ。多くの者は境遇を省みずに抜擢してくれた領主婦人に恩を感じている。キアラ自身もそうだ。彼女自身の生真面目な性格と、騎士団の誰よりも騎士らしいその性根もあいまって、彼女への忠誠の度合いは領主へのそれを上回るものであった。
その敬うべき領主婦人のここ数年の動きにはさしもの彼女でさえ多少の疑惑を持つにいたっていたが、ここ数日で確信とあきらめに似た感情が女騎士の心を占めていた。
彼女は共犯になることを選んだのだ。
それが領土のためと自分に言い聞かせて。
……ただ。
ただ、その彼女の母親としての、女としての暴走の一端に、南方グレイヴリィの影が見え隠れしていることである。
その不安に、彼女はただただ、自体の成り行きを少しでも好転できればと願うだけで、何もできない自分に焦りと苛立ちと、そして不安を感じているのだ。
希望があるとするならば――。
「あいつ、今頃何をしているだろうか」
順調な足取りであれば、雨滴の大河を越えて龍鱗山脈に差し掛かったあたりだろうか。
もしかしたら――。
もしかしたら、私はもうこの龍鱗山脈に踏み入ったが最後、生きて戻れないかもしれないな。
キアラはふと、肩の重みとともにそう感じた。
一瞬脳裏に生意気な騎士の顔が去来したが、それも何度目かのため息で吹き消す。
「ただいま戻りました」
「ご苦労」
戻った副長が通行許可と、もうひとつの段取りが終了したことを伝える。
キアラは物思いに耽っている間に、ずいぶんと時間がたっていたことに気がついた。
「全員騎乗、このまま夕刻までには逆鱗を越えるぞ」
女騎士は、担いだ荷をもう一度確認し、一気に愛馬に跨った。
*
小さな山村だった。
いくつかの集落が合わさってひとつの町、ひとつの宿場と名乗ってはいたが、小川を挟んで東と西に別れた、そんな山村だった。
日が昇れば起き、日が沈めば休む。
標高の良さで繁殖する薬草や野草の類を採取して生計を立てている寂れた村でもある。
寂れてはいるものの、そこには宿もあり、酒場もあり、息づく人々がいる。
夕日の残照が遠く龍鱗山脈北の逆鱗と言われる一画に沈み消えたころ、騎士と娼婦と栗毛の馬が、そんな寂れた山村に到着した。
「どうやら、一息つけそうね」
ヴェロニカは痛む足の裏を気にしながら、心底ほっとした表情で騎士に笑いかける。
「痛みますか?」
騎士はアンナの足元に屈み込みながら、その細い足首に触れる。
その仕草に熟練のはずのアンナは一瞬どきりとし、聞き流されたヴェロニカはまたかといった顔でため息をついた。
「だっこ!」
跨った馬の上で両手を挙げ、オリビアがクライフにおねだりをする。抱っこして下ろしてくれという意味であることはわかっていたので、クライフは嫌な顔をせずにひょいと幼女を下ろしてあげる。
「すっかり懐いたわね」
アンナは面白おかしそうに騎士と娘を見る。
「どう? ほんとにパパになってみる?」
その問いにあいまいな笑みで答え、騎士は妊婦の座る鞍に手をかけ、イリーナを抱えるように、注意深く下ろす。
「調子はどうですか?」
「酔いもしませんでしたし、揺れもひどくはありませんでしたし、おなかも大丈夫ですよ」
ぽむぽむと、その大きなおなかを右手で叩き、イリーナは騎士に笑いかける。
――ぶるるぅ。
栗毛の相棒が低く嘶く。
「揺れが少なかったのはこいつのおかげですよ」
轡を外しながら、クライフは村の近くにある厩へと向かう。
向かいながら騎士はヴェロニカに、先だって商人たちからのおひねりを入れた皮袋を放り投げる。うまく受け取ったヴェロニカは複雑な表情でそれを見る。
「二日は泊まれるくらい入っています、とりあえず宿の確保をお願いします」
「知ってるし、こんな村で宿に泊まりそびれるなんてことはないでしょうよ」
龍鱗山脈を越えたことの無いヴェロニカは自分の言葉に説得力が無いことをよく知っていたが、とりあえず寂れ具合には誰からも文句が出なかったので、そんなものだよねと内心頷く。
ヴェロニカは苦笑して去る騎士の背中を見送ると、みんなを振り向き、皮袋片手ににっこりと笑う。
「気分なおしにぱーっといこうか」
たかが知れてるけどね、と彼女は付け加え、東側の一本だけ伸びる道を進んでいく。
エレナもオリビアの手を引いてその後に続き、アンナとイリーナがその後に続いた。
「しかし、ほんとにあなた大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ」
アンナはその言葉に一応頷くが、彼女に肩を貸すように寄り添い、ゆっくりみんなの後に続く。
「私がオリビア産んだときは凄かったなぁ」
「難産でしたもんね」
二人は懐かしむように笑いあう。
「逆子で、初産で、一人だったからねえ」
「お医者様くらい、タネをくれた人に任せればよかったのに」
「そうもいかないのよ、まあ、色々あってねえ」
そのあたりの事情は、深いところまではアンナは話していなかった。
「まあ、場所が場所だし産婆にゃ困らんけど、子供を産むのがあんなに苦しいなんてねえ」
「スワラのときはなんか、花を摘みにいったときみたいにスルって出たらしいわよ?」
「……彼女はおっきいのが好きだっただけよ」
二人で笑いあう。
欠けた月が浮かび、山脈の陰の中から抜かれたような夜空には満天の星が輝いている。
浮かび上がるような村落の白い道を、娼婦はてくてくとのんびり歩いている。ヴェロニカ、エレナ、オリビアに続いて、イリーナにアンナ。五人の娼婦は、夜霧を離れて以来、久しぶりに女五人で雑談に興じていた。
「というか、宿屋ってどこー?」
皮袋片手にヴェロニカが文句を口にし始める。
見渡してもあるのは、ただ、家、家。
明かりが漏れている家屋は、どれも小さく、大きい建物といえば納屋か穀倉だった。
「向こうのは、見るからに家畜小屋だしなぁ」
「やっぱり、さっきの川を越えるんじゃないかしら」
イリーナがぼそりと呟く。
「いや、あたしの勘ではこっちよ」
「じゃあ、みんなで少し戻って橋渡りましょうか」
アンナの言葉に頷く娼婦たち。一人ヴェロニカはむーっとする。
「だってヴェロニカ姉さんとイリーナ姉さんがそういう時って、たいがいイリーナ姉さんの言うことのほうが正しいことが多いじゃない」
ぐっと、言葉を飲み込む音がヴェロニカの喉の奥で聞こえた。
畳み込むようにエレナはオリビアの手を引いて、さっさと踵を返して二人揃って背を向けている。何か言いたげなヴェロニカも、たいていそうであったことを思い出し何も言えない上に、自分自身でも「こっちじゃないな」という気がしていたのだ。
「……おや?」
さて、戻りますかと言った頃合いに、小川から冷やしたボトルを引き上げたらしき村娘が、数本を両手に村道をてくてくとこちらに歩いてくるのが見える。
「ちょうど良いや、聞いてみましょう」
遠い影のような娘の姿に、ヴェロニカは大きく手を振る。
「おーい!」
寒村に響くような大声で、手をぶんぶんと振る。
向こうもそれに気がつき、街道を僅かに逸れたこの村では珍しい旅人に珍しげな視線を投げかける。その顔が判別できるくらいの距離に寄ったとき、その村娘はぎょとしたかのようにボトルをその胸にぎゅっと抱きしめ、呆けたように佇立した。
「あれー、どしたの?」
歩きよるヴェロニカも、その村娘の顔をまじまじと見て……絶句した。
「ウェンディ!?」
娼婦の叫びに、アンナもイリーナも、エレナでさえも次々に言葉を失った。
そしてウェンディと呼ばれた村娘は、力なく笑顔を作って、やっと言葉を発した。
「ひ、ひさしぶりね……ヴェロニカ、そしてみんな」
クライフは馬を留め、厩の主人に世話賃を少し多めに払った後、この村で彼の実家である薪売りから油を掛売りしている唯一の宿屋の場所を聞き、村の西側、商用区画へと足を向けていた。
通商のため、村長のいる区画にそのようなものが多く割かれ、川を挟んだ東側は主に村民の住居と倉庫が占めているという。
娼婦たちはうまく宿屋にたどり着いているだろうか。
薪売りの末子の知識から、この村の名と一軒だけ宿屋があると言う情報だけは知っていた。日も暮れ、山道が続き、歩き通しの体を休めるために立ち寄る必要があったところに、ちょうどよかったと言うわけだった。
村の集会所とも言えるような、石組みの丸い舞台を中心にした広場がある。そこを左手に見ながら、騎士はやっと村唯一の宿を発見する。
宿と言うには小さいつくりだった。大家族が住む家、くらいだろうか。事実、村の労働力を担う子供たちを多くもうけた一家が住んでいた家なのかもしれない。
「まあ、この村にはこれで充分かもしれないな」
当然のように、一階部分は村の酒場をかねていた。
酒気に寄った程よく陽気な声が聞こえてくる。
開け放たれた扉をくぐり、かつては納屋として作られたであろう大きな部屋の中に入る。丸木机、椅子、そしてカウンターという平凡なつくりの酒場の姿がそこにあった。ただ、平凡な酒場であまり見ないような女の集団が、卓をひとつ占領して見事な酒盛りを繰り広げている光景だけが熱く浮いている。
騎士が入ってきたことに気がついたのは、この宿の主人だけであった。
主人はまだ若い、壮年の男だった。幼さの残る顔に口ひげを生やした、働き者らしい体つきの逞しい男である。
そんな彼にクライフは片手を挙げて挨拶をして、目線で奥の集団を指す。すると主人は心得たように頷いた。
そこで再び卓に目を留めたクライフは、見かけない女性がアンナやヴェロニカ、そしてイリーナと酒を酌み交わしているのに気が付いた。
不思議に思いながら、卓に近づき、片手を挙げて挨拶しながら同じ席に付く。
「迷いませんでしたか?」
騎士の着席に、見慣れない女性は畏まったかのように娼婦たちに目配せをする。
娼婦たちは笑っているが、その女性は居心地が悪そうに器を置いて頭をかいている。
「この子に教えてもらったからね」
ヴェロニカが女性の肩を叩きながら笑う。
「昔馴染みのウェンディ。緑葉の商館で下働きしていたときに知り合ったのよ」
加えてアンナがそう言って目配せをしてくる。
クライフはクライフで、先だって宿場町で起きたことを基に示し合わせた口裏を合わせる。
「なるほど、皆さんのお仕事の同僚さんでしたか」
「ええ、そうなのよ、同じところで働いていたのだけれど、身を固めると言って仕事をやめてから会ってなかったのよ」
騎士がそう聞くと、長姉娼婦が頷いた。
つまり、このウェンディという女性は、『夜霧』で働いていた元娼婦ということか。
「で、旦那様がここの主人さんらしいですわ」
ご主人様ですね、とイリーナはうれしそうに笑う。
「そ、そうなんです」
騎士にぎこちなく笑いながら、ウェンディが頷く。
騎士は軽く頷きながらカウンターを見ると、主人は軽く会釈した。
その会釈の中に、彼はすべてを知っていると見たクライフは、騎士たちの事情も察してもらおうと、ひとつ頷いた。
主人も頷き、騎士に出す飲み物を携えて卓へと近づいてきた。
「何も無い村ですが、ゆっくりしていってください」
主人はウェンディの肩に手を置き、亭主のコルムと名乗った。
周囲の数人の村人も、わいわいとやりつつも聞き耳を立てているのを気配で察し、アンナを目配せで交え、静かに、よく通る声でコルムと話し始める。
「では、ウェンディさんはご結婚されてこちらの村に?」
「小麦の計算してるときは垢抜けない子だなぁ、って思っていたけれど。うまいことイイヒト見つけたわよね」
そこでウェンディに誘い水をかけると、彼女が自分が周囲に思わせている状況を話す。
「あのあと、緑葉の双剣亭で花嫁修業をかねて働いてね。そこでうちの村で使う物資の買い入れをしていたうちの旦那とであったのよ。もう四年目か……」
いくつか腹の内での会話と約束事が確認された。
ウェンディが元娼婦であることは、旦那は知っているが、村人には秘密である、秘密にしておきたいと言う、ウェンディたちの事情。その友人たちであるヴェロニカたちも、娼婦であることを隠している必要があるというクライフたちの事情。その二つが確認され、彼女たちが『離れ離れになった日』、そして『何をしていた期間なのか』ということを情報として言葉で伝え合う。
雨滴の大河で宿場町に寄り、その服装などから娼婦と素性がばれたりする危険性を考慮するにいたり、今の彼女たちは一見ふつうの町娘と言った姿だ。話の食い違いが無いか再度心の中で確認する。
「あの、……えーっと――」
「ああ、はじめまして、クライフ=バンディエールです」
ウェンディが名前を知りたそうな顔だったので、クライフは一言そう名乗った。
そしてその名前を頭の中で何度か反芻するうちに、ウェンディははっと思い至る。
「バンディエールって……ねえ」
「よくある名前ですよ」
実家のお得意様に心の中で礼を言い、クライフはにっこりと笑う。
「どの女にも色目を使うのよ、気をつけなさい」
ヴェロニカが揶揄してそう言うと、他の娼婦もうぬんと頷きあう。
「私と言う妻がありながら、しかもおなかに子供まで宿した妻の目の前で……」
悲しそうな、純真に悲しそうな顔で、イリーナはクライフの袖をつかんでうそ泣きを始める。
――なるほど、そ、そういう設定なんですか。
恐れ多いことだとクライフは引きつった笑いを浮かべる。
「ま、まさかイリーナに子供ができたなんてねえ。旦那さんが誰かと思ったけど、まさか騎士だったなんて」
娼婦方の本当の職業を知る主人とウェンディは、「さもありなん、どうりで騎士がいるはずだ」と、このクライフと言う田舎騎士が娼婦を孕ませて実家に帰る途中なのだと漠然と納得したのである。
仕事仲間であるヴェロニカたちがそれについて行く理由まではわからないが、きっと田舎騎士にしては裕福で、姉妹の面倒をまとめてみようと剛毅なことを言い出してのことであると……なんとなく考えた。
気まずい一瞬の沈黙の後、ウェンディが両手を合わせてクライフに頭を下げる。
「あの、できれば女同士積もる話が……」
席を外せと言うことらしい。
するとコルムが気を利かせてあごを階上に向ける。
「部屋は用意してあります、上でどうぞおくつろぎください。騎士様は、私と男同士、カウンターで語りましょう」
それもそうだなと、クライフは快く頷いた。
日が沈みきり、酔いもほど良く回って気持ちがよくなる頃合いには、もう多くの村人は帰宅して睡眠の時間となる。村唯一の酒場で宿屋と言うことで、特に名を持たないコルムの店は、宵に差し掛かると途端に人気がなくなってしまう。
クライフたちのことは、聞き耳を立てていた村人たちの口から、今夜から朝にかけて瞬く間に広がることだろう。
カウンターで気兼ね無く飲み交わせる状態になり、騎士も店主も一息つく。
「ウェンディのことは、死んだ両親も普通の娘だと信じていまして」
クライフは頷いた。
村と言う閉鎖的な状況で、娼婦と言う職業が蔑視されている可能性は高い。性におおらかな村落特有の風俗ゆえに、それらの職に対する生理的な嫌悪は皆無ではないのだろう。
店主のほうも、まさか娼館通いにはまってしまい、そこの娼婦に惚れ抜いて、強引に引き抜いて結婚したなどと吹聴できるはずも無かった。
「できればその、内密に」
「こちらのことも、同じようなものです。イリーナ様のお腹の中の子供の父親は、私ではないのです」
娼婦に『様』をつけることにより、クライフの言外の何かをコルムは感じ取った。
寒村の宿とはいえ、人と接する仕事特有の含みがわかっている証拠である。
お互い、このまますれ違うだけで終わらせるのが正解であると、二人は頷きあう。
グラスを傾けながら、コルムはひとつ思い出したように話しかける。
「そう言えば、大部屋ひとつということでしたが……」
「はぁ、そうかもしれませんね」
ヴェロニカに任せていたので、彼自身どのような部屋割りなのかまったく知らない。
「なんというか、そのう、みなさんご一緒の部屋で?」
騎士は頷き、店主は目を丸くした。
「……何か間違いがあったら――」
言いかけて、ふむと納得したかのように頷いた。
「間違いが起きないような人を選んだのかもしれませんね」
いろいろな意味で正解なのだろう。
クライフは片手のグラスを傾けながら苦笑する。
「正しい選択だと、信じたいですね」
それが誰にとっての正しい選択なのかわからない。しかし、娼婦たちには安心して暮らせる状況を作ってあげたいとは思う。
男たちは二人、笑いあって軽くグラスをあわせ、中の酒精を飲み干した。
星明りの下、村を東西に分かつ川に掛かる橋。
そこに二つの影が落ちている。
長身で、右目を含む顔の半分を茶けた包帯で覆い、麻のシャツと革のズボンをはいた男。
そして長身の男よりは小柄な、少年のような顔をした狩人風の男。
かつて、龍鱗山脈入り口で死闘を繰り広げたクライフと、彼が護衛する娼婦たちを遠く樹上から観察していた、あの三つの目が爛々と光っている。
「話は簡単だな」
「そうだね」
少年のような男が呟き、長身が答える。
かつて北の大陸で名を馳せたアゴラの双龍と呼ばれた暗殺者がいた。青い龍と、赤い龍の二人一組の仕事屋で、青龍と赤龍が入り込めぬ場所無しと言われるほど神出鬼没で確かな殺しを楽しむ暗殺者であった。
彼らが年の流れで引退し、二代目として育て上げたのが、この狩人風の男と、長身の包帯男だった。彼らは実の兄弟であり、物心着く前に先代の双龍に浚われ、鍛え上げられた生来の暗殺者である。
狩人風の男が、兄の青龍。
長身の男が、弟の赤龍。
青龍は狡猾で残忍、獲物をいたぶることを悦びとし、かつ知略に長ける男である。
赤龍はそんな兄に忠実に従う、豪腕の持ち主である。
青は女の苦悶が何よりも好きで、赤は強い者をねじ伏せることが何よりも好きだった。
「まずは、そうだな」
青龍は白く浮き上がる目を細め、ひとつ頷いた。
「彼らを焦らせることにしようか」
「じわじわと行くんだね」
全幅の信頼を寄せる兄の指示に疑問を挟んだことは、今まで一度も無い。
兄が、青龍が仕事において楽しむことは、任務の遂行に必ず必要な儀式である。
「カーライルの子分が追いつくのはもう少し先か。丁度良い、まず二日といったところだな」
赤龍は、ごくりとつばを飲み込みながら頷いた。
「騎士はそれから好きにしろ、俺は女をなぶることにする」
「わかったよ、兄さん。二日待つんだね」
「そうだ、二日だ。まずは、そうだな――」
寝静まる村の様子に耳をすませながら、青龍はひとつの考えに至り、ほくそ笑む。
「ふたつ、手を打つとしよう」
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