第10話『雨滴の大河(4/5)』

   *


 商人たちのテントの数が少なくなっているのに気がついたのは、昨夜の大通りを少し北上したあたりだった。オリビアが気にしていた屋台がある一角に、お目当ての焼き菓子の屋台がなくなっていたからだった。


「朝はやっていないのかしらね」

「お姉ちゃん、無駄遣い禁止」

「わ、わかってるわよぅ」


 年下にたしなめられつつも、彼女はオリビアの手を引いて通りを歩く。

 一息ついて見回しても、多くの棚は片付けに入っているらしい。


「ねえ、おじさん」


 ヴェロニカは荷を麻袋に詰め込んでいる男に声をかける。

 初老の男は眉根を上げながら怪訝そうに顔を向け、女と幼女の組み合わせに警戒を解いて微笑んだ。


「なんだい」

「なんかさ、店じまい多いけど……薬売ってるところ知らないかしら」


 ヴェロニカは通りの奥に目を向けながら言う。


「薬ねえ」


 男は少し考えて路地の先を指差した。


「この先に看板がでとるよ。あいにく卸した後だから値段はそこそこだがね」

「まあ、そうでしょうね」


 ため息をつく。


「おじさんも急いでどこ行くのよ」

「ん? ああ、なんかきな臭いから北に行こうと思ってね。どうやら緑葉の街が南からの傭兵に荒らされたって話だ」

「へえ」


 頷くヴェロニカ。

 肝が一瞬冷えた。

 離れて間もないとは言え、あれは、あの襲撃は紛れも無い事実だったのだ。


「じゃあ、あなたも北に? ちょうど良いから乗せてってくれないかしら」

「ははは、あいにく荷で満杯さ」

「でしょうね……」


 今を買い納めとしたのか、彼の積み上げる麻袋は十を超えている。

 中身は細かく挽いた小麦だろう。


「ありがと、それじゃあね」

「離れるなら早いほうが良いぞ」


 ヴェロニカは肩越しに手を振って離れる。

 路地に入るとため息をひとつ。


「なんかもう、やになっちゃうわねえ」

「元気出して」


 袖をくいくいと引くオリビアに、ヴェロニカは苦笑する。


「一番元気出さなきゃいけないのが宿でくたばってるから、早いとこお薬買って帰りますかね」

「ねえ……」

「ん、なあに?」

「騎士様、死んじゃうの?」

「…………」


 ヴェロニカは一呼吸考え、答える。


「うーん、わからない。少なくとも、熱では死なないと思うけどね」


 落ち着くのは領都に辿り着いてからだ。


「まだ安心は――」


 しかし、彼女は幼女の頭をやさしく撫でる。


「大丈夫、あまり死ななそうな顔してるし、すぐに元気になるわよ。……たぶん」


 最後の一言だけ口の中で呟く。


「そっかなぁ」


 しかし今度はオリビアが心配顔だった。


「大丈夫よ、あんたのママが看病してるんだから」


 オリビアはそう言われて、やっとひとつ頷いた。

 雨露に磨耗した石畳を、幼女の歩幅にあわせててくてくと歩く。

 浅い光が差し込む路傍の角石、遠くから香る朝餉の煙。

 ずいぶんと懐かしい光景にヴェロニカは一瞬、ほんの一瞬だが自分が何者かも忘れてホゥと息をついた。血風舞うあの鉄臭い情景とは、まったく異なる景色だった。

 そこを、ゆっくりと、薬屋の看板らしきものを探しながら歩く。

 手を揺らし、幼子の歩幅に無意識に気を使いながらも、その視線は往く往く家々の庇へと向けられ、穏やかに細められる。


「あ……あれかな」


 呟いたとき、それらしい看板がかけられた薄暗い一角が見えた。

 薬の品質に慮った冷暗所なのだろうが、いかにも怪しげな雰囲気に二人は一歩立ち止まり、お互いの顔を伺い、そして首をひねった。


「なんか怖いよ」

「真っ当な薬なんて扱ってないような感じよね」


 お互い顔を見合わせ、ヴェロニカは一回頷く。


「どうする? 帰っちゃおうか」

「えー、だめだよー」


 と、オリビアが袖を強く引いたとき、横合いから一人の男が姿を現した。


「…………」


 昨夜の巨漢だった。

 彼は彼女たちを確認し、ゆっくりと歩き寄る。

 警戒したヴェロニカが眦をきつくする前に、彼は諸手を挙げて害意の無さを表した。


「よしてくれ、なにもしやしねえよ」

「どうだかね」


 オリビアを背中に隠しながら、彼女は言う。

 しかしその目が巨漢の右手首に向けられたとき、苦笑交じりに変わる。

 そこにはしっかりと湿布が巻かれており、関節がきつく固定されていた。


「しょうがないだろう、まだ少し痛いんだからよ」


 巨漢は小さいオリビアの目線まで屈んで、屈託無く笑う。


「何もしないよ、姿を見かけたから声をかけただけさ」


 男はヴェロニカに目を向ける。


「今朝には立つんじゃなかったのかい?」

「それがねえ、ちょっとウチのが熱出しちゃってさ」

「……あの腹ぼての姉さんかい?」

「まあ、そんなもん。で、解熱剤とおもって買いに来たんだけどさ」


 男はひとつうなった。

 ヴェロニカの言葉には嘘があるかもしれないが、間違いではないという勘が働く。


「腹ボテに薬はマズいんじゃないか? おおかた、あの兄さんなんだろう」


 うぐっ……と、気まずそうな顔になる彼女に、男は追い討ちをかけるように苦笑する。


「あんたにゃ腹芸は無理そうだな」

「うるさいわね、そのかわり腹の中で悦ばせるのは得意なんだからね」


 ヒューと甲高い男の呼気。

 そしてひとつ表情を改める。


「……緑葉の噂が流れてきたな」

「みんな逃げ出す算段でも?」

「商人たちは北に逃れるそうだ」


 やっぱりね、とヴェロニカ。


「騎士団が総出で南に陣を張ってるらしいな。雨滴の大河周辺を迂回し、龍鱗山脈側からグレイヴリィ侵攻予想路を封鎖しようと、ガレオン総騎士隊長自ら陣頭指揮にあたっているとかいないとか」


 総力戦だよな、と男は呟く。

 ヴェロニカも頷いた。場末の娼婦といえども、音に聞くガレオン総騎士隊長の武勇は知っている。三十人を一息で血祭りにあげたという噂は誇張だろうが、名うての暗殺者たちを縦横無尽に倒したというのは事実であると信頼できる客から聞いていた。

 その騎士、領主守護の最高峰がお出ましとなると、もう彼女たちの想像の範囲外である。夢物語にも似た、しかし現実味のある蹂躙戦という予想が彼らの身を震わせるのだ。


「あんたたちは?」

「俺たちは町に残るさ」


 男は頷いた。その顔には誇らしさすらある。


「ここまで攻め込まれることも無いだろうしな。南は緑葉が目当てだったという専らの噂だし、そうそう無茶はしないさ。中央国の目もあることだしな」

「そう、ね」


 男は立ち上がった。


「だがまあ、しかし、緑葉を締め出されたなら都に行くしかないな、あんたらは」

「相棒の熱が引いたらすぐに行くわよ」


 男は苦笑交じりに手首をさする。


「あの腕っ節でも病にゃ敵わんか」

「意外に可愛い精神してるのよ、あいつ」

「なんだ、あんたのコレか」


 親指を立てる男に首を振る。


「残念ながら、客候補ってだけかな」

「確かに任務中にオンナに手を出すようなやつには見えなかったがなあ」

「なんなら、あんたどう?」


 商売用の流し目で男にしなだれかかるが、男は手を振ってヴェロニカを追い返す。


「いろいろシガラミがあるんだよ」

「でしょうね」


 彼らが買うのは、自前の店の娼婦のみなのだろう。もしかしたら、昨夜のツレの娼婦が彼の馴染みなのかもしれない。


「彼女によろしくね」

「……ああ」


 男は去り際にもう一度振り返る。


「ホントに大丈夫なのか、あの兄さん」

「ええ」


 意外に思い、ヴェロニカは首をかしげる。


「そうか、なら良い。……じゃあな、お嬢ちゃん」


 オリビアに手を振りながら、男はきびすを返す。


「じゃあね、おじちゃん」


 オリビアも空いている手を振る。

 男は一瞬困った顔をしながら頭を掻く。

 去っていく後姿を見ながら、ヴェロニカはフームと唸る。


「あいつ、きっとまだ十代なんだろうなぁ……見えないけど」


 彼女はオリビアの手を引き、何事も無かったかのように薬屋へと向かうのであった。




 ちょうどそのころ。


「ねえ、イリーナ、ちょっと腰持ち上げるから下着脱がせちゃってくれない」

「はーい」

「ちょっ……あの、待って……!」


 すでに上半身を裸にむかれたクライフが、体を縦横無尽にひねりながらベッドの上でノタリノタリと暴れている。

 しかし胸板の辺りにアンナの大きいお尻がデンと乗っかっており、クライフからはその尻と背中しか伺えないが、彼女は嗜虐の笑みでニンマリとしている。

 彼女の昔の常連が見たらうらやましがりそうな体位のまま、彼女はクライフの下腹に覆いかぶさるように上体を預け、その両腕を彼の腰の下にグリグリと差し入れている。

 そのまま腰を浮かせようとする彼女の脇には、大きなおなかを抱えたイリーナがクライフの下着に手をかけてグイグイと引き摺り下ろさんとしている。彼女の表情も、これは楽しそうだった。目はきらきらと、しかしその力は今のクライフには抗い難いほど力強いものであった。

 ほとんど鼻先にまでアンナの豊満な臀部を突きつけられ、体で押しのけることも恥ずかしく、クライフは徐々に枕の方向、上へ上へと逃れ行く。しかしその逃れも、イリーナの頑固な両腕に下着を掴まれているせいか、勢いに欠け、しかもベッドの飾り板に頭が触れると、もうそこからは逃げられなくなってしまっていた。

 ――八方塞がりか!

 さしものクライフも、目が覚めたまでは良かったのだが、ここに来て最大の危機を迎えていたといっても良い。彼の命には関わらないだろうが、およそ魂の根源に関わる何かに大きく触れてしまいそうな事件であるのだろう。

 こと、ここに至っては、もはや説得するしか彼の助かる道は無かった。


「あの、ちょっと待ってくださぷ――」

「はーい、ちょっと黙ってねー」


 クライフの顔面に、なにか重くもやわらかい塊が押し当てられる。


「な、なに――ぷっ」

「何か、ですって? あらいやですわ騎士様、私の秘めたる部分ですわ」


 股間でクライフの顔面を器用に封じたアンナは、彼の腰を抱えるようにえいやっと持ち上げる。テコの原理で抱え挙げられたクライフの腰から、その瞬間、イリーナの早業で下着が勢いよく引き下ろされる。


「――――!」


 クライフは天を仰いだ。

 いや、しかし視界にあるのは押し当てられたアンナの股間であるのだが。


「…………ほぉ~」

「なるほどぉ……」


 ひんやりとした空気と好奇に満ちた視線を股間に感じ、クライフは涙がにじみそうになった。

 子供のころ、姉たちにオモチャにされ見られたことはあったが、大人になった今、他人に……しかも美人といっても良い女性たちに至近距離からまじまじと見られたのは初めてのことだった。

 諦めたような嘆息が漏れるが、それもまたアンナの股間に押し殺されてしまう。

 呼吸ができるように押し当てるあたり、彼女も慣れたものだった。

 体勢の関係で覗き込むようになっていたアンナが体をようやっと起こすと、替えの下着と濡れ手拭いを手にしたイリーナがやってくる。

 股間のクライフが観念したと見たアンナは、ひょいと腰を浮かしてベッドサイドへと移る。蹂躙した男の顔をまじまじと覗き込み、にんまりと笑う。


「さ、拭き拭きしましょうね~」

「もう好きにしてください」


 ようやっとそう呟き、クライフは彼女の助けで上半身を起こす。

 そんな彼をイリーナが覗き込み、首をかしげた後にくすりと笑う。


「顔が真っ赤ですよ」


 そして湯で絞った濡れ手拭いを肩口に当てる。


「けっこう純情さんなんですね」

「は、はぁ……」


 正直に「熱のせいです」と言うわけでもなく、もうどうにでもしてくれと言ったような、全てを受け入れた者の目で頷く。

 結局素っ裸にされ、それでも辛うじて股間をシーツで隠しながら、イリーナに背中側、アンナに胸側を優しく拭いてもらううちに、彼自身諦めもあったのだろうが、素直な心地よさに大きく嘆息する。


「どう、気持ちいいかしら」

「痛くありませんか」


 などと訊かれるが、暖かい手拭いと、拭かれた先からスーっと感じる涼気という心地よい感覚に、あいまいな返事しか返せない。彼自身、熱があるのを思い出せないくらいの忘我であった。


「……よく見ると、若いくせに古傷が多いわね」


 つーっと、左わき腹に薄く長く走る傷に指を当て、優しく撫でるアンナ。


「あふっ……」


 甘い声が漏れる。

 それがこの騎士が思わず漏らしてしまった声であると気がつくまで、二人の娼婦はキョトンとしていたが、状況が飲み込めると、その手や指使いを途端に介護から熟練の領域に切り替えはじめた。

 湯につけ、固く絞り、脇下やうなじの辺りを優しく拭き取り、うっすらと残った水気を熱い吐息で乾かす。湯ではなく、すでに呼気に含まれる熱い水気が騎士の肌を覆いはじめていた。

 はぁはぁと、熱にうかされている騎士の呼気吸気は熱く浅く、そして時には深く、短く、重く、軽く繰り返される。情欲に彩られる技巧にさらされつつも、しかしその表情は安らぎの度合いが強かった。

 二人の娼婦から立ち上りはじめた甘い体臭にも、どこと無く懐かしむような表情で受け入れているのか、茫洋となすがままにされている。

 熱が引く感覚に陶然となった彼だが、いまだ頭の中は正常とは言いがたい状態である。

 何か考えようとすると、とたんに考えがまとまらなくなる。全て剥かれたときに、いろいろと頭に血が上ったせいで、熱が上がったのかもしれない。


「姉さん」

「なぁに?」


 胸板を拭き終えたイリーナが、シーツ越しにクライフの太ももを撫でさすりながら訊く。


「やっぱり、下のほうも綺麗にするべきですよね」

「それは当然でしょう」


 何のために脱がせたのよ、と、アンナもニンマリと笑む。


「さて、それでは……」


 と、アンナが彼の下半分を隠しているシーツに手をかけたとき、空になった籠を抱えたエレナが階下から帰ってき、瞬間、息を呑んで固まった。


「何をしているんですか、お二人とも。騎士様はご病気なんですよっ」


 彼女にしては強い口調に、二人はひとつ唸って黙り込んだ。

 なおも手ぬぐいを動かそうとしたアンナだが、エレナに目で制される。


「遊んでいないで、着替えを着せて差し上げないと風邪を拗らせてしまいますよ」

「それもそうね」


 と、あっさりと引く二人。


「ほら、シャキっとする!」


 アンナの掌がクライフの背中に思い切り叩きつけられる。

 肉を打つ激しい音とともに、背中にくっきりと手形を残したクライフが、我に帰ったように顔を苦痛にゆがませながらのたうつ。


「痛~」


 その一撃で変な空気を払拭するように、アンナもイリーナも気持ちを切り替える。ただ、イリーナだけは多少残念そうなもの足りなさそうな顔で着替えのシャツを手にしている。


「はい、騎士様」

「あ、はい」

「一人で着れますか」

「大丈夫です」


 ヒリヒリする背中を気にしながら、多少はハッキリし始めた頭でそう答える。


「……」


 エレナはエレナで、扉のところからシーツの裾からのぞくクライフの裸身に目が釘付けになっていた。

 遠目や話に聞いていた男の体に、さすがに興味深々なのだろう。

 ひりひりする背中に、今度はちくちくと視線を感じ始める。

 そそくさととりあえずシャツを着込み、その視線をさえぎるようにシーツを引き上げる。


「すまん、着替えるから……」

「あ、はい、気にしませんから」


 クライフは言葉に詰まった。

 俺が気にするのだが……とモゴモゴと口を動かし、しかし他の二人の娼婦も気にした風も無いので、いっそ諦めて下着を手に取る。


「……」


 しかしその手がぴたりと止まる。

 彼が手にしたのは、先ほどベッドの隅に置かれた下着の山から手に取ったものである。

 さすがに女所帯の一行なのか、手に取られたのは女物の下帯だった。

 山の中に下帯を戻し、ごそごそと自分の下着を探す。

 ……無い。

 もう一度探す。

 洗ったあとと思しき、おそらくみんなの下帯。腰に巻きつける形の一般的な下帯だ。帯とはいっても、腰布のような形で、着るものの様式によっては細い帯で股間と腰を引き締めるものだ。

 股が分かれている、足を入れる形の腰紐固定という男物の下着は……無い。


「あのぅ」


 スゴスゴと申し出る彼に、エレナは首をかしげる。


「どうしました?」

「替えの下着の中に、私の物がないのだが」

「洗濯中ですから」


 にっこり。

 綺麗にしたんですよ、とエレナは微笑む。

 さすがに下半身裸というのも気が気でなく、クライフは唸る。

 このまま熱が引くまで寝てるか、と思って横になろうとしたとき、先ほどからそばでジーっと見ていたイリーナが、引かれようとしていたシーツを引っ張る。


「騎士様、下着を着けなければお腹が冷えてしまいます。夏場とはいえ病気なのですから、しっかりとしていただかないと」

「だが、しかしですね」

「早く良くなってもらわなければ、守っていただく私たちにも不安が残りますし」


 正論だった。

 たしかに下半身から冷えると体調も良くならないかもしれない。

 しかしずっとベッドの中にいればそんなに冷えないのではないだろうか。


「いえ、このままで大丈夫です。お気になさらず」

「そうですか」


 あっさりとシーツから手を離すイリーナ。


「ここはやはり、添い寝でしょうか」


 しかし大きな爆弾を置いていく。


「私はお腹が大きいですから、そんなに足を絡めることはできませんし」

「じゃあエレナね」

「アンナさん、一人で大丈夫ですから」

「……私じゃだめなんですね」

「残念がらないでくれ」


 クライフは熱が引くのは、もうすこし後かと、観念した。




 そんなこんなでヴェロニカがオリビアを連れて帰ってきたのは、それからしばらくした後であった。

 伺った薬屋は、入荷したての生薬を丁寧に調合してくれた。幾分割高だったが、ヴェロニカは路銀の中から支払い、購入した。その帰りの際に、もしかしたらと思い、男物の下着を買っていったのは、クライフの切なる願いが届いたとしか思えなかった。

 彼女たちがドアを開けると、洗ったばかりで湿っている下着をはこうとしているクライフが、女三人に押さえつけられているという不思議な光景であった。彼女たちの手には見覚えのある下帯が握られており、それが自分のものだと気がついたとき、ヴェロニカは大きくため息をついた。


「しかもよく見たらほとんど裸じゃない、なにしてるのよ」


 押さえつけられ、体力的にも体調的にも厳しいクライフは、息も絶え絶えに助けの視線を向ける。


「下着買ってきたから履き替えなさい。みんなはもうふざけないの。薬買ってきたから無理にでも食事を摂って、飲んで、大人しく寝てる!」


 そこにきて、やっとこの騒ぎは終いとなった。


   *


 奇妙な夢だった。

 懐かしい夢ともいえる。

 騎士養成所時代の夢で、周りには木造の宿舎を囲む高い柵、広く踏み固められた赤土の広場。土ぼこりと汗にまみれた、懐かしい訓練場がそこにあった。

 周囲の養成所の見習いたちも、懐かしい顔の面々だった。しかし、クライフだけは今のままの姿をして、革の粗末な鎧で身を包んでいる彼らを相手に剣の組訓練を行っているのだった。

 いくつかの試合を経て、最後に現れたのは、当時まだ髪を短く切りそろえていたキアラである。負けん気の強さを瞳の奥に隠しきれない、荒々しさとも頼もしさともとれる闘志を燃やし、クライフの喉元に狙いをつけた切っ先を勢いよく突き出してくる。


「なぜ娼婦を助けた」


 柄で滑らせ、切っ先をそらせると、クライフは体を入れ替えるように移動する。

 その際に投げかけられたキアラの言葉に、クライフは頷く。

 そう、これはやはり夢だ。

 あのころの自分はあの突きをかわす事はできなかったし、このころのキアラが緑葉の一件のことを語るはずもない。

 どこか冷静にクライフはもう一度頷き、剣を静かに構えなおす。


「南方が雇った傭兵たちに殺されるかもしれないのに」


 二度繰り出される突きを交わし、刷り上げるように振りかぶった上段の剣を垂直に振り下ろす。しかしその剣は思いのほか鈍く、キアラは右足を一歩引いてやり過ごす。

 お互いの距離は、一足一刀の間合いでぴたりと凝固した。

 振り下ろす剣の遅さは、迷いなのだろうか。


「何度も忠告したはずだ、あの人は怖い女性だと」


 下段にかまえたクライフの切っ先がピクリと跳ね上がる。

 切り上げられた刃は、夢想する風景ごと黒く切り裂く。

 夢は、覚めた。

 寝汗は、かすかにかいていた。

 重かった頭も、肩の辺りからほんのりと暖かく、柔らかい感触に、軽さを取り戻している。二度寝しようと思えば、即座にできるような心地よいまどろみである。

 ふと目を開けると、薄闇に群青の明かりが差し込んでいる。

 夜明けだと感じたとき、クライフは一息に上半身を起こした。

 心気は充実し、呼気も鋭く気を引き締める。

 一晩、無駄にしたか。

 そうも思ったが、周囲の娼婦は皆すやすやと気持ちのよさそうな寝息を立てている。さすがの疲れ、だったのだろう。二日あまりの滞在は無駄であるとは思いたくはない。過ぎたことだ。

 このまま順調に行けばいいのだが。

 夜は明け、町は動き始める。

 大きく息を吸い、吐く。

 クライフはベッドから降り、早速装備を身につけ始める。

 夢を見ていた気がする。

 しかし思い出そうにも、うまく思い出すことができない。

 何か大事なものであったような気がする。

 クライフは一度頭を振ってそのことを追い出す。

 思い出せない夢なんて、いままでに何度もあった。

 窓辺から北を望む。

 龍鱗山脈を越えるときが近づいているのを、彼は感じた。




 日はすでに中天であった。

 取り立てて急ぐ必要がある気配もないので、クライフたちは朝をゆっくりと過ごし、つないでいた馬の手入れをしながら昼を待った。手弁当と飲み物を積み込み、娼婦たちを乗せ、クライフは再び御者台の上で一息つくことになった。

 日は暖かく、すぐに暑くなってくる気配に満ちている。

 だが、風は心地よい。

 川辺を流れる、山々からの涼風は、この町をなでるように南に流れていく。クライフはその風を受け、髪をかすかになびかせながら、遠く北を望む。

 あの山脈を越えれば、一安心できる。

 好事魔多しとはいえ、今このとき、気が緩んでいたとしても仕方はない。


「よう、早速だな」


 横手からかけられた声にクライフは目を向ける。

 大きな布包みを抱えた、おとといの巨漢であった。隣にはあの少々きつい顔の娼婦がいる。夜の仕事の後なのか、多少疲労の後が目元に現れてはいるものの、彼女は巨漢の後ろに隠れることなくクライフに歩き寄ってくる。


「あんた、この前は済まなかったね」

「お互い様だ」


 口元で笑むと、娼婦も笑った。


「侘び代でもらったあれだけど、ちょっと多いね。釣りを持ってきたよ」

「釣り?」


 年増の娼婦は顎をしゃくり、後ろの巨漢を呼び寄せる。


「仔胎かかえた娼婦がいただろう、若いのもいたし」

「ああ……」


 巨漢は無言で布包みを差し出す。


「これは?」


 受け取るクライフ。不審な気配はないが、なにやら柔らかいものが包まれているようだった。


「腹帯だよ、腹帯」


 腹帯は、大きくなったお腹を支える長く柔らかい帯のことだ。それの替えを用意してくれたのだろうか。


「あとは……おい、なんだっけ」


 巨漢に振られ、眉根を寄せながら娼婦がため息をつく。


「渡せばわかるよ。男が首突っ込むものじゃないさ」

「そういうものか」


 そういうものなんだろうと、クライフも頷く。


「済まなかったね」


 娼婦はそういった。馬車の幌の中に向けて。

 聞き耳を立てている中の女たちにも、それは伝わっただろう。

 背後で身じろぐ気配がクライフにも伝わってくる。


「ありがとう」


 クライフは例を言う。


「釣りだよ、釣り」


 娼婦は苦笑交じりに、しかし素直な感じで微笑む。


「無理するんじゃないよ」


 クライフは頷いた。しかし彼女のその言葉は馬車の中に向けられたことだろう。


「それじゃあな、若いの」


 巨漢もそう言うが、実はクライフのほうが年上である。

 これにも頷き、クライフは荷を膝に置き、二人を見る。


「それじゃあ、行きます」

「ああ、達者でな」

「また来たら夢心地にさせてあげるよ、よっておくれよ」

「だーめ」


 御者台に現れたヴェロニカがクライフの首にしがみつく。


「これ、うちらのだから」

「そ、残念だわ」

「…………」

「…………じゃあね」

「うん」


 二人の女は、暫時視線を交わし、頷きあう。

 クライフは無言で鞭を入れる。

 背後に残る巨漢と女を、ヴェロニカはずっと目で追っている。

 町を抜け、雨滴の大河に出ると彼らの姿も見えなくなり、彼女はクライフの首から腕を解き、御者台に座りなおし、遠く……北ではなくわずかに東へ目を向ける。


「ふぅ……なんか疲れちゃった」

「疲れるようなことをしたんですか?」

「女の戦い」


 ふむ、とクライフは首をひねる。


「そういうものなんですか」

「そういうものなのよ」


 クライフの膝に乗ってる包みを引っつかみ、彼女はほろの中に消える。

 しばらくすると、にぎやかなやり取りが聞こえてくる。

 それを聞かないように、クライフは前に集中した。

 馬は静かに、北へと進み往く。

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