第5話『鳳龍橋の戦い(1/2)』
第二話 『鳳龍橋の戦い』
*
緑葉から逃走を始めて、わずか。
早くも一行の足は遅れを見せ始めていた。
「ふぃー……」
膝頭に手をあて、肩で息をつき、顎が上がり始めているのはヴェロニカであった。
「ちょ、ちょっと待って」
いわゆる『仕事着』のまま脱出してきた彼女たちだったが、その急な脱出口の綻びは足元から訪れていた。
長時間山林を分け入るには、いささか厚さもしなやかさも持ち合わせていないただのサンダル履きである。月明かりがあるにせよ、慣れぬ夜道、腐葉土、路の道程、気力の消耗に合わせて体力も疲れと共に目減りしていた。
まとめ役のアンナも暑そうに胸元を広げて風を入れており、目を逸らすクライフはしゃがみこんで手を引くオリビアの様子を伺う。オリビアも後ろに続くエレナも、若さなのだろう。物怖じしない気力、体力共にまだ余裕がありそうだった。速度などを見るために肩を並べているイリーナも、歩きにくそうだが、意外にもケロリとした表情でヒョコヒョコと歩いている。
しかし、履物がみなサンダルであることから、靴擦れや豆になる心配もある。足元の装備は次の機会にでも整える必要がありそうだった。
「こんなことなら、調子に乗ってサービスするんじゃなかったわ」
息の荒いヴェロニカに肩を貸すエレナ。
「横になっても、たまった疲れは取れていないんですね」
「エレナ、おんぶー」
「いやですよ、重いし」
馬場まで急ぐ必要を感じ、クライフはヴェロニカの傍にひざを付く。
「ヴェロニカさん、体重はどのくらいですか?」
「へ?」
「あまり重くなければ、背負って馬場まで行きますが」
「そ、そんなの言えるわけ無いでしょうっ」
ヴェロニカは汗を拭って歩き始める。
「私とオリビア合わせたくらいですよ」
「エレナ、あんたうるさいよ」
首をすくめるエレナ。
「……歩く元気があってよかった」
「空元気も元気ですよ」
にこにこ笑うイリーナ。しかしクライフは逆に気を使ってしまう。
「おかげんは?」
「そんなに気にするほどじゃないんですよ?」
ポンとおなかをたたくイリーナ。
「そうそう。別に病気じゃないんだから」
アンナも頷く。
「ねえ、騎士様」
「なんだい?」
「おんぶ!」
「オリビアだめよ、我慢」
「むー」
「してあげてもいいが、鎧の背中は痛いぞ」
苦笑交じりに立ち上がり、オリビアの手を引く。
歩みを再会した一行。
クライフは月を見上げる。
傾きはだいぶ進んでいた。時間稼ぎがどこまで通用するか分からない。気がつかないままですんなり行けるのでは、とかすかに希望するが、自分自身で即座に否定する。思うように行くことは、実に少ない。追い詰められているときは顕著だ。心の余裕がなくなるほど、希望的観測はその裾野を広げる。
先を進むこと、しばし。
路傍の石に腰掛けたヴェロニカが、足を組みサンダルを脱いでくるぶしのあたりを撫でている。
「靴擦れですか」
「赤くなっちゃってる。こんなことなら普段着に着替えたかったぁ……」
「そんなヒマなかったでしょ」
「とにかく――」
クライフは一息ついた。
眼前には林道からつながる街道が北に走っている。まだ日があるうちに疾駆した場所だ。昨日の今日でまた来るとは……などと、感慨に浸る余裕もなかった。
「あの騎士様」
アンナがやはり足元を気にしながら声をかけてくる。
「馬場というと、例の商人たちが外市を開くところでしょう?」
「ええ、商人たちが旅団を組む場所です。大規模な場所ですが……」
「ではこのまま街道沿いに?」
「追っ手がかかっていないとも言えません。できれば脇の小山を越えて行きたいところです」
するとヴェロニカが低く呻く。
「うぇー、まだ歩くのかぁ。普通の道で行こうよ」
「歩きやすいが遠回りな街道、見つかりにくく近道な小山越え。今は時間が惜しい」
「んー、しゃぁないか。で、どのくらい歩くの?」
クライフは北東の小山を指差す。
「今来た林道の、およそ三割り増し……くらいです」
「おんぶ」
「ヴェロニカさんの体重だと、鎧が食い込んで痛いですよ」
「――言うじゃない」
こめかみをひくひくさせるヴェロニカの足元に膝を付き、靴擦れの具合を見る。
「痛いようなら、手ぬぐいを裂いて皮ひもに巻くと良いでしょう」
クライフは懐から手ぬぐいを取り出す。
「ちょ、いいわよ。歩けるから」
足を通し、立ち上がる。そのままヴェロニカはオリビアの手をとって歩き出す。
「行くわよ」
アンナも肩をすくめ、イリーナもヒョコヒョコと歩き出す。
「………………」
エレナがクライフの背中をじっと見つめる。
「どうしたんだい?」
振り返るクライフ。気まずい笑みでエレナは慌てる。
「え、その、なんでもないです」
そして先の彼女たちを追うように小走りに駆けていく。
「ふむ」
首を傾げつつ、後に続く。
一度だけ街道を緑葉の方へ望む。深夜の静けさの、しかし蒸す夜の道だ。
追っ手の気配は、まだ……無い。
さらに、起伏のある道だった。しかし、予想外に整った道だった。馬場から緑葉を目指していた時には感じなかったが、静かな中で黙々と進むと、少し違和感を感じる。
「どうしたの?」
周囲と、とりわけ丁寧に敷き詰められた石畳を気にするクライフの横に、いつのまにかアンナが並んでいる。
「いや……」
とは言うものの釈然としないクライフと、何か言いたそうなアンナ。
静かな山道に、石畳を歩く六人の靴音が染み入る。
「ここはね」
アンナが独り言のように呟く。
「大昔からある、自然の神様を奉っている祠への参道なのよ」
小高い山頂を指し示し、アンナはくすりと笑う。
「もともと、私たちが出てきた抜け穴の出口の祠が本物だったらしくて、緑葉の街の外周を覆う壁の工事の際、建材の運搬の邪魔になるからという理由で二十年位前に移されたのがこの山なの」
「あの祠ですか」
「ずいぶん罰当たりなことをするんだと思ってたけど、抜け穴を作るために人の流れを離れた場所に移したかったんでしょうね。今思えば、だけど」
「……自然の神様、ですか」
「この国の神官の言う神様なんて存在は見たこともないし信じてもいないけれど、国教が広められる以前からある自然の神様の教えは、このあたりの人間にはそりゃぁもう根強く信仰されてるわけですよ」
「昔は農業地域だったそうですしね」
「今でもそうよ。東と西には私たちの胃袋を補う畑が広がってるんですもの。ちょっと北に行くとブドウ畑もあってワインなんか造ってたりもするけど」
「あいにく、酒には疎くて」
「なんかそんな感じですね。……まぁその自然の神様の教えというのが、種を撒く時期やら天気の見方とか、農夫たちの生活に根ざしたものなんですよ。けっして豊作の神様じゃないですが、土を作物が食べ、作物を人間が食べ、人が死んで土に還る輪っかの流れだったかな。そんなことを司っていたらしいですよ」
作物が採れる自然の大きい流れの神様。
クライフは隠し通の鍵となる磁石を取り出す。円形の模様と、その周囲に彫られたいくつかの模様は、もしかしたらそれらを表しているものなのかもしれない。
「アンナさんは、詳しいんですね」
「まぁね。もともと農村の出なんですよ、私」
クライフは返答に困った。
生まれも育ちも勝手に緑葉の歓楽街と決めていた自分の浅慮が原因に他ならない。
「小さいころは、よく葉脈を通ってたっけ」
「葉脈?」
「このあたりは緑豊かで、北に流れる『雨滴の大河』からの支流も多く流れてきているし、昔から大地に落ちた大きい葉っぱの平野って呼ばれていたの」
両手を広げて大きさを表すアンナ。子供じみたしぐさとあどけない表情は、子持ちの彼女を幾分にも若く見せる。
「だからあの街も『緑葉』なんて名前になったし、昔からある支流をまたいでそこかしこに沢山ある道のことを、葉っぱにあるスジ、葉脈っていうらしいけど、それを意識して当ててるわけ」
「なるほど」
「昔の客で博学なセンセイが、葉脈の働きについてあれこれ言ってたっけ。もう覚えてないけど。要は人間の血の道みたいなものなんだってさ」
植物も生きてるんだね、と、アンナは笑う。
クライフも話すことで気が紛れればと付き合っていたが、なかなかどうしてアンナは話すのが上手だった。客商売の人間とは、多くはこのように話し上手なのだろうか。
「お供えを持っていくのが私の役目だったけど、よく迷わずに村からここまで来れたものね。いまはもう、うろ覚えだわ。新しい道も出来てるだろうし、無くなった道も……あるんだろうし」
「帰れない故郷か」
アンナにも事情があって、やむなく村から緑葉に流れたのだろう。その経緯には安易に立ち入ることは許されないと感じ、クライフは同じく故郷に思いを馳せる。クライフの『帰れない故郷』との呟きに、アンナも懐深い光を目に浮かべる。
「男の子だ女の子だって意識が出るころに『夜霧』に来たからねえ。下働きから始まって、稼ぎ頭になって、オリビア産んで、引退して、館の主になって……。もう二十とウン年かぁ、遠くまで来たんだなぁ」
「私がちょうど二十歳なので、生まれる前からの……――」
言いようの無い表情で睨まれ、クライフは即座に口を閉じた。
「……月が綺麗ですね」
「そうね」
数呼吸、気まずい雰囲気が流れ、アンナが思い出したかのように続ける。
「そっかぁ、ヴェロニカと同い年なんだ」
「私がですか?」
「ええ」
クライフは前を行くヴェロニカをちらりと見る。
「同い年だったのか」
「イリーナがその一個上、エレナが十四、オリビアはこのまえ六つになったわ」
「……やはり、女性というのは実際の年齢よりも上に見えるものなんですね。私にもすぐ上の姉がいますが」
「女の子は成長が早いからそう感じるのよ。私なんかは歳より若く見られるんだけどね」
「おいくつなんですか?」
言いようの無い表情で睨まれ、クライフは息を呑んだ。
「……今夜も蒸しますね」
「そうね」
数呼吸、気まずい雰囲気が流れ、再びアンナが思い出したかのように続ける。
「この先に、ちょっとした屋根付きの休憩所があってね」
指差す先は、月明かりも届かない黒い木々。その先に、あるのだろうか。
「オリビア作ったときの旦那と、よく逢引してたっけ」
「『夜霧』からだいぶ離れていますが?」
「旦那が馬持ってたからさ」
夜霧まで馬で迎えに来れるということは、相手はおそらく領地を持たぬ下級貴族だろう。商人クラスでは運搬用の荷馬までしか許可されていないはずである。街中での乗合馬車では、街の外、この先にある休憩所まではさすがに来れないだろう。
「立ち入ったことを聞きますが」
「なぁに?」
「その男性と一緒にはならなかったのですか」
アンナとクライフの視線が絡み合う。様々な色が浮かび、疑問と逡巡と首肯が顔に浮かぶ。
「上手くいかないものなのよ。確かに、そうなっていればオリビアの将来も、ある程度は安心できたのかもしれないけれどね。ちょっと、私にはダメだったわ」
アンナの苦笑には、クライフには分からない万感の思いが込められているのだろう。
「いやほら、愛人ってのはいろいろあるじゃない」
囁くように言うアンナ。
ハっとしてクライフは、ヒョコヒョコ先を行くイリーナに目を向ける。
貴族の愛人、愛妾。生まれた子供、生まれる子供の立場。
「イリーナやアンナや、他の連中の面倒も見なきゃいけなかったしね」
このときばかりは多少老けたような印象でため息をつく。
「もう両親はいないし、こんな生き方をしてるから高貴な生活も肌に合わないし。……まぁ、今の生活が、誰かさん曰くだけど、適度にぬるま湯で安穏としてたから」
アンナはもうひとつため息をつく。
「オリビアは普通の生活を、と思うけどね。我侭かな」
「そんなことはないですよ」
「だよねー」
嬉しそうに目を細めるアンナ。彼女の表情が一番やさしそうに緩んだと思ったとき、クライフの耳に水のせせらぎが届いてきた。
「支流ですね」
クライフも明るいうちに駆け抜けた支流で、浅く降りられる川辺に低い橋がかけられている。
「あ、川ー」
先でヴェロニカが川辺に下りようとしていた。
「ヴェロニカさんちょっと」
注意しようとしたクライフ。しかしアンナが手を出して彼を制する。
「ちょっと休憩にしましょう。でないとみんなもたないわ」
確かにそうかもしれない。
そのときクライフは自分も疲れてると自覚し、一度背後を振り返って、頷いた。
*
……いったいどこでこうなったのだろう。
川辺で水面を撫でる風に一息ついていたとき、誰かが靴擦れを水で冷やしていたのは漠然と覚えている。クライフ自身、水で湿らせ絞った手ぬぐいで顔を拭って己の疲れを実感として味わっていたときだ。
不意に誰かが汗でべたつくからと、クライフ同様に手ぬぐいを絞り、腕や首筋を拭いはじめたのも覚えている。
そのすぐ後に、「どうせなら水を浴びて汗を流そう」と言い始めた者がいた。クライフはそれを言った人物がヴェロニカだったことは覚えていた。
「追っ手の心配があるので、できればすぐに動ける格好でいてください」
「大丈夫、すぐ済むから」
と、これはアンナであった。
緊張を緩めなければ上手くいかないが、緩みすぎるのは……と、クライフはもう一言注意を促そうとした瞬間、オリビア始めヴェロニカがすとんとその服を脱ぎ落とす。
「……!」
クライフは月明かりに照らされた彼女たちの肢体から目を逸らすべく、即座に後ろを向く。
「もう昨日からの……そろそろ一昨日か。ほら、一仕事終わってからこっち、汗も流してないのよ」
ヴェロニカの声が、衣擦れと共に聞こえてくるが、クライフは慌てていたせいかよく理解していなかった。ただ、ばちゃばちゃという水音が聞こえてきたので、もう言っても無駄なんだなという諦めがこみ上げるのみだった。
「オリビア、深いところがあるからそっち行っちゃダメよ」
衣擦れの音は続く。
「騎士様は浴びなくてもいいの?」
「うぁっ」
横合いから視界に入ってきた二つのふくらみの白さに、頓狂な声を一瞬上げてしまう。
「あああ、アンナさん、いいですから」
「あらそう?」
肩にひじを置き、からかうように、目を逸らすクライフの耳元に息を吹きかける。
「――――そこの岩陰にいます。何かあれば声をかけてください」
スっと身を引いて岩陰に歩いて行くクライフ。林道に気を配るにはちょうどいい場所であろう。
「んー、ふられたか」
アンナが残念そうに呟き、川辺で顔を洗う娘の下に向かう。
「おかあさん?」
「なんでもないわよ。ほら、髪の毛すいてあげるから、後ろ向いて」
岩陰で溜息をつきつつ、クライフは聞こえてくる声を何とはなしに聞いていた。
汲み直した水を飲み、一息つく。
気の高ぶりも落ち着くと、疲れと空腹が目立ち始めてくる。手持ちの糧食で食事にする頃合かもしれない。
逡巡するクライフ。
男の足で二時間も歩けば馬場。あえて近道をしたのなら、休息は必須なのかもしれない。
どれだけそうしていたのだろう。
じっと林道を睨んでいたクライフだが、そんな彼を横合いからじっと見詰める顔に気がつく。
「大丈夫?」
「――アンナさん」
もしやと思って彼女を見るも、ちゃんと体を拭いて服も着ている。
「そんなに露骨に安心しなくてもいいじゃない」
「ですが」
この若い騎士にしては珍しく、年相応の狼狽だった。
「女の裸でうろたえるようだと、騎士なんて務まらないんじゃない?」
「私はまだ……。いえ、その――」
言い淀むクライフに、底意地悪い勘が働く。
「ねえ、あなたもしかして、まだ……とか」
「うっ」
暗い中でも耳まで赤くしている様子が手に取れる。
ここにきて、アンナは等身大のクライフという男に初めて出会ったような気がした。
「なにこそこそ話してるのよ」
ひょっこりとアンナの反対側から顔を出したのは、同じようにその瞳にいたずら気を浮かべているヴェロニカだった。クライフは声をかけられた拍子に、彼女の冷水でツンと上向きに緊張した乳房をしっかりと目に入れてしまっていた。
気をとらわれていたのも数瞬、すぐに顔を逸らすも、ニヤニヤとするアンナが覗き込んでくる。反対側を向こうにも、意地悪そうに喉の奥で笑うヴェロニカの気配にそれも叶わない。
「ほんとだ、こりゃ間違いなくまだだわ」
「はいはい」
アンナがパンパンと手をたたき、ヴェロニカの肩に手をかける。
「それくらいにしておきなさい。体を拭いて、風邪ひくわよ」
「あ~い」
それほど絡まずに彼女は川辺へと踵を返す。
内心ほっとしたクライフは、そんな自分に活を入れるように闇夜に睨みを利かせる。
「騎士様は童貞であらせられますか」
「うっ」
活を入れた気合は数秒と保たなかった。
「なんなら、エレナの初めての相手になる?」
「ア、アンナ姉さん!」
押し殺したような悲鳴を上げたのは、すでに着替えを済ませたエレナであった。
「そんな、騎士様にそんなこと、恐れ多いです!」
「騎士様だって男なんだし、女としようってんならそりゃ普通に出来るし、したいとも思うでしょうよ」
「でもそんなこと」
「クライフ様は卑しい娼婦に劣情を催すことなんかありえませんかあ?」
首に腕を回して笑いかけるアンナ。しかしその目は紳士な色をにじませ彼を覗き込み、彼の返事を促すように小首をかしげている。
「確かに、俺も男です。そんな気分になることもあります。しかし、この数年は女っ気の無い場所で訓練の毎日でしたし」
「同僚に誘われたりはしなかったの?」
「同僚ですか」
思い起こすのは、北方辺境区の老総長。
「あいにくとお歳を召された方でしたし」
「おじいちゃんだと、気は利くけど若者の気持ちには疎いかもねえ」
思い返しても、訓練生時代はその余りある活力の総てが内なる力と剣に注がれていた。騎士になるものたちの多くは家の力と面子に恵まれていたし、商人上がりのクライフを誘って中央領都の歓楽街に誘うものたちもいなかった。もっとも誘われていたとしてもクライフにそこまでの金銭的余裕も無かった。身の回りには女っ気も無く、唯一女といえば、キーリエ直属の親衛隊設立に向けて鍛えられていたキアラだけであった。
キアラとは純粋に力を比べあった仲である。しかしそのような目で見たことがないと言えば、おそらく嘘になるだろう。だがそれ以上踏み込ませない何かがお互いにはあったと思う。
「……そうですね」
クライフは呟く。
「この一件が片付いて、落ち着いたらですね。落ち着いたら女性に目を向けてみようかとおもいます」
じっと彼の目を見つめて、「ふむ」と頷く。アンナは口元を綻ばせる。
「じゃあ、そのときに考えてね」
「ええ」
「ああ、別に私でもいいのよ?」
背中に押し付けられる双丘に、クライフが苦笑する。
「ええ、まあ、その」
「年増は不満ですか。そうですか」
「そんなことは」
「んー、まあいいわ」
アンナは体を離しつつ頷いた。
クライフは一息つき、もう一度辺りを見回す。
休憩によって、皆疲れを自覚し始めている。
「今夜はここで休みましょう」
丘陵から闇夜の街道を臨む。
追っ手は無い。
そう信じて。
*
それはおそらく予感であったと思う。
軽く目を閉じていたと思ったら、もう月の位置がだいぶ先の位置にまで到達していた。一瞬に感じたが、どうやらしばらく寝ていたらしい。周囲は静かで、娼婦たちは河原の大岩に背中を預けるようにして固まって寝ている。
自然に目を開けたとき、頭はスッキリと冴え渡り、鼓動も落ち着いており、体の筋肉はしなやかに目覚めている。
自然な動作で立ち上がる。
クライフは鎧鳴りに気をつけながら、一挙動で立ち上がる。
凪いだ水面に立っているかのような感覚に、クライフは周囲に気を這わせる。
自分は一体、何を感じて目覚めたのか。
山道に戻るための坂を駆け上る。
シンと静まった夜の森、河原の水音のみがかすかに耳に届いてくる。
……いや。
クライフは山間の向こうにかすかに北へ伸びる街道に目を向けた。
黒い大蛇のような木立の影から垣間見える街道に、ポツンと周囲を焼く光点が、ひとつ、ふたつ、……よっつ、現れる。距離は遠いが、クライフたちが迂回した街道を、たいまつを持った騎馬が四騎、北上している様子である。
「追っ手か」
つぶやくクライフ。
呟いたそばで首を振る。
追っ手ならばもっと数は多いだろう。
配置完了間近のバレンタイン領軍の動向を探るための斥候を兼ねた、先遣隊だろう。グレイヴリィの雇った傭兵団も、娼婦たちが未だ緑葉の街にいるものと思っているはずだ。
「しかし、厄介だな」
このまま行けば、先の鳳龍橋で鉢合わせになり、良くて乱戦、悪ければ囲まれて全滅となる。
この事態に気がついたことに、クライフは感謝した。
自分の第六感もあながち捨てたものではないらしい。極端に緊張した作戦に、感覚が研ぎ澄まされているためだろうか。
このまま急いでも、馬相手では鳳龍橋を先に越えることは不可能だろう。遅くとも夜明け前には鳳龍橋に彼らは陣を敷くだろう。時間が経ち、彼らの仲間が集まり始めてしまえば、南方地域にクライフたちは孤立してしまうことになる。
クライフは一度、河原を振り向く。
娼婦たちが疲れた様子で寝息を立てている。
月は明るく、ゆっくりと動いている。
川から流れる湿った空気を大きく吸い込み、クライフは静かに気合を入れる。
眉を引き締め、静かに河原に下りる。
相変わらず、娼婦たちは良く寝ている。無理もないと、彼は苦笑する。彼女たちのためにも、今は行動しなければならない。
荷物の中から、弓と矢を手に取る。
「ん……」
母の傍らで寝返りを打つオリビア。
クライフは寝返りではいでしまっているオリビアの毛布を掛けなおす。
相手の数は四人。
鳳龍橋に陣を張ろうとする彼らを倒さねばならない。
クライフはオリビアの頭をそっとなでる。
そして立ち上がり、大きく深呼吸をする。
落ち着いた身体に、緑葉での戦いの緊張が去来する。
彼は腰の剣に手を沿え、弾かれたように走り始める。
一つの矢となった騎士が、一気に山道を北へ駆け抜けて行く。
先は中南方の境、雨滴の大河の支流をのぞむ大橋、鳳龍橋。
夜気は冷え、クライフの心は熱くも――冷めていた。
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