第4話『孤剣、南へ(4/4)』

   *


 広い街とは言え、さすがに身重を抱えた大所帯。早朝からの脱出であったが、街の北、雨滴の大河からの支流を引き入れる水門近くまで、実に昼下がりまで時間を浪費していた。

 意外にもイリーナの足は危なげなく、最年少のオリビアも実に軽快だった。睡眠不足のアンナとヴェロニカが体力と集中力的に危なかったが、しっかり睡眠をとっていたエレナが助けるように彼女たちを補佐している。穏便に、速やかに事が進むと思ってはいたのだが、緑葉の街を占拠した傭兵団の手際が良すぎたのだろうか、無数の死体の上に成り立った密やかな監視が成立しており、そこかしこに立つ見張りの監視を潜り、なおかつ延焼しつつある地域から迂回していたため、目的の水門まで思うように進めなかった。

 そしておそらく、時間が経過する過程で目的のひとつである『夜霧』の娼婦が逃げているとの情報も上がっていることだろう。クライフたちが傭兵団の裏を書くには、やはり護衛であるクライフの存在の秘匿と、速やかな水門隠し通路からの脱出がカギとなる。

 傭兵たちにとって、殺された味方の死体は焼死体である。殺され方の特定が困難であるように、燃えつつある娼館の中に放り込んだクライフの判断である。熟練の傭兵が数名死んでいる事実だけが残り、誰が何人でどのように動いたか判らなくするためだ。大人数で動いている、隠れていると判断されるならば、裏もかけるということになる。

 だがさすがに、街を占拠し終わった傭兵たちの動きは落ち着いている。

 住宅街や南の歓楽街の一部は燃えたが街の中枢や倉庫街は無傷であるし、自警団はほぼ壊滅状態だが、話のしやすい商人たちやバレンタイン領事は生き残っている。命と引き換えに無難で速やかな補給と陣営が築かれて行くだろう。


「こんな状況でもなければ、一度は遊びに来たい街だったんだがな」


 水門から街を流れる運河への物資搬送を担う倉庫街の外れに潜みながら、食事と休憩を兼ね、一行は路地を伺いながら一息ついていた。

 倉庫の石壁にもたれながら、四人の娼婦は額の汗を拭いながら疲れたような顔をしている。元気なのはオリビアだけである。


「ねね、どこまで行くの?」


 目を輝かせて聞く彼女に、クライフは困ったような顔を向ける。


「街の外さ」


 何度目の答えだろうか。


「お母さん、街の外ってなにがあるの?」


 矛先はアンナに向けられる。


「外って、それは……」


 応えに困るアンナに、エレナが助け舟を出す。


「外には、ほら、大きな川があって、もっと向こうには大きい山があるのよ」

「……山?」

「そう。龍の鱗みたいな山がね。すごい大きいのよ?」

「見たいなぁ」

「龍鱗山脈を越え、領都までどのくらいかかるのかしら」


 オリビアの頭を撫でながら、ヴェロニカがため息混じりに呟いた。


「徒歩で十日、女性の足なら二週間といったところでしょう」


 クライフが答える。


「子供の足だともっと、か」

「身重の私だと、もっともっとですねえ」


 イリーナがクライフに「御迷惑かけます」と頭を下げる。


「しかし、さすがにこの状態ですから馬の用意はしてあります。出来うるなら、緑葉北の馬場を抑えられる前に脱出、確保しておきたいところです」


 当初の予定では護衛するのはイリーナ一人と思っていたため、大所帯となった今、クライフは馬場にある鞍つきの馬ではなく、馬車を確保する必要があるな……と思っていた。


「ところで」


 と、クライフはアンナに伺う。


「身重の場合、馬に乗るなどということは、やはりお腹に悪いことなのでしょうか」

「………………」

「あの、アンナさん」

「あ、ごめんなさい」


 アンナは緊張の中にあったが、瞬間、プっと吹き出し、笑い混じりに謝る。


「騎士様が突然そんなこと聞きだすものだから、つい……」


 そんなに変なことを聞いたのかと、クライフは首をかしげる。


「もう安定してるとは思うけど、激しい馬に乗せたら流れる可能性はあるわね」

「さすが経産婦、年の功ね」


 尻をつねられるヴェロニカの押し殺した苦鳴を聞いていないかのようにアンナはクライフに頷く。


「そうか、じゃぁやはり馬車が必要か」


 この先の水門付近を速やかに突破するには、やはり夜を待つしかないか。時間と可能性が、心を急かす。


「日が落ちるまで休みましょう。その陰で隠れ、静かにしていてください」

「き、騎士様はどちらへ?」


 心配そうなエレナの頭を撫でながら、クライフは立ち上がる。


「偵察」

「あたしも行くっ」

「あんたはダメよ」


 オリビアを自分の胡坐の中に抑え付けながら、ヴェロニカが疲れたため息をつく。


「無茶しないでね」

「お気をつけて」


 アンナとイリーナの言葉を背に、クライフは肩越しに手を挙げ応え、軽快に路地の奥へと消えていった。


「ねえ、あの若いのどう思う?」

「そうねえ」


 クライフの姿が消えると、壁にもたれたままヴェロニカはアンナに聞く。四者四様に気になっているのか、みなの視線がアンナに向くことになる。


「こっちの事情が事情だし信用するしかないけれど、彼を信頼するのは早いと思うわね」

「でも、助けてくれましたよ」


 エレナは思ったことを口に出す。


「助けてくれた、か。でも、落ち着いて考えてみるとあの若い騎士、手際が良すぎないかしら」

「あっという間に五六人をバッサリだったしね」

「一人が戦って勝てるような相手じゃなかったと思うし、ね」


 人と接し、自らの安全も自らで守る基本が骨身に染みているアンナの独白であった。人を殺す技、戦う業についてはまったくの素人だが、雰囲気というものを如実に感じ取ると、あの赤い布を左腕に巻く一団は、目的を冷静にこなせる達者であると推察できる。

 そんな彼らを一網打尽に斬り伏せたのが、あの若い騎士一人である違和感は、やはり消せ得ない。


「でも」


 不安で考え込む彼女たちに、イリーナが顔を上げて呟く。


「騎士様は、あの人達を倒したことで、ひどく顔色を悪くされていました。きっと人を手にかけたのは今日が初めてのことだったのだと思うわ」

 オリビアの頭を撫でて、イリーナは思案気に目を伏せる。


「良い人かどうかは分からない。けど、きっと悪い人じゃないと思う」

「そうね」


 ヴェロニカも頷いた。


「でも、これから命を預けられるかどうかは別問題だし」

「ごめんね、みんな」


 イリーナは目を伏せたまま呟く。


「私がバレンタインさまのことを受け入れたばかりに」

「何言ってるのよ」


 アンナの言葉にヴェロニカも頷く。


「そうよ、欲に目が眩んだ貴族たちが悪いんだから。南の侵略だって、この街が欲しいからに決まってるんだし。イリーナが気にすることは無いのよ、どんな場合だって、やっちゃった奴らのほうが悪いの。理由こねて人のせいにするのが上手いのよ、あいつらは」

「ヴェロニカ姉さんの貴族嫌いも筋金入りですよね」

「エレナだってあんなヤツら客にとったら、一晩でイヤんなるわよ」

「そうかなぁ」

「未通女ちゃんにはわからないわよ」


 オリビアはアンナを見上げて言う。


「オリビアは?」

「あんたはもうちょっと大きくなったらね」


 よく言われている言葉なのか、オリビアは母の言葉に詰まらなさそうな顔で応える。


「しかしまぁ、腕っ節が強くて、私たちみたいな娼婦にも礼儀正しいなんて、騎士なんてつまんないだけの鼻っ柱の高いやつらばかりだと思ってたけど、ちょっとは期待してもいいのかもしれないかな」

「そうね、騎士らしくないと言えば騎士らしくはないわね」


 肩を並べて笑いあうイリーナとヴェロニカ。さすがに年代が同じだと、仲間意識、家族意識、姉妹意識も強いらしい。砕けた物言いにも同列の親しさがこめられている。


「でも、領主さまの子供のこと、だれが漏らしたのかしら」

「おおかた、女との枕語りで漏らしたやつがいるのよ」


 彼女たちの生活で、情事の後の枕語りで情報を得てしまうことは、本位不本意あわせてよくあることである。後腐れも無い第三者の、しかし肌を接した女への不思議な安堵感は男の口を良く滑らかにさせる。


「人の口に戸はたてられないか」

「ヒミツなんて、作った時点で漏れることが前提よね」

「この数年、よくやったとおもうわ」

「生活的には程好くラクできたんだけど、もう終わりかぁ」


 努めて明るく言うが、生活費云々は別として、根無し草になる可能性に不安はあった。周囲の人間が思っているように、体ひとつで出来る仕事と言うわけでは、決してない。


「でもさ、この街から出たらこっちの騎士団が出張ってるとこまで行けるんでしょう? だったら安全じゃないのかな、ほら、篭城してるって言ったって傭兵団がひとつでしょ、騎士団が取り返しにかかったらすぐに戻ってこれるわよ」

「ヴェロニカ、どっちなんだい」


 不安が言葉でもれているのだろう。同じだけの希望も言葉で漏れ出しているのかもしれない。


「あ、騎士様戻ってきたよ!」


 目ざといオリビアが声を上げる。

 一様にハっとして口をつぐむ彼女たちの下にやってきたクライフは、いささか緊張した面持ちで各人を順に目で確認する。


「どうしたの?」


 ヴェロニカの言葉にクライフは頷く。


「いくつかの情報を得ました。街の住人はおよそ全て敵と考えるほうが良いでしょう」

「どういうこと?」

「アンナさん、落ち着いて聞いてくださいね」


 名を挙げたのはアンナだが、全員に向けられた言葉であることを各々が感じ取っている。


「懸賞金がかけられています。額の大小はしりませんが、生死問わず……『夜霧』の全員が対象になっています」

「そんな!」


 アンナはオリビアを抱きしめる。


「こんな子まで……なんて酷い」

「保身に走った人間は、なまじ敵よりも始末に終えないからねえ。親切顔で近づき、一服盛られたらオシマイ……だもんね」

「わ、私が、賞金首に……」

「落ち着きなさい、エレナ。大丈夫、大丈夫よ……」


 クライフは続ける。


「加えて、北の大門からの騎士団侵攻を想定した陣が組まれつつあります」

「……つまり、分かりやすく言うと?」

「敵の主力が街の北側に集中してるということです」

「……秘密の抜け穴って北にしかないの? 水門は他にもあるんだし」

「北の水門のみです。他は既にこの緑葉の自警団に明らかになっています。敵の情報に落ちている可能性は充分に考えられますし、この状況、人数では水の壁と堀を泳ぎ渡るのは至難と思われます。東にも西にも、移動する時間が惜しい。知られていないものは、バレンタインさま始め領主首脳が知るのみとされている、北の水門の抜け道だけです」

 クライフは手持ちの糧食の心配もしている。馬場で補給が出来なければ、脱出後も龍鱗山脈を越えることが出来なくなるおそれがある。


「余裕があり、泳げる者だけだったらまだ迂回も出来るのでしょうが……」

「ごめん、あたし泳げない」

「あの、わたしも……」

「この子も、ね」


 ヴェロニカ、エレナ、そしてオリビアを指すアンナが苦笑する。


「お腹の大きい人を泳がせるわけにも行きませんしね。体が冷えたら、たいへんだ」


 クライフはそこまで言うと、一息ついて腰を下ろす。

 壁に寄りかかる際に、鎧が重そうな音を立てる。


「日が暮れ次第、水門付近の見張りを倒し、脱出しましょう」

「ねえ、水門の抜け道って泳がなくても大丈夫なの?」

「大丈夫です。人一人が余裕をもって通れるくらいの通路です。隠し方が巧妙ですから、まずバレてはいないでしょう」

「王侯貴族さまはそういったことが好きだからねえ。我が命可愛さにそういったものが城にはゴロゴロあるって言うけど、ホントなの?」

 興味津々と言ったヴェロニカに、クライフは苦笑気味に答える。

「新米の騎士に知られているくらいのものは、ヒミツの抜け穴とはいえないでしょう」

「それもそうか。……ふぁあ……」


 ヴェロニカが大きなあくびをする。

 つられてアンナも口元を手で隠しつつも大きくあくびをする。


「少し気が抜けたせいか、眠気が……」

「私たち、そういえば寝てないもんね」

「あのバカ息子と一晩みっちりしまくったからねえ……。あ、そういえばアイツは無事なの?」

「あの男性ですか? 見張りを倒した後、うまく窓から逃げていれば無事なはずですよ」

「そう、よかった」


 安心した顔のヴェロニカに、イリーナが微笑みを漏らす。


「なんだかんだ、お得意さまだったしね」

「情なんて沸いてないわよ?」

「金払いは良かったんだけどね。貯めてた金貨も、夜霧と共に業火の中、瓦礫の下かなぁ、今頃は」


 アンナは呟く。


「げ、ってことは無一文なわけ?」

「手っ取り早く持ってこれる分は持ってきてあるケド」

「私もいただいた宝石類は身に着けたり、持って来ていますわ。箱ごとはさすがに重くて嵩張るのでエレナに怒られましたけど、売れるところがあれば大丈夫かと思いますわ」

「私も領都から軍資金は預かってきています。旅の間の分は、どうか御心配なく」


 一人が五人に増えはしたが、充分すぎるものをバレンタインには与えられている。


「もちろん領都まで金銭が使える場所ばかりというわけにはいきませんが」


 野宿も考慮のうち、ということだ。

 娼婦たちの顔に心配そうな影が差す。夏場とは言え、野営にはつねに気を使うことが多い。

 一人オリビアだけは非日常に楽しそうな予感を抱いているのか、目を輝かせている。


「数刻、休みましょう。見張っていますから、どうぞ横になってください。雑穀の藁巻きが束になっていますから、その上で寝てください。体は冷やさないように」


 クライフの指示に、女性五人は素直に従った。

 物の数分で、静かな寝息が聞こえてくる。恐らくはオリビアのものだろう。

 他の四人も目を閉じて横になっているが、呼吸と気配で起きているのが分かる。

 ――寝られるわけは、無いか。

 クライフは明り取りの窓辺に立ち、外を伺いながら思う。

 体は疲れていても、気持ちの高ぶりや不安はそうは隠せない。普段寝ている場所でもない。


「急がなければ」


 焦る気持ちを抑え付け、クライフは見張りを続けながらひとつ、静かに息を吐き出した。

 ため息にならぬよう、そっと。


   *


 黄昏時まで、あと少しという頃合だった。

 何度か寝返りを打つ娼婦たちの横で、クライフは丁寧に血脂を拭い落とした長剣を腰に差し、暮れ行き、暗さを増す中ですっくと立ち上がる。

 オリビアを抱きかかえるように目を閉じていたアンナの傍らに寄り、跪く。


「そろそろです」


 一度声をかけるだけで、アンナは目を開ける。


「寝られましたか?」

「駄目ね。疲れてはいるんだけど」

「気が張っているせいでしょう。でも、目を閉じ横になるだけでも体力は回復します。……起き上がれますか?」

「うん、大丈夫……。あ、その、大丈夫です」


 アンナをオリビアごと起こし、クライフは頷く。


「無理に言葉遣いを気にすることはありませんよ」

「でも、そんな……」


 言いよどむアンナ。クライフは隣のヴェロニカの肩にも手をかけて揺り動かす。


「……ん、起きてる」

「疲れは?」

「少し寝られたかな。でも、なんかダルい」


 ヴェロニカは少しクライフを伺い、眉を寄せて文句を言う。


「私には手を差しのべて起こしてくれないの?」

「あ、いえそんなことは」


 慌てて抱え起こすクライフ。


「こらヴェロニカっ」

「ふふふ、私は別に騎士様だからって気にしないだけよ。だってこのくらいベッドの中だったらアンナお姉さんだってするでしょう?」

「そりゃぁ、するけど……」


 ――するのか。

 クライフは内心、娼婦と言う職業の側面を覗いた気がした。


「昔の話よ」

「昔からのお客さんから、よく『アンナさんはもうお客をとらないのか』と聞かれますわ」


 軽く上体を起こしてイリーナが声をかけてくる。


「……よっこらしょっと。ふう。まだまだ現役でいけると思うのですが。私が男の人でしたら、全てを捧げてしまうかもしれません」


 イリーナの言葉にアンナは困ったような顔を向ける。


「昔の話よ、昔のね」

「体の調子はいかがですか?」


 クライフがイリーナを抱き起こしながら言う。


「ちょっと背中が……。でも、大丈夫です」

「では脱出しましょう。エレナさんも起きてください」


 クライフは、エレナのことを揺り動かそうとして、その手を止める。


「………………」


 少女と目が合っていた。

 すでに起きていたエレナは、少し期待した目でクライフを見ていたが、彼が手を差し伸べようとしなかったので、むくりと素直に起き上がった。


「……騎士様?」


 イリーナがクライフの鎧のわき腹をつつく。


「なんでしょう」

「鈍感はいけませんわ。皆に優しくするなら、仲間はずれを作っちゃいけません」


 良く分からず首をひねるクライフ。


「せっかく起きていて、騎士様に抱えられる皆をうらやましそうに見ていたのに、エレナがかわいそうですよ?」

「え、そのぅ」

「わ、私別にうらやましそうになんかっ」


 クライフは立ち上がる。


「……さ、さぁ、行きましょう。少し歩けば、外壁沿いに出ます」


 今は闘争への気迫を溜めるとき。

 頭を振り、腰の長剣を意識する。

 初陣初日、未だ血は流れる運命にあるのか。

 それからしばらく。

 少し寝ぼけ気味のオリビアを抱っこしたまま、アンナは夕闇に落ちる北の外壁沿いの商館影に身を潜めている。

 彼女のすぐ横には、身重のイリーナ、そしてエレナが身を寄せ合い、ヴェロニカは一行のしんがりとして後方を伺いつつ不安そうにそわそわしていた。

 クライフはそんな彼女たちを見、そしてアンナの肩の向こうから水門付近を伺う。

 夕焼けの名残に浮かび立つ人影は二人。長槍を構えており、おそらくは厚手のなめし皮を張り合わせた鎧を着込んでいるのが見て取れる。その腕には、布らしきものが巻かれている。おそらく、赤黒い色をしているのであろう。

 彼らは引き入れられる水門付近に立ち、夕闇迫る緑葉の目抜き通り脇の支道を南に向かい、注意を走らせている。辺りは静かで、水門から流れ来る水のサラサラという音が聞こえてくる。

 クライフは夜霧を襲った連中から奪い取った弓を取り出す。弦を取ってひねると、折り畳めるようになっているらしく、携帯に便利として拝借したものだった。

 ここから弓で速射を以って二人を倒すことを想定してみる。

 距離はおよそ三十歩、駆け寄って呼吸二つ、ないしは三つかかるほどだ。

 打ち込む隙の大きい革鎧の相手、二人。

 時間がたち、設置されたかがり火に火を入れるときが狙い時か。

 この距離で致命傷を与えられるかどうか、自信は無かった。

 弓を牽制で以って抜き打ち、駆け寄って剣で討ち果たすか。

 逡巡は顔に表れる。

 発見され、呼子笛などを吹かれる時間を与えてはならない。


「あの……騎士様」


 控えめに声をかけるエレナに、構想を中断してクライフが顔を向ける。


「なんですか?」

「あの、その、あの人達も……するんですか?」


 彼女の言葉の意味を、クライフは即座に理解した。

 あの二人の見張りを殺すのか、この少女は聞いているのだ。


「実は少し悩んでいる」


 クライフはいくつか想定したことを伝える。


「斬り倒す場合、死体が見つかったり見張りが抜けた空白地帯が見つかると、北の水門から脱出したことが察知され、もしかしたら即座に追っ手がかかる可能性があります。当身などで気を失わせるならば、まだごまかしようはあると思うのですが、それは少し厳しそうですね」

「あのぅ、騎士様」


 次はイリーナだった。


「気絶させて、先ほどの納屋に放り込んでおくと言うのはどうでしょう。きっとあの人達も疲れているでしょうし、お仲間さんたちもきっとサボってどこかで寝ていると思うかもしれませんし」


 あの淡々と仕事をこなそうと連携する男たちの統率に、それほどの緩みがあるとは思えなかった。


「なにも殺してしまうことは……気絶させて、すぐに外に出ちゃえばわかりませんよ」


 エレナは殊更に拳をにぎってクライフに進言する。


「私も、できれば穏便に行きたいかな」


 ヴェロニカは呟く。


「殺しちゃったら、きっと街の人が八つ当たりされるよ」

「そうね。略奪と暴行に火がつくわね……」


 クライフは唸った。

 略奪と暴行にまで、気が回らなかったのは事実だ。救い出す娼婦たちのことばかりに気が向き、残される街の人間に対する意識が全くといっていいほど持ち上がらなかったのだ。

 ――未熟だな、クライフ。先生がいたらなんと言われるか。


「分かりました」


 クライフは頷き、弓を畳んで腰のベルトに差す。


「なんとか殺さずに無力化させます。皆さんは、あの二人が倒れたらすぐに水門まで走ってください。……無理はせずに」


 最後はイリーナにいった言葉である。

 生かして無力化するのは、殺すそれよりも数倍むずかしい。人数が増えれば言うまでも無い。

 騒がれず、速やかに無力化させる。

 深呼吸をし、クライフは皆を見つめる。


「あと少しで日が落ちきります。かがり火を出す瞬間に、仕掛けます」


 娼婦たちは頷いた。

 仕掛ける機会はすぐに来た。

 二人の傭兵が日が落ちきる前になにやら顔を寄せて話している気配がし、一方が民家から徴発したと思われる薪に油をかけ、火口から火をつけようと槍を下ろす。

 一番手前のアンナがふと風を感じたと思った刹那、クライフの体は脛を飛ばして疾駆していた。

 上半身を揺るがさずに奔り来るクライフは、鎧の板金を一切打ち鳴らすことなく接近する。

 南に注意を払っていた一人が彼の接近に気がつくこともなく、その顎先に体重と加速の乗った掌底の一撃を存分に喰らい、縦横に脳を振動せしめられ膝を折る。

 その一挙動の打撃と打倒音に、屈んでいた一人がすばやく顔を上げるも、倒れた同僚の方に気がそれ、その背後への体移動で視覚に回ったクライフを察知できず、その首に彼の二の腕が巻き付いたころにやっと敵としての存在に気がついた。


「げうっ!」


 槍にも呼子笛にも手を出そうとするが、すぐに離脱不可能な締め技への抵抗か、クライフの二の腕を引き剥がそうともがき苦しむ。しかし巧妙な重心移動と足技で組み伏せると、次第に男の動きが鈍くなり、十も数えぬうちに四肢をだらりとさせて失神する。

 彼が不意打ちにも負けずに正常な認識を保てていたら、腰の短剣を引き抜き格闘戦を挑めていたかもしれない。


「よし」


 クライフは伺っていたアンナに手を振って合図をする。

 そしてすかさず、打撃と締め技で失神する男たちを、彼らの着衣を巧妙に切り裂いたものできつく縛り上げ、猿轡をきつくはめる。


「死んでないの?」

「少なくとも、息はあります」


 ヴェロニカの問いに、男二人を縛り上げながら答えるクライフ。

 男たちの拘束が終わると、水門の開閉施設のある小屋に放り込む。


「縛るの上手いのね」


 アンナが感心したように呟く。


「騎士団のものではなく、近衛や羅卒が使う捕縛用の縄術です」


 へー、と、感心したようなため息が漏れる。


「さ、こっちです。急いで」


 手すりから水路へ降りる階段に向かう。水門から伸びる水路は穏やかな、しかし底深く流れの強いうねりを見せている。年少者や泥酔者の水の事故も多く、立ち入り禁止が徹底されている場所である。

 そのごみ処理清掃用の側道に降り立ち、クライフは水門の影に身を寄せる。娼婦たちも小走りに駆けてくる。


「おかあさん、ここは来ちゃ駄目なところだよ?」

「え、まぁ、そうね」


 完全に目が覚めたオリビアがアンナを叱るように言う。いつも言われている大人に対して優位に立てる瞬間を見つけた喜びが伺える。


「オリビア、今日のように悪いやつらから逃げるときは良いんだよ」


 クライフは水門の傍にしゃがみこみながら言う。


「そうなの?」

「そうなのよ」


 ヴェロニカも頷く。

 クライフは鉄で出来た重厚な水門の、龍をかたどった文様の一部に四角い金属板のようなものを貼り付けた。

 糊もつけていない金属板が、その自重で剥がれることも無く吸い付く。


「磁石です」


 鉄の水門に決められた磁石の鍵を近づけることでのみ操作可能な、完全埋め込み式で鍵穴を必要としない特殊なからくりであった。

 水門に埋め込まれた機構は、その水の流れに隠し扉開閉用の動力を担う水車を下ろす。


「少し下がって」


 クライフが二歩ほど下がりふた呼吸、重い音を立てて水門の右脇の石壁そのものが横へずれ始める。

 そこに姿を現したのはものの見事な脱出口であった。

 クライフは磁石の鍵に手をかける。


「さ、入って。これを外すと五つ数えるうちに扉が閉まる仕掛けになっています」


 アンナ、抱えられたオリビア、イリーナ、エレナ、そしてヴェロニカが穴の中に姿を消す。

 クライフは即座に磁石の鍵を力任せに引き剥がし、閉まり行く石壁の向こうへと姿を消した。


「足元は平らです。でも急がずに明るいほうに歩いてください」


 支流の引き入れ口の脇、雑木林の小さい祠。

 アンナは外に出て一息つくと、一段高くなったところから降り、続くイリーナに手を貸す。


「ありがとう……っと」

「気をつけて、枯葉が積もりすぎてて足元沈むよ」


 全員が姿を現すと、さすがに暗闇があたりを支配するようになる。

 祠から小さい磁石を外すと、クライフは閉じ行く祠の石壁を確認し、一息つく。


「さ、北上しましょう。北の馬場まで行けば距離が稼げます」


 先行しようとするクライフにイリーナが微笑む。


「よかったですね」

「はい?」

「あの二人、気絶させられて」


 クライフは返事に困った。

 軽く頷くと、気まずそうに先を歩き始める。


「あんた何言ったの?」


 ヴェロニカがイリーナの手を取りながら聞く。


「んー、見事なお手並みでした、って」

「……あいかわらずズレてると言うかなんと言うか」


 後ろからテコテコとついてくるエレナも、一安心したように微笑む。


「でも、これで一安心ですね」

「気楽ね、あんた。とりあえず寝る所と食べる物と飲む物と稼ぐ場所を見つけたいわよ、あたしゃ」

「急ぎましょう、この林を突き抜ければ、見張りの目を抜けられます」


 一行は闇を深める林の中に、静かに姿を消す。

 拘束された二人の傭兵が発見されるのは、夕餉の煙が立ち昇る、このしばらく後のことであった。




「何、貴様の部隊の者が?」

「はい」


 月夜が伺える自警団駐屯所の執務室、今はカーライル率いる傭兵団の支配化の下に落ちている。


 カーライルを上回る禿頭の巨漢が、痛恨の表情で報告を挙げている。

「これで死者は七名、負傷は二名となっております」

「我が傭兵団の一割近くが殺されたか」


 カーライルは呟く。

 禿頭の巨漢は歯噛みした。


「敵はよほどの精鋭部隊と思われます」

「女とガキの救出に精鋭部隊を、ねえ」


 カーライルはふむと唸って顎に手を添えて考える。


「この一件、簡単に済むと思ったが……。どうやら騎士団が動いているようだな」

「騎士団が緑葉に派遣されることは無いと伺っておりましたが」

「どうやら、向こうにも抑えられなかったやつらがいるということか。自警団という名ばかりのやつらは皆殺しに出来たが、なかなかどうしてバレンタインめ、精強な騎士団を持ってるじゃないか」

「………………」

「しかし、だとすると奴らが街にいるとは考えにくいな」

「隠し通路、街道の門、その他からの脱出は確認しておりません」

「事実そうなのだろう。北の水門、こうなると怪しいな」


 カーライルは窓辺から月を見上げる。


「なぜ殺さずに縛り上げるだけにしたのかも分からん。生き残った貴様の部下も、不意打ちで倒され、敵の姿を見てないというではないか」

「は……!」

「失態だな」


 巨漢が戦慄する。


「その腕に赤布を巻いていたければ、なんとしても娼婦の首を取れ。腹も割いて、確実に仕事をこなせ」


 巨漢を振り向くその眼光は鋭く、冷たい。


「泥を塗るなよ」

「了解しました。すぐに部下をまとめ、彼奴らの動向を探り、追撃します」


 踵を返して扉の向こうに消える巨漢を見送り、カーライルはため息をつく。


「鳳龍橋を越えられると、厄介だな」


 鳳龍橋。林道、支流を越えると現れる、北の大きな橋の名前である。

 街境にあるその橋の周囲は重要な拠点であり、しばらくするとバレンタイン側の騎士団が駐屯し陣を築くことが予想される。


「グレイヴリィ本隊が到着し次第、緑葉を引き継ぎ北に向かう。今日中に準備と補給、それに休息は取って置けよ」


 部下に指示を出し、カーライルは北へ逃れた敵の手腕に内心舌を巻いていた。


「成金貴族かと思っていたが、こいつは侮れんか」


 呟く彼の目は、暗い好奇心に満ち溢れ、炯々と底光りする獣の眼光を放ち始めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る