第2話『孤剣、南へ(2/4)』
*
草いきれの香る並木道がある。
北からの潮風、そして陸側にそびえる小高い山から吹き降ろされる涼風。山間街道に面した海辺の砦に、一頭の早馬が到着したころ、未だ自分の置かれた立場を知らない若い男は、地元民族の漁師と共に水揚げを行っている最中であった。
潮風に腐食しやすい金属の鎧は、砦の自室に油脂に包んで置いてある。かわりに、なめし革を重ねた黒檀色の鎧を着込んでいる。さすがに外せない長剣は腰の後ろに差し、地引の網を一所懸命に引き上げている。少し無愛想にも思える淡々とした顔つきだが、このときばかりは派手に朱をさし、歯を食いしばって力任せに網を手繰り寄せている。
国というものの意識に希薄な、海と山に囲まれたこの民族は、さしたる敵意も抵抗も無くバレンタイン領に組み込まれた。重税を課すような為政者ではなかったし、その信頼は長い年月の中で次第に世代にしみこむように落ち着いていった。
北方辺境区。辺境と呼ばれ、中央の領都から派遣されてくる監視の任に当たる騎士団は、序列が低い団、または引退間近の騎士に割り当てられるのが常であった。
「よし、こんなもんでいいだろう」
真っ黒に日に焼けた中年の男が、その逞しい体躯を汗でびっしょりにしたまま、笑いかける。
若い騎士風の男も、それでようやっと手繰る網から手を離し、一息つく。
「わかった」
汗にまみれて頷く騎士。彼はもう一度大きく息をつくと、汗を拭いながら慌しく動き回る漁民の男たちを見回す。
「本日も、大方大漁と。異常なし、民の感情も喜びに満ちている……と」
騎士は確認するように男に言う。
男もにんまりと笑って部下を見回す。
「大半は塩漬けにするが、あとで生のまま砦に届けさせよう」
「いつもありがとう」
騎士は礼を言い、頭をたれる。
男はこんなにも騎士らしくない騎士を、数年前に初めて見た。以来今迄、領都から来た歴代の騎士に比べ、憎めないこの若い騎士にとりわけ信頼の情を抱くようになっていた。
「やはり魚は、鮮度が良い物を塩焼きにして食べるのがいい」
辺境と呼ばれる漁村でしか許されぬ、領主すら口にしたことの無い美食であろう。
左遷とも言える勤務に就く者の、ささやかな特典と言える。
「魚籠はまた来たときに返してくれればいい」
「了解した」
騎士は頷くと、腰の長剣を整えて並木通りに出る。
この並木は、潮風から山麓の農作物を守るためにもうけられた自然の壁であった。
並木は遠く、稜線の向こうまで続いている。
彼はそれに沿って、徒歩で砦への岐路を行く。馬は割り当てられてはいない。砦に数等いる馬は、年老いた作業馬が殆どであった。辺境区のまどろみにも似た空気の中、ゆっくりと余生を送らせるべき馬たちである。
そんな空気の中、騎士は砦の横に見慣れぬ馬が係留されていることに気がついた。
ここのところあまり見ることの無かった、若く精強な軍の馬だった。馬の息も荒く、慌しく駆けつけてきたかのような気迫さえ伺える。
「早馬か?」
騎士は急いだ。
山間の砦は、砦とは言うものの、やや大きめの館をぐるりと覆う防壁を施した程度のものだった。
彼のほかに、名目上のここの責任者である年老いた騎士と、その使用人が数人いるのみである。
広いだけの訓練場を兼ねた中庭をつきぬけ、駆け足となった彼は正面玄関を駆け抜け、老騎士のいる詰め所執務室へと急いだ。
階段を駆け上り、すぐそばにある扉の前で足を揃え、息を整える。
「クライフ=バンディエール、海岸付近の警邏より戻りました」
ノックし扉の向こうに聞こえるようにそう言うと、すぐに返事が返ってきた。
「おお、入りたまえ」
聞こえなれた老騎士の声ではないことに、クライフは「やはり」と心中頷いた。
一声かけて扉を潜ると、執務机に座った老騎士が、渋い顔つきでクライフを一瞥し、卓上に置かれた報告書らしき一葉の封書を広げ、それに唸るように視線を落とす。
「君がクライフ=バンディエールか」
声をかけてきたのは、西日の入る窓辺に立つ、一際背の高い、しかし線の細い男であった。
彼は逆光に眼を細めるクライフに大股で近づくと、老騎士が持つのと同じような封書を手渡す。
「蝋封を解き、書面に眼を通しなさい」
高圧的な言い方は、おそらく中央の文官の特徴なのか。クライフはさして気にも留めず、バレンタイン家の紋章である盾と鉄兜の印が入った蝋封を解き、中の書面を開き目を通す。
クライフの淡々とした顔にも、このときばかりはかすかな感情の揺らぎが波打った。
「眼を通した現時点を以って、貴方は騎士団序列百五十四位、剪定騎士団の名を与えられる」
突然の人事であった。
しかしそれ以上に、クライフを驚愕せしめたのは、文書にあった一節である。
「ただし騎士団長見習いとし、正式な叙勲は『この戦』の後に行うものとする」
そう。書面には通常の人事に関する通達のほかに、『戦のため』との但し書きが書き加えられていた。
「理解したのなら、復唱したまえ」
クライフは踵を合わせて姿勢を整える。
「クライフ=バンディエール、ただ今を以って騎士叙勲を受け、騎士団序列、第……百五十四位、剪定騎士団の名を栄誉と共に受け、領都にて指令を待ちます」
「よろしい」
男は満足げに頷いた。
「馬が留めてあるのは知っているね? あの馬を休ませたら、すぐに糧食などを整えて領都に向かいなさい」
「すぐに、ですか」
「ええ。他の騎士団も、既に領都に向かっている頃でしょう」
背の高い男は、そう言い残すと扉に向かう。
「貴方の後任は、私になります。漁民たちに挨拶でもしてきます。貴方は貴方のするべきことを行いなさい」
そう言い残して階下に消えていった。
左遷同様の任に回されたというのに、その後姿は軽妙だった。先ほどまでの高圧な印象は、霧散していた。
「とまぁ、そういうことになった」
口を開いたのは、老騎士である。
気心の知れたクライフと二人きりになった途端に、その緊張を解き、丸みの帯びた背中を伸ばしつつ、大きくあくびを漏らす。
「南方警戒、敵は……グレイヴリィ子爵領だな」
「このバレンタイン領、敵と仮定できる勢力はグレイヴリィ子爵しかいませんからね」
「枕にたかる虫のように邪魔と思っているからな」
「総長、私は」
「警戒の任、だよ。まだ戦が起こるとは限らん。まぁ、騎士団序列が二桁の私だが、オイボレのこの身だ、領都は引き続き北方蛮族監視の任を私に与えたよ。我が銀の短剣騎士団唯一の部下だったお前も、いっぱしの騎士叙勲を受けるようになったしな。若い者に任せるとするよ」
「……はい」
「ただ、人手が足りないというのは分かるが、気になることがある」
老騎士はフムと頷き、顎に手を当て考え込む。
「まぁ……深く考えても詮無いことだが、どうやら裏がありそうだな」
笑う老騎士。
「裏とは言え、表があるなら裏はある。充分に注意しろ、クライフ。……いや、剪定騎士団長サマ」
「見習いです、総長」
今度は声を出して老騎士は笑った。
「正式な騎士叙勲がなければ、騎士の纏う鎧も授与されまい。大事に油脂に包んである鎧をちゃんと身に着けていくんだぞ」
そして老騎士は使用人を呼ぶと、二三の指示を出す。
「糧食や旅支度は済ませておこう。クライフは自室の整理をしなさい。昼過ぎには馬も回復するだろう」
「了解しました」
いつもと変わらぬ老騎士の表情に安心し、クライフは礼をして執務室を後にする。
「クライフ=バンディエールの初仕事か」
クライフを見送ると漏れる沈痛な呟き。
「しかし、『剪定』騎士団か」
老騎士はこの辺境区で知り合い朋友となった、ある片目の男のことを思い出していた。
おそらく、そういうことなのだろう。
彼の前にはおそらく、過酷な状況が待ち受けているはずである。
騎士団序列百五十四位、剪定騎士団団長見習い、クライフ=バンディエール。
彼は今、自分が巻き込まれつつある状況を知らず、戦の起こる前兆に、ただただ心中の震えを自覚するのみであった。
昼。
中天にさしかかろうとしている太陽に眼を細め、クライフは漁民の頭領である男から、塩漬けにされた干し魚の燻製を受け取っていた。
「焼き魚とは、しばらくお別れのようです」
「……また食いに来いよ」
クライフは彼と頷きあい、久方ぶりに着込んだ鎧の胸を叩く。
「それでは、また」
一息で馬にまたがり、鐙に足をかける。
男は鎧に反射する光に目を細める。
「なんだ、やっと一端の騎士みたいに見えるぜ」
「先ほど騎士になりました。騎士見習いから、騎士団長見習いですが」
「そ、そうだったのか」
クライフは微笑む。
「それでは行ってきます」
「ああ、気をつけてな」
鐙で馬の腹を叩くと、回復しきった馬は軽快に走り出した。
見送る男は、複雑な顔で生魚の入った魚籠を担ぎなおす。
「さて、行ったか」
砦の窓から山を越える街道を南下する馬の影を見つけ、老騎士は日差しに手をかざして眼で追う。
「孤剣、南へ……か。死ぬなよ、クライフ」
*
疾駆する牝馬の蹄が、砂煙を上げている。
暁光が空を射抜く明け方、領都まであと僅かのところで野営をしたクライフは、夜露を落とさぬうちに馬を走らせた。北方辺境区からの召喚に応じ、南下すること四日。駿馬に助けられ、予想していたよりも早く領都近郊までたどり着くことが出来た。
領都中央にそびえる執務宮殿の尖塔が遠目に黒く浮かび上がっているのを確認すると、クライフは馬の首を軽く叩き、その労をねぎらう。決して軽くはないクライフの身を乗せ、潰れることも無く四旅日を乗り切った相棒に対する、クライフなりの礼である。
急ぎ登城しようとしても門戸は閉じられていると判断し、クライフは馬の足を緩める。
遥か龍鱗山脈の峰から流れてくる涼風のためか、夏とは言え明け方は肌寒さを感じることも少なくは無い。日が昇りきるまではまだ少しあるだろうし、暑くなる前に相棒に水と草を与えたいと思っていた。
そんな彼らが領都の北の大門に辿り着いたのは、日が昇りきる少し前だった。
寝ずの番をしている門番の数も、多い。クライフは書状にあった戦という内容に、あらためて気持ちを傾ける。
「馬から降りてください」
五人の門番のうちの一人が、軽く槍の穂先で道を制しながら、馬上のクライフに告げた。
クライフは速やかに鞍から降り、自分の身分を明かす。
「北方辺境区警護の任に就いていた、クライフ=バンディエール。序列第百五十四位、剪定騎士団の叙勲を得、領主オーギュスタン=バレンタイン卿の召喚に応じて推参仕りました」
クライフの鎧に刻まれた騎士団見習いの刻印と、それなりに礼をわきまえたクライフの挙動に、門番の男たちもその道を開けた。
「お通りください」
「ありがとう」
そこでクライフはすかさず馬に跨ることはせずに、くつわを取り、徒歩で街への門に向かう。
「序列、百五十四とか言ってたな」
門番の一人が仲間に漏らす。
「確か、百五十かそこらが序列の最後尾だって話だったぜ」
「こんなときだからな、無理に叙勲されて戦地送りにされる可哀想な武門の末っ子あたりなんじゃないのか」
彼らの言葉を馬蹄の音の向こうで聞き流し、クライフは数年ぶりとなる領都の門を潜った。
朝焼けが映える中、堅牢な石造りの建物が中央に伸びている。伸びている先は土地の起伏によって見通すのが困難なつくりになっているが、この先がバレンタイン領執務宮がある領都中枢地区である。
堅牢な城塞を建設することを禁じた大陸の覇者は、各領地を支配する貴族たちにこれを徹底させた。反抗の意思を見せるものは、軒並み『平定』させられた。様々な国替えが成された後、大陸の全ての都市は十数年の移行期を経て、平地の平城に統一されることになった。
静謐な空気の流れる朝焼けの中、石畳を踏み鳴らす相棒の蹄鉄のリズム。軽くため息をついて、クライフは相棒の係留先を探し始めていた。
そのように雑務をこなすうち日が昇りきり、登城の時間が間近となったとき、クライフは単身、領都に聳え立つ城塞の正門に立っていた。
正攻法で経済を掌握したバレンタインの偉業と威風を如実に現した、無数の尖塔と広大な敷地を有する、通称バレンタイン城と呼ばれる『王国バレンタイン子爵領執務宮』を臨むクライフ。見習いであった彼は郊外にある騎士団訓練所のみが権力の象徴であった。今こうしてそのさらに根幹となる権力の象徴を前に、身震いに似た衝動を感じていた。
「そろそろ宮廷も目覚め始めた頃合か」
クライフは堀を跨る跳ね橋を歩きながら呟いた。
跳ね橋が架かっているということは、城は目覚めているはずである。
「……何か用でしょうか」
あくびをかみ殺しながら、執務宮の正門に構える衛兵がクライフを呼び止める。単身、馬も無く徒歩で来る騎士というものを、彼も初めて見たのであろう。視線がいかにも訝しげだ。
「有事の際とは言え、領都中央の意識はこんなものなのか」
「何か」
「いや、何でもない」
クライフは鎧の紋章を明示し、用件を伝える。
「召集、ですか」
衛兵は首をかしげた。
「多くの騎士は、もう南方に向かい、陣を張っている頃ですが」
「北方辺境区から来たから、およそ出遅れたことは覚悟している」
「辺境区から……」
さもありなん。
衛兵は正門横の勝手口を開く。
「正門が開く時間ではなかったか」
クライフは苦笑する。
「ありがとう」
一声残し城門を潜る。
それからクライフが執務宮の領主執務室に通されたのは、彼が想像していたよりも随分と早かった。
豪奢と想像していた執務室は意外にも質素で、応接用のソファーが用意されているも、さすがにそこに座って待つのは遠慮したかったので、クライフは窓辺に寄り町並みに眼を向けて待っていた。
しばらくすると、執務着姿の男が現れた。
「……君がクライフ=バンディエールか。さすがにまだ若いな」
現在の場所と微笑む男の顔を関連付け、以前騎士見習いなりたての時期に詰め所に掲げられていた肖像画に思い当たり、クライフはその場で踵を合わせて臣下の礼を取る。
「剪定騎士団クライフ=バンディエール、召喚に応じ、まかりこしてございます」
「かたくならなくて良い。楽にせよ」
言われ、即座に足を開いて休める騎士は、序列百五十四位中、クライフのみであっただろう。
「ははは、さすがに彼の弟子ではある」
笑うバレンタインに、クライフは眉根を寄せる。
「いや、こちらの話だ」
「はっ」
「さて、剪定騎士団クライフ」
呼ばれクライフは再び踵をつけ、佇立する。
「これは、困難な任務だぞ」
語るバレンタインの話の内容に、クライフは当初感じた身震い以上の何かを感じ、内心唇をかみ締めた。
重くその双肩に圧し掛かる重圧に、いつしか任務への胸の高まりは、緊張の鼓動へと変化していった。
執務室を抜け、中庭に出たとき、既に日は中天に差し掛かっていた。
すぐにでも緑葉を目指すべく、路銀などの支度準備をしている最中の合間休憩である。
縁石の淵に腰掛け、担当官の配給を待つ。
クライフはもう一度任務の内容を反芻していた。
単純に言えば、緑葉の街にいる娼婦を領都まで護送すること。
しかし状況はグレイヴリィの侵攻を目前とし、緑葉は戦火に晒されることが充分に予想される。更には、救出するべき娼婦は妊娠している身重の女性ということだ。
この状況下での、たった一人の救出行。
初の任務に、鼓動は更に高鳴っていく。高潮する頬とは裏腹に、手指は冷たく震えてくる。
「お前が緑葉に向かう騎士か」
「うむ?」
座り込むクライフに誰何の声がかかる。
渡り廊下の影に、見慣れない年増女性の姿を目に留める。
訝しむクライフに、その女性……キーリエはひとつ鼻で笑い、口元を隠しながら嘲う。
「騎士団序列最下位ともなると、領主の妻の顔などに興味は出ぬか」
「……キーリエさま」
クライフは妄念を頭の隅に追いやり、起立し踵を揃え臣下の礼をとる。
「ところで――」
「クライフ=バンディエールです」
「クライフとやら、騎士叙勲を受けたばかりで、初の任務に赴くそなたに言うのも酷な話であるが」
キーリエは殊更に訝しむクライフに無遠慮に吐き捨てる。
「この任務、適当にこなすが良いぞ」
「なんと?」
「あまり頑張るでない、ということだ。でなければ、せっかく今の今まで懐妊の報を遅らせた意味が無い」
言ってキーリエは口元を隠し、今度は明るい色を帯びた笑みを漏らす。
「それだけだ。では、な……」
踵を返すキーリエ。
そのとき、ス……と影から現れたもう一人の甲冑姿の女性にクライフは目を留めた。
その甲冑姿の女性は、一言二言キーリエと言葉を交わし、彼女と入れ違うように中庭へ、クライフの元に歩み寄ってくる。
右半身を小手先から首筋まで厳重に鎧う、稀有な造りの青白く陽光を反射する甲冑であった。兜の面頬を上げており、覗く流麗な切れ長の相貌はクライフを厳しく見据えている。
「三年ぶりか」
両足を肩幅に開き、彼を威圧するように見据え呟く。
クライフも臣下の礼を崩し、そんな彼女に苦笑交じりに答える。
「騎士団訓練所以来、だな」
訓練時代の同僚への軽い挨拶だった。
「キーリエさまのことだが……」
「わかっている。キアラの言いたいことは、だいたいは、な」
「話が早いな。正妻の矜持だろう。それにグレイヴリィの動きが不穏な今、動かせる騎士団は皆無だ」
「特に、キーリエさま直属の御側御用親衛隊、白百合騎士団が娼婦救出に向かうなど言語道断というわけだ」
切り返すクライフの言葉に、甲冑姿の女性、キアラは渋い顔を隠そうともしない。
「ことは、一人の母の感情論とだけでは済まない問題なのだ。現在、直系の世継ぎは六つになったサーシャさまだけ。男子に至っては、キーリエさまと領主さまとの不仲が囁かれる昨今、見込みが無いのが現状だ」
「言うに言ったり。下手をすれば君の首が飛ぶぞ?」
案じるクライフにキアラは首を振って答える。
「事実だ。それに、一番聞かれてはまずい相手に許可は取ってある」
先ほどのキーリエとキアラの会話の内容を推察し、クライフは眉根を寄せた。
「忠告か?」
「そうだ。世継ぎの問題は、この戦国が終わった世なら特に重要視される。もし『緑葉の君』が男児を出産したとなると、国が二つに割れる可能性がある」
「だから見殺しにしろ、と言うのか」
答えられないキアラに、クライフは背を向ける。
「俺は、任務を遂行する」
「……一人で何が出来る。もうグレイヴリィは侵攻を開始しているかもしれないのに」
「なおさら急がないとな」
「クライフ!」
肩越しにキアラを振り返る。
「何があっても、末席の騎士団長――見習いが一人処分されるだけだ。だからこそ、領主さまは俺にこの地位を与え、赤心を以って任務を命じてくださったんだ。赤心には誠意で応えなければならない」
そこで初めてクライフは口元に笑みを浮かべる。
「俺も、まぁ……騎士だから」
「処置無しだな」
キアラは肩をすくめてひとつ息を吐く。
「ところでキアラ、さっき聞いた『今の今まで懐妊の報を遅らせた意味が無い』と言った意味、何のことだ?」
先ほどのキーリエの思わせぶりな呟きのことである。
キアラは唇を噛む。
「状況だけだが」と前置きし、彼女は眼を逸らしつつも答える。「奥方さまは『緑葉の君』の懐妊を、かなり以前から知っていたようなのだ」
「なんだって? 俺は領主さまから最近の情報で懐妊が知らされたと聞いたが」
「故意に領主さまへの報告を遅らせていた節がある」
「何故だ」
「知らせたくなかった、信じなかった、下賎な娼婦ゆえどうとでもできる……。そう思っていたと想像するのは簡単だ。なにせ、話を信じるのならば奥方さまが故意に報告を遅らせ、もみ消し、事態の悪化を兼ねてから図っていたとしか断じることができなくなる。それに加えて、このグレイヴリィ侵攻だ。直属である我ら白百合騎士団も、私自身でさえそんな秘密についぞ気がつくことも無かったのだ」
「……妙だな」
「奥方さまの言うように、この一件は世襲がらみの問題を多分に含んでいる。一介の騎士が介在するべき問題ではないのかもしれない」
「確かにな」
言いつつ、クライフは冷静に考え始めていた。
毎年夏の旅遊の妾である。晩夏初秋に懐妊の兆候が現れることは明白である。それが年が明けたこの時期に懐妊の事実が知らされたとなれば、当然臨月間近と判断するべきだろう。
「やれやれ、厄介な任務だな」
クライフはキアラに一瞥を送り、ため息混じりに踵を返す。
「安心して子供が産めるように、早く救出しなきゃならないな」
「もう何を言っても無駄のようね……」
肩をすくめる。
「戦局に身を任せ、成り行きを見守るだけでいいのに」
「それは何もしないのと一緒だ」
クライフは背中越しに手を振る。
「じゃあ、また」
離れの配給所に去って行く彼の背中に、キアラがかけられる言葉は何も残ってはいなかった。
暫時の後、配給所から路銀と装備を受け取ったクライフは、鎧の背中に背嚢を引っさげ正門に向かう。
馬は、北方辺境区からの相棒であるあの牝馬を使う許可が下りた。
疲れ知らずの馬だが、ここ数日走り通しという不安はあったが、人も馬も足りない状況であの牝馬以上の駿馬を用意できる余裕が無かった。
そんな逸り心急ぐクライフの前に、待ち構えていたらしい一人の男が現れる。
「しばらくぶりだが、なかなかどうして、顔つきがずんとマシになったようだ」
「先生」
件のバレンタインの朋友、この領都の客分、あの隻眼の初老の男である。
この一件にクライフを巻き込んだ男でもあり、北方辺境区でクライフに暇つぶしと称して様々な体術を叩き込んだ男でもある。
「三年間叩き込んだ基本がしっかりしていれば、この任務で遅れはとるまい」
「やはり、裏で糸を引いていたのは先生でしたか。砦の総長の言動から、もしやと思っていましたが」
「なぁに、一人の父親を救ってやりたいと思った私の我侭……だな」
「先生」
「しかしこの一件でお前も一端の騎士になれたか」
「見習いですが」
その応えにひとしきり笑うと、隻眼の男は表情を厳しくして向き直る。
「緑葉の娼婦が領主の子を孕んでいるという情報なのだが、どうやら宮廷内部から外部に漏れているらしい。人の口に戸は立てられぬと言うが、どうやら故意に情報を漏らし、緑葉に眼を向けさせようとしている者がいるらしい」
クライフは情報に関して疑わしい動きをしていた一人の年増女の顔を思い浮かべる。
「果たしてお前の想像が誰で、本当の犯人が誰であるかは私には分からん。だが、この一件、全てを把握しているものが果たしているものかどうか怪しいほど……根は深そうだ」
「心しておきましょう」
「頼むぞ。私の最後の弟子として、あまり恥ずかしい働きはしないでくれよ」
「……心しておきます」
「領都での動きには、充分注意しておく。なに、隠居したとは言え、友の安全くらいはここで守るつもりだよ」
師の言葉に、この戦況がどうあれバレンタインの身の安全は確実であろうと安心する。
「では気をつけてな」
「承知仕った」
単騎駿馬を駆り、一人の騎士が更に南へと旅立つ。
遥か龍鱗山脈を尖塔の頂上から見るバレンタイン。傍らに立つ隻眼の男に、彼は肩越しに聞く。
「私の最後の希望、一縷の望みだよ」
「大国の一領主の我侭としては、許される範囲であり、可愛いものですな」
揶揄するような口調だが、双方共に顔つきは真摯にして沈鬱である。
「ことここに至っては、もう貴方の弟子にかけるしかない」
「不肖の弟子ですが、まぁたいていは何とかなるでしょう」
「あたら無駄に若い命が散る危険があるかと思うと、残念でならん」
「そのときはこの老体も地獄に落ちる覚悟」
バレンタインは遠くを臨みながら、数呼吸の間を置き、言う。
「先ほど伝書が届いた。狼煙によれば、領境の遥か丘越しに、雇われの兵士らしき戦団が確認されたと言うことだ」
「傭兵部隊。グレイヴリィの『大義名分』がはっきりとしないまま、正規軍以外の手が伸び始めましたか」
厄介な事態になりそうな予感に、二人は唸る。
「緑葉の自警組織も腑抜けではあるまい。利害の天秤が傾ききらないうちは抵抗はするだろう。よって、領主としては緑葉切捨ての方向で南方雨滴の大河付近に陣を張ることを決定した」
馬の速度を考えても、クライフが緑葉に到着したときの事態の趨勢は想像がつかなかった。
「それとこれは未確認の情報だが」
バレンタインは切なげに息をつく。
「イリーナのことが相手側の耳に入っている可能性が高いそうだ」
「……でしょうな」
二人はもう一度、遥か龍鱗山脈を臨む。
あの山脈の向こう、雨滴の大河を越えた南の領境にある緑葉の街。
そこへ馬を飛ばす一人の末席の騎士に、領主は頭をたれる思いだった。
公私を分けるべき男の、ただ一筋の私情。
様々な思惑を孕む南の地に、ただ孤剣、奔り往く――。
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