鳳雛の騎士

第一章 娼婦たちの騎士 【バレンタイン領編】

第1話『孤剣、南へ(1/4)』

 燃えるような緑の中、夏の風が広いブドウ畑をなでる。盛夏に向けて熟し始めた果実の甘い香りが運ばれてきて、少女はその未だ低い鼻を風上に向けて少し動かす。

 右手には彼女の髪と同じ亜麻色のカゴ。

 左の手には、その小さな体に似合った赤い花束がしっかりと握られている。

 園を覆う下生えの草を踏む音。

 少女はカゴと花束をしっかりと持ち、濃い影を落とす轍の跡が残る道をそれ、南に広がる草原に向かって歩いている。

 園全体を囲む白い柵が、ちょうど人が通れるくらいに途切れ、開いている。

 少女はそこを通って、今度は横手の、小さな森に入って行く。

 木漏れ日が優しく少女の行く先を照らしていた。


「はふぅ」


 木陰の涼しさに、一息つく少女。汗を拭おうと袖を額に持っていこうとして、花束が立てる音にその手を止める。迷ったように右手を袖に持っていこうとして、カゴを気にしたのか、少女はそのまま再びトテトテと歩き出す。

 暑さに耐えてしばらく進むと、開けた場所に出た。

 開けたと言っても、少女が住んでいる部屋と同じくらいの大きさの、森の中にぽっかりと開いた場所だった。

 正午に差し掛かりつつある日差しに真っ直ぐに照らされた草むらの影に、少女は駆け寄った。

 そこに、ひっそりと。

 本当にひっそりと、ひとつの墓石が隠れるように建てられていた。

 少女はその墓前にしゃがみこむと、花束とカゴを供え、静かに手を組んだ。


「騎士様」


 少女はその墓に呟きながら眼を閉じる。


「また、夏がやってきました。一昨日は、お姉さんたちが誕生日をお祝いしてくれました」


 そして少女はゆっくりと目を開けると、墓石に刻まれた文字に目を落とす。


「こうして私たちが元気に生きていけるのも、騎士様が命がけでお姉さんたちを守り抜いたからだと聞かされています。生まれたばかりの私を抱っこしてくれたそうですね。でもごめんなさい。やっぱり覚えてないです」

「……やっぱりここにいたのね」

「あ、お姉さん」


 少女は顔を上げ、姉を振り返った。


「お姉さんは、騎士様のこと知ってるんだよね」

「ええ」


 少女よりだいぶ年上な、大人びたその姉はしっかりと頷いた。


「優しくて、不器用で、そしてとっても強かった」


 姉のその遠くを見る視線に、少女はゆっくり視線を落とす。そこは、再び墓石に刻まれた碑銘だった。

 ――娼婦たちの騎士、ここに眠る。

 少女は娼婦とは何なのか、まだ知らない歳だった。

 だけど、娼婦たちの騎士に守られて生き延びた彼女の姉の姿を見ている少女は、きっと娼婦とは姉のような綺麗な女の人のことだろうと思っていた。


「でも、死んじゃったんだよね」


 少女は、呟いて「しまった」と思った。


「ええ、もう彼はいないわ。本当の名前も残せないほどの罪を背負って、騎士の身分さえも捨てて死んでしまったから」


 悲しそうな、複雑な感情の入り混じった姉の顔。

 少女はもう一度「しまった」と思った。


「でもね、私たちは覚えていなきゃだめ」


 姉は、力強い光をたたえた瞳を少女に向ける。


「名前は覚えているでしょう?」


 姉の問いに少女は頷いた。


「えーと……」

「序列、百五十四位、えーと、せんてい騎士団」


 少女は思い出すように小首をかしげながら、迷いつつ言葉に出す。

 それは物心付いた彼女に繰り返し聞かせた彼女の姉たちの、ある種の刷り込みだったのかもしれない。


「団長見習い、クライフ=バンディエールさま」

「そう。領主バレンタインさまが騎士団、序列百五十四位、剪定騎士団団長見習い、クライフ=バンディエールさま」


 姉は、今度は優しそうな顔で彼女に微笑む。


「身分低き娼婦のためにたった一人で戦い続けてくれた人。もうあんな騎士様は現れないわね」


 今度は先ほどとは違ってクスクスと笑う姉に、少女は小首をかしげる。

 娼婦って、身分が低いのかしら?

 お母さんのお姉さんは、「私たちがいるから世の男どもは明日を戦えるんだ」って威張っていたのに。

 そのお母さんのお姉さんを見ている限り、街のどんな人にも劣るような印象は受けない。少女はまた疑問で首をかしげる。


「へんなの」

「ふふふ」


 姉は少女の手を取った。


「さ、帰りましょう。今日はお客様が来るから午後から手伝って欲しいことが少しあるって言っていたでしょう?」


 少女は思い出したように手を引かれて立ち上がる。


「そうだったー」

「さ、行きましょう」


 少女を促して、二人はその場を後にする。

 夏の日差し。

 そこにひっそりと佇む墓石を肩越しに一度だけ振り返り、姉は呟いた。


「みんな、元気です。彼女のことも安心してください。あのときのお姉さんたちが良くしてくれていますから……」


 そして一瞬だけ姉は、子供のような笑顔で微笑む。


「お姉さーん」

「うん、今行く」


 少女の後を小走りで駆けていく。

 残された墓は、静かに彼女たちを見送った。

 草いきれをはらんだ風がかすかに捧げられた花を揺らす。

 一人の騎士の戦いを知るものだけが訪れる、静かで、安らぎのある場所。

 彼の戦いは、数年前のとある娼婦の懐妊がきっかけであった。

 様々な思惑が動いたあの日もまた、龍鱗山脈からの涼風が心地よい、そんな夏の日だった――。



第一話 『孤剣、南へ』


   *


 領主バレンタイン子爵の治める領都から雄雄しき龍鱗山脈を越え、雨滴の大河を越え、さらに南に下った場所に領土最大の歓楽街である『緑葉の街』がある。緑葉は南の領土境に間近な、南方グレイヴリィ領に程近い、交易を中心とした一大中継地として栄える街だった。

 交易商人と、それを束ねる組合がひしめく商業の街という一面の傍らに、北に臨む龍鱗山脈に隔てられている『雨季』を有する地方特有の季節作物の生産もまた深く根差している。

 土地に根を張った農業従事者と、世界の道を駆け巡り様々な物資を流通させる『血液』のような商人たち。物資と貨幣の流通量の増加が、組合が領主に成り代わり経済を担う自由な街を、領土最大の、そして大陸有数の歓楽街に盛り立てる結果をもたらしたのは自然な流れであったのかもしれない。

 貧富の差も無く、お金を落とさせる様々な職が生まれたのもまた、自然な流れであったのだろう。

 賭博、娼館、酒場に自警団。商人たちから、石を投げれば商人よりも酌娘に命中すると言わせしめる、混沌とした街となって、もう二十年近くが経過していた。

 バレンタイン子爵の免税令が、『損して得取れ』という商人気質と不思議な連鎖を生み、非常に隆盛を促す結果となっている。基本的に民衆を抑え付け、生かさず殺さずを身上とした領主が多い中、異彩を放つその政策は、近隣諸領にも影響を及ぼし始めていた。経済の発展を望めるならば、多少の減税も視野に入れる領主が出始めたのである。税金が安ければ、商人も集まり、血の巡りが良くなる。封建支配の揺らぎが見え隠れする中、その波は静かに、だが確実に広がっていった。

 そんななか、人々がバレンタイン子爵を語る上で最も好奇とひんしゅくの眼を向ける、ひとつの噂がある。

 それは、子爵が避暑をかねて毎年二三ヶ月滞在するとき、決まってある娼館の娼婦と仲良く過ごすことだった。

 ここ三年ばかりの、貴族からすれば下卑な商売女との遊びは、バレンタインが五十過ぎの高齢であることからも、どこか滑稽で微笑ましい初老の領主の戯れとして、人々の口にのぼることになったのである。

 噂は噂を呼び、領主御執心のその娼婦の口ぞえで免税令が施行されたという者もいるが、時期的に見てもそれは無い。

 領主の秘密であるから、多くの者はその娼婦がどの娼館の誰であるか知らなかったし、その道の元締めや商売女たちも、領主の寵愛を受けたその娼婦が誰なのか、まったく分からない状況であった。

 やはり、この街で息づく多くの者が陥る錯覚なのであろう。各々が『大歓楽街緑葉の富を握る子爵の寵愛を受けた女』という想像に、煌びやかな高級娼婦を思い描いていた。もしかしたらその時期にだけ緑葉に訪れる、どこぞの貴族の後家かもしれない、とも。

 人の噂も時と共に消え去るというが、この幸運な卑しい娼婦の女が誰なのであろうという話題そのものは、毎年の夏の訪れと共に、そこかしこの人々の口の端に蘇るのだ。

 ……この年の夏もまた、彼らの噂が蘇る。

 いったい領主の寵愛を受けたのは、どこの誰なのだろうか、と。




 昼よりも隆盛を極める、緑葉の夜側の一画。

 明かりこそ石畳の道に少ないものの、風を入れるためにあけられたそこかしこの窓からは、酒色を帯びた声と、艶を含んだ嬌声、夜に練られる様々な商談ごとのざわめきが漏れている。

 湿り気の少ない乾いた暑さの緑葉特有の、辻に立つ商売女たちの、くすんではいるが色とりどりのドレスという華からは、どれも草臥れていない瑞々しい四肢が惜しげもなくさらされ、伸びている。その四肢が、男を捕らえんとする妖しい蔦のように組まれ、胸の果実を美味そうに寄せ上げ、通りを行く者に見せ付けている。

 それに捕らえられた男たちは、交渉の後で彼女たちの巣に『お持ち帰り』されることになるのだ。


「おや」


 臙脂色の服を来た華の一人が、その顔を一人の男に向けた。

 ホロ酔いで歩いてきた商人風の男は声をかけてきた娼婦のソバカス混じりの顔に眼を留め、居心地悪く愛想笑いを漏らす。


「やぁ、ヴェロニカちゃん」

「なんで眼を合わせた瞬間にイヤな顔するのよ」

「してないってば」


 試すようにムスっとしていた少女は男のにやけた焦り笑いににんまりとする。


「どう、今夜。ヒマならあたしと付き合いなさいよ」

「一方的に俺が金を出すんだろうに。……まあ良いか」

「やった、お客様捕まえたっ」

「……と言いたいところだが」


 男は少し辺りを見回し、ヴェロニカに顔を近づけて小声で囁いた。


「実は近々に、南とでかい取引があるんだよ」

「取引、ねえ」


 あまり興味のある話題ではなかったが、少女はこの男が何を扱う商人だったのか思い出していた。


「鉄鉱石なんて重いモノを南にエッチラオッチラ運んで行くことのほうが、今宵のひと時を私と過ごすことより大事なんだということが良く分かったわ」


 さりげなく腰に手を回し、胸を押し当て、渾身の力を込めて男の尻をつねる。

 胸の感触に緩もうとしていた男の顔が、一瞬で苦痛にゆがむ。声を上げなかったのはさすがだ。


「鉄鉱石じゃない。鉄だよ、砂鉄」

「同じことでしょう」


 少女は男の首元に優しく息を吹きかける。

 途端に男も鼻の下をわずかに伸ばす。脳裏に浮かぶのは、この前少女を抱いたときの甘くも濃厚な一夜。


「うむ」


 しかし男は眉根を悲しげに寄せて、首を振った。


「そうもいかないんだ。この取引のために首くくる勢いで仕入れたからな。うまく利益を出さないことには組合頭に殺されるだけじゃない。娘に愛想つかされるよ」

「あっそぅ」


 ぶっきら棒な言葉とは裏腹に、ヴェロニカは優しく微笑み男を放す。


「頑張って稼いで、今度は一週間くらい買ってね」


 男も申し訳なさそうに頬を掻く。男が唯一亡くした妻を忘れられる少女には、やはり頭が上がらない。


「ああ、ありがとうな」


 宿に向かう男の後姿に、ヴェロニカはため息をひとつつく。


「こりゃ、ウチに戻ったほうが客が来るかもね」


 ヴェロニカは大きくため息をつくと、街角に立つ商売仲間に手を振って別れを告げ、自分の店に帰ることに決めた。

 大通りから覗ける横道の先に、表向き区切られた緑葉の一区画がある。

 街角の娼婦が客を連れ込む娼館や、娼婦にもなりえる酌女を雇っている酒場兼宿屋、賭博場などが幅を利かせている、緑葉の夜の活力源とも言える区画である。大きく街の南に裾野を広げる、大歓楽街、眠らない街を表す欲望の区画であった。

 ヴェロニカが鼻歌交じりにこの区画に入ると、特有の揮発する欲望の香りが甘く漂ってくる。

 男たちをその気にさせると言われている、赤い果実の香料を染みこませた香を炊く、香炉からの薄い煙の匂いだろう。隠れた緑葉の特産品のひとつである。

 顔見知りの数人に声をかけながら、少し外れにある小さな館にたどり着く。

 ヴェロニカの寄る、彼女の店である。看板には流麗な文字で『夜霧』と書かれている。

 部屋数は二十と多いものの、その娼館にはヴェロニカの他には四人しかいない。多くは店を持たない娼婦に部屋を貸したりもしている。規模としてはやはり小さい、そんな娼館だった。


「ただいま」

「あら、一人?」


 表玄関から浮かない顔で帰ってきたヴェロニカに、年増の女性が煙管から紫煙を昇らせながら声をかける。

 この娼館の主、アンナである。

 アンナは盛りを過ぎた数年前に、とある客との間に娘をもうけて娼婦を引退し、今では若いやり手ババアとしてこの小さい娼館を切り盛りしているのである。過去の常連客や新規の客が、アンナがまた客を取るようになって欲しいと願うことも少なくない。それほどの女としての張りと潤いを残した、妖艶な女である。ヴェロニカにとっては、姉同然の女性である。


「顔見知りを捕まえようとしたんだけど、逃げられてさあ」

「あらまあ。……こっちはこっちで、来てるのは新規の客ばかりかしらねえ」

「へぇ」


 ヴェロニカは首をひねった。


「じゃぁ、ウチの利益は部屋貸しの分だけってことかぁ」

「うちの働き手は、あんたくらいだからねえ」

「エレナはそろそろだと思うけど、どうなの?」

「幸か不幸か、うちは焦らなくてもなんとか営業していけるから、じっくりと相手を選んでやりたいところなんだけどね。ふふふ、そんな顔しないの」


 少しムスっとしたヴェロニカにアンナは笑いかける。彼女はこの娼館に、貴族のスポンサーが付いていることをあまり快く思っていないのだ。育ちなのか、他に理由があるのか、貴族というものに拒否反応を表すのだ。なので、専ら『仕事』の相手は、農夫や商人たち、庶民の者たちを中心に好き勝手やっている。そのように好き勝手できるのもまた貴族の援助のおかげであることも、彼女の心の内に重くくすぶる何かを落としているのもまた、事実である。

 多くの商売仲間は、「援助の主はアンナに娘を仕込んだ貴族の旦那だ」……と思っている。


「オリビアはまだ子供だし、ね」

「娘は……そうね、出来れば良いトコに嫁にでも――」


 アンナはそう言いかけて首を振って苦笑した。オリビアとは、アンナの娘の名前である。

 ヴェロニカも、アンナの親心を知っているし、多くの娼婦の親がそう思っているのも知っている。だから困ったように微笑むことしか出来なかった。


「それもまあ、巡り逢わせだわ」

「そうね……」


 娼婦が娼婦の世界から離れるには、男を上手く捕まえるしかない。

 堅気の男の許に嫁ぐにしても、金を持つものに妾として囲われるにしても、彼女たちは世間から下賎と言われる。体を売っていた女としての罪悪感が付きまとう。その世界にいたときには感じられない、自分とは違う感覚にさらされる。

 そんな中できちんとした幸せにたどり着けるものも多かったが、破局の末この街に戻ってくる仲間も数多いこともまた事実であった。


「変に染まっちまう前に、どこか良いトコに送り込んじまうってのも手かもしれないわよ」


 ヴェロニカの提案は、貴族の使用人などにして、一般の色濃い部分で生活させるのはどうか……という提案だ。

 もちろん、アンナにはその伝手もあるにはあったが、まだ子供のオリビアを手放すことにはやはり抵抗があった。住む世界を変えるということは、親子の離別を意味するからだ。子離れできていないアンナには、それは少しばかり酷なことであった。提案するヴェロニカのほうも、その場の雰囲気を明るくさせるために言っただけで、アンナが首を縦に振るとは思っていない。


「まぁ、ね。考えておくけどねえ」


 アンナは笑って手を振った。

 すると、昇降口に洗濯籠を抱えた少女が下りてくる。


「あ、ヴェロニカさん」

「ただいま、エレナ」


 エレナという少女は階段を降りきると、一抱えはありそうな洗濯籠を足元に置く。


「おかえりなさい。お客さんは……?」

「無しよ。振られちゃったわ」

「まぁ」


 エレナは幼さの残る顔をほころばせた。


「相変わらず派手に汚す客が多いわねえ」


 目線は洗濯籠の中のシーツの山に向けられている。濡れ場の職業ゆえ、換えのシーツの洗濯は非常に地味だが重要な仕事のひとつで、多くの娼婦見習いの基本的な仕事となっている。


「何回くらいしたのかな」


 シーツの山に顔を寄せて鼻を鳴らすヴェロニカに、エレナは苦笑交じりに首を振る。職業柄、この独特な性臭には慣れているものの、早く綺麗に洗いたいという欲求は抑えられない。


「はい、そこまで」


 一息で籠を抱え、エレナは裏へと回る。

 勝手口のほうに消えていく少女の背中をやさしく見送り、ヴェロニカは再びため息をつく。


「じゃあ私は上で待機してるわ」

「はいよ」


 エレナが下りてきた階段を使い、彼女は二階へと上がる。部屋も多く広い割には掃除の行き届いた廊下を進み、納戸の奥にあるもうひとつの階段に眼を留める。

 彼女たちの居住区である三階への階段だった。


「ふむ。様子でも見てくるかな」


 二階の待機室ではなく、ヴェロニカは三階に足を向ける。

 きしむ階段。商売用の明かりも消えた、薄暗い廊下を進むと、薄く明かりの漏れている一室が見えてくる。中からは幼げな笑い声と会話が漏れている。


「ただいまー」


 その扉に一声かけて、ノックと同時にヴェロニカが部屋に入る。


「おかえりなさい、ヴェロニカ」

「おかえりお姉ちゃん」


 彼女を二つの声が出迎える。

 大きなベッドに上体を起こしている、ヴェロニカと同じくらいの年齢の、おっとりとした白い金髪の少女が微笑みかけている。その傍らにはベッドに座るようにして、館の主であるアンナを幼くしたような少女が手を振っていた。


「良い子にしてたかぁ」


 アンナに良く似た少女は、件の彼女の娘であるオリビアで、髪を短くしたアンナとは対称的に腰まである長い髪をしている。無邪気な笑みが、ベッドにいるた少女のお腹の辺りにそっと寄る。


「どう? イリーナ」


 イリーナと呼ばれたおっとり顔の少女は、うんとひとつ頷くとオリビアの頭を撫でる。


「このごろ、またよく蹴るようになってきたわ」

「順調なんだねえ」


 ヴェロニカも寄って、ベッドの淵に腰掛けて、そのイリーナの腹部に手を当てる。

 その腹部は、大きく膨らんでいる。

 イリーナは妊娠していたのだ。

 彼女の大きなお腹に耳を当てながらクスクス笑っているオリビアが、囁くように呟く。


「はやく弟か妹がほしいなぁ。オリビアもお姉さんになるんでしょう? はやくなりたいなぁ」

「ふふふ、そうね……」


 娼婦は一家としての結束が強い。仲間の娼婦の子供はみんなの子供であり、みんなの妹であり弟になる。

 しかし、このときのヴェロニカとイリーナの笑みには、少し影が差している。

 毎夏、この緑葉に囁かれるある噂がある。

 領主バレンタインの寵愛を受けている娼婦の噂である。

 煌びやかな高級娼婦ではなく、貴族の後家でもなく、その真実は場末の娼館のおっとりとした娼婦がその人であった。客との逢瀬で子を孕むという失態をする娼婦は、実のところ少なくない。イリーナはそんなうちの一人として周囲に認識され、『夜霧』の三階でひっそりとお腹の大きさを増していった。

 三年前から領主専属としてイリーナは囲われ、ひそかに援助をしていたのは領主であった。すなわち、彼女のお腹の子供の親は、領主バレンタインであり、事によっては継承問題をも多分に孕んでいる危険な子供なのである。

 当然、そのあたりの避妊に関しては十二分に気をつける知識と技術があったイリーナだが、毎夜の逢瀬でいつしか孕んでしまっていたのである。

 事実が分かったのが数ヶ月前。

 アンナが援助担当の密使に伝えたのもそのときである。

 以後、援助は続くものの、音沙汰がぴたりと止み、ついには臨月間近なこの夏が来ることになってしまったのである。当然領主が避暑に来る慣例が行われるなら、その場で何らかの行動が起こされるはずである。彼女たちは期待と不安の気持ちの中でそのときを待っているのであった。

 影で蠢く計略を知らずに。


   *


 その日の領都の夜は、いささか風が足りない、寝苦しい夜だった。

 初老の領主、バレンタインは、就寝の時間ではあるが、未だ執務着の正装のまま、数人の家臣と宅を囲んで額をつき合わせている最中であった。


「確実な情報ではありませんが」


 質実剛健を絵に描いたような男が搾り出すようにそう呟いた。国の内外問わずその評価の高い、バレンタインの信頼厚い騎士団総隊長のガレオンである。齢四十半ばと領主と年齢の近い間柄で、武門の中では最も領主と近しい間柄であると囁かれる傑人であった。

 そんな武門の英傑が、苦渋の色さえ浮かばせつつ、卓上の領地概観地図、その南の一点を指差した。


「南方グレイヴリィ卿に、剣の動きがございます」


 ここでの剣の動きとは、何らかの大義名分を得たうえでの、侵略行為を意味する。

 自由経済を推奨するバレンタインや周辺諸国の追従する風潮の中、頑なな管理政策を揺るがさない国が、バレンタイン領の南に接するグレイヴリィ子爵領であった。

 国王の下、大陸にひしめく百あまりの諸侯が支配する各領土の間には、様々な思惑を下にした争いが耐えたことはない。大陸をほぼ平定した国王でさえ、その政治力を活かすために潰した諸侯も数知れない。大戦後三十年余りが経つが、未だに戦国の気質を失っていない大陸の雰囲気は、いまだ中央はおろか各地辺境に根強く存在していた。


「さぞ、憎らしく思っているのであろうな」


 バレンタインが重い口を開き、緑葉に眼を留める。

 武断政治の根幹を握る封建政策を揺るがしかねない、大陸北方の自由経済の象徴がそこにあった。


「いえ、その経済力が欲しいものと考えます」


 総騎士団長ガレオンの口調は、この動きの根幹を断定したような口調であった。


「税が高ければ商人は素通りするでしょう。運搬に税をかけるとかの地の組合頭も首を絞められる結果になりますから、現状で困窮しつつある経済状況を打開する最も確実で安心な方法であるといえましょう」

「グレイヴリィが攻め入ってくると?」

「……兼ねてから申し上げていたように」


 と、ガレオンは領境を指でなぞる。


「遅すぎると思っておりました」


 諸侯が他の領土へ攻め入るためには、大義名分が必要となっている。

 何らかの名分を掲げる思案がついに付いた、と見るべきだろう。


「あくまでもこれは状況での話ですが」


 これはバレンタインの傍らに控えていた文人風の男の言葉である。


「鉄と金の動きが、グレイヴリィに多く流れている傾向が見受けられます。早ければこの夏にでも仕掛けてくる可能性が充分に」

「今年の旅遊はお止めになるのが賢明でしょう」


 ガレオンは緑葉を指差して、バレンタインを軽く見遣りつつ呟いた。


「領主自ら虎口に飛び込む真似は見過ごせませんゆえ」

「確かにな」


 バレンタインは頷くも、脳裏に愛妾の面影を去来させ未練がましく首を振る。

 彼は、いざとなれば領都に召喚すれば良いと、このとき考えていたのだ。


「今は百五十三の騎士団を、国防にまわすのが先決かと。南方をグレイヴリィに封鎖される状況ですが、北も東西も海ですし、辺境区の民族もおよそ我らに刃向かう状況ではありません。安心して南方にのみ陣を張れる状況でありましょう」

「備蓄は? 兵站は保てるのか」

「およそ三年」

「……どちらにせよ、ひと夏越えればどうとでもなるか」


 バレンタインの断ずる限り、性急なグレイヴリィの『名分』は、およそ恒久的なものではなく、一過性の時限名分である可能性が高かった。長引くことはグレイヴリィの周辺諸国が快く思わないだろう。彼らは時期を断じ、凌げさえすれば良いとさえ考えていた。


「さて、何を掲げて来るものやら」

「民たちの動揺は避けなければなりますまい」

「よし、ケネスに一任しよう」


 バレンタインの言うケネスとは、この場には庶務の関係でいない、国務を担う大臣である。同席している文官の上司にあたる、これもまたバレンタインの信頼厚い初老の男である。


「まだ時間はあろう。ガレオン、配備の指示は任せる。……ケネスが執務宮から戻り次第、私室に通してくれ」

「了解しました」

「先のことは伝えたうえで?」と、これは文官の男である。


 バレンタインは頷く。


「寝酒も持ってきてもらおう。さすがに今宵は寝苦しいからな」

「かしこまりました」




 腹心だけの火急の会議を解散し、バレンタインは私室への廊下を明かりを掲げる世話役の使用人と足早に歩いている。人気のない石畳の廊下だが、風がないにもかかわらずひんやりとした空気に満ちていた。


「こちらにおられましたか」


 一声かけられ、バレンタインは後ろから足早に近づく男に眼を留めた。


「おおケネスか。……早いな、状況は聞いたか?」

「いえ、状況そのものは察しがつきます」

「さすがだな。……で、任せてもいいな?」

「もちろんです。そのあたりの作業は既に整えてございます」


 ふむ?


「早すぎる作業とお思いでしょうが、グレイヴリィの動きはかねてから警戒しておりましたゆえ」

「ガレオンもお前も、同じというわけだな」


 と、これは彼の心の呟きである。


「しかし、それは良いのでございます」

「なんと?」

「私がここに来たのは、グレイヴリィのことだけがあってのことではございません」


 バレンタインは眉根を寄せた。


「なんだと?」

「心してお聞きください。先ほど件の緑葉の使者から連絡がありました」


 ケネスは押し殺した声でバレンタインに耳打ちする。

「かの娼婦が、子を成したそうでございます」


 ……そのときのバレンタインの心中や、いかばかりであったであろう。驚愕と幸福とが押し寄せ、状況がしみこむにあたり、それは悔恨と絶望に彩られていく。


「なんということだ」


 崩折れそうになるバレンタインを、ケネスが支える。


「ケネス、急ぎ救出部隊を編成するのだ」

「陛下……」

「妾とは言え、あれは私の――」


 そのとき、彼の呟きに廊下の闇夜の向こうからの足音が、待ったをかける。


「陛下、なりません」


 闇夜から明かりもなく現れたのは、熟した年増女である。清楚可憐を過ぎ、豪奢愁眉を漂わせる、夏の執務着を身にまとった高貴な雰囲気を放つ女であった。


「キーリエさま」


 ケネスがキーリエと呼ぶ女は、バレンタインに肩を貸すように密着し、その耳に唇を寄せた。


「いけません陛下」

「キーリエ」


 キーリエは妖しく眼を細め、底から湧き上がるような暗い色をにじませた呟きをもらす。


「この有事火急、下賎な娼婦ごときに貴重な騎士を割くことはなりません」


 その言葉は、鉛のようにバレンタインの胸のうちに澱の如く沈んでいく。


「緑葉は捨て、南方への陣を敷くべきとき。――おわかりですね」


 このとき、バレンタインはある程度のことを知ったと言っても良かった。

 キーリエ、このバレンタインの正妻は、妾と、おそらく既に聞いているであろうその胎の中の子供までもの死を望んでいると。戦火にさらされること、敵兵の陵辱に晒され汚されることを望んでいるのだと。

 正妻の矜持であろうか。

 キーリエは歳の離れた初老の夫を、優しく支え立たせる。


「……私も、そうするべきかと」


 国務大臣のケネスも、その立場上、反対する理由もないのでキーリエの案に同意の旨を表す。


「我が領は南方のみの陸続きで、三方は海に囲まれていますが、領境を補うには騎士団の総数を見積もってもいささか少ないと言わざるを得ません。相手の名分が何にせよ、現状の把握と治安維持に割くため、余分な騎士団は、百五十三のうちひとつとしてありませぬ」


 バレンタインも十二分に理解できる状況ゆえ、この時ばかりは首を縦にした。


「……任せる。ガレオンと組み、警戒にあたれ」


 この短時間に普段は感じない重圧を幾重にも感じ、さしもの経済王バレンタインも疲れを如実に顔に浮かべている。


「さ、陛下。寝所のほうに……」


 手を引き、使用人を促し、キーリエはバレンタインを寝所へと導いていく。

 闇夜を取り戻した廊下に一人佇み、ケネスはひとつその炯眼を閉じ、踵を返し、足音を残し闇の廊下に消えていった。




 バレンタインを寝所に送ったあと、キーリエは彼の御付の使用人に厳しい眼を向ける。


「今宵聞いたことは、内密にいたせ」と、彼の瞳を凝視し、言い聞かせるように呟く。

 使用人の男は、かすかに頷き、足早に去っていく。

 時が経つたび、キーリエその妖しい瞳は輝き、口元の笑みはさらに深く刻まれるのだ。キーリエが去りしのち、重い扉の向こうでは、さらに沈鬱なため息が響いていた。

 ベッド脇に置いた、か細いランプの明かりをともしただけの部屋の窓辺に、バレンタインは佇んでいた。

 一人になったとたんに、様々な感情があふれ出す。

 キーリエとの間には、数年前にひとりの姫をもうけていた。

 愛らしく、真っ直ぐな、良い子だ。

 名はサーシャという。

 執務宮のはずれで、女官たちとキーリエが面倒を見ている。


「何を思うか、領主バレンタイン」

「貴方か」


 ベランダの片隅に、闇から滲むように一人の男が現れた。悠然と佇立した老境に差し掛かる男で、古い傷跡が縦に走るその右目は糸のように閉じられている。庭師のように平民が切る作業服に身をつつんで、領主に親しげな微笑を向け、先を促している。

 バレンタインの古い友人であり、三十年以上前に若きガレオンを推挙した傑物である。その後も大陸のみならず、世界各地を旅した男らしく、素性こそ知れないが、各地で貢献した功績は数多い。

 そんな男が数年前に骨を埋める決意をした土地が、北に大海原を臨む、このバレンタイン領であった。彼は北方辺境区で隠遁生活を送っていたが、隠者の深い知恵と武勇を知るバレンタインは、頻繁に彼を賓客として迎え入れていたのである。

 おかしなことに、彼が定住してから長い時間が経ち、気心の知れた間柄であるが、バレンタインは彼の名前を知らないままだった。彼も語らないし、バレンタインも聞こうとはしなかった。

 そこまでの間柄なので、深夜に寝所に一人現れても、バレンタインは近習を呼ぶこともせず、かえって安心した気持ちになれるのである。


「……子供が出来ました」


 バレンタインの呟きに、その老人は首をかしげる。

 それだけである程度の現状を察したように、ため息をつく。


「緑葉に、だな」

「ええそうです」

「南は今、不穏と聞く」

「ですが、騎士を派遣することが出来ません。妻も大臣も、百五十三の騎士団を動かすことはならん、と……」

「ふむ」


 老人は腕を組む。


「決まっていることに対していつまでも踏ん切りがつかない貴方ではないはずだ。何がそんなに気がかりなのか、それを知りたい」

「もちろん、子供が、イリーナが心配なのです」


 このときばかりは正直に、バレンタインは述懐を始める。


「妻との間にはサーシャがいます。しかし」


 老人は察する。


「緑葉の彼女が、もし男の子を産んだとしたら、か」


 バレンタインは頷いた。

 巨大な王国の領主ともなると、一国の国王に匹敵する。直系男子への渇望は当然ともいえよう。

 加えてキーリエとの間には、彼自身の年齢のためか、ここ数年ろくな逢瀬も無く、執心するのは夏の緑葉に赴いたときの若い娼婦ときたら、もちろん正妻に子供が出来るどころか、精神的軋轢が多分に生まれるのは避け得ない事態だろう。

 年増とは言え、まだ子を孕む可能性のあるキーリエにしてみれば、若い娼婦への嫉妬と、不甲斐ないと思われる夫への底暗い炎が芽吹いていると見て取れる。

 単純な、それでいて複雑な思惑の絡む事態である。


「私は……」と、隻眼の老人が口を開く。「私はもう、口は出すが手を出さぬと決めた生意気な隠居だからな」


 バレンタインは苦笑気味に頷いた。

 この頑健な老人が緑葉に赴いてくれることを期待していなかったといえば嘘になる。しかし、彼は動かないだろうという確信があったからこその苦笑だった。


「有事のこのとき、百五十三の騎士団に動かせる者は無し……か」


 老人はため息混じりに呟き、首肯するように目を伏せるバレンタインの肩に、このとき初めて手を置いた。


「ひとつ方法がある。聞いてみるか?」


 耳に口を寄せる老人の囁きを聞くうちに、バレンタインの瞳に輝きが戻ってくる。

 彼に与えられた一縷の望み。

 ……それは北方辺境区に向けられていた。



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