第18話 腕
思考の闇が、薄ぼんやりと白みを帯びてくる。
眠りの帳が少しずつ開きつつあるのが自覚できた。
視界の靄が晴れた先に結像したのは、見覚えのある天井。
(・・・前にもあったな、こんなこと・・・)
ベッドの感触、部屋の内装・・・僕は確かに、この環境を以前にも体験したことがある。
そうだ、あれは学校の屋上で鴉に会った日のことだ。
初めて、僕がサイトの力を使った日のことだ。
思えばあれが僕の人生の岐路だった。全てはあの日から始まったんだ。
既視感は、僕におかしな感慨を抱かせた。
戻れるんじゃないか?
まだ僕は、やり直せるんじゃないか・・・?
逃げ出した世界と、逃げ込んだ世界。分かたれた2つの世界が、この空間で奇妙に重なっているような、そんな感覚。
ここから出て、電車に乗って、家に帰れば、明日からまたあの普通の日々に帰れるんじゃないか?
取るに足りないくだらない自分が苦痛で仕方なかったけど、まだ何者でもなかった、何者にもなり得たあの頃に・・・
「・・・ぐぅっ・・・!」
ベッドの上で身を起こした途端、襲ってきた鈍痛は、僕を否応なく現実へと引き戻した。
そう、これが現実だ。銃弾の飛び交う殺し合いの世界こそが、今の僕の日常なんだ。
「あら、目が覚めたのね。」
奥の机のほうから聞こえてきたのは、要女先生の声だった。
「気分はどう?どこか具合がおかしかったりしないかしら?麻酔が切れてきて痛み出す頃でしょうし、痛み止めを出しときましょう。」
ほっとする柔らかい声が、ささくれた僕の心を撫で均してくれる。
妙な感傷によって引き起こされた何の役にも立たない未練は、温かい波に洗い流されるように溶け消えていった。
それとともに、今自分が最も気に掛けなければならない事項に思考が回る。
「・・・っ!あの女の子はっ!?水那方さんも・・・二人とも無事なんですかっ!?」
緊張しながらそう問いかける僕・・・しかし後で思えば、その時の僕は知らず知らず気が緩んでいたのかもしれない。
今までだってギリギリの状況は何度もあった。でもその度に、最終的には致命的な損失を避けることができていた。だから今度だって・・・
そういう気持ちが、油断を生じさせてしまったのかもしれない。本来持っておくべき覚悟を忘れさせてしまっていたのかもしれない。
『2人とも大丈夫。しばらく休んでれば回復するはずよ。』・・・期待していたその言葉が要女先生の唇から発せられることはなく、束の間の静寂が部屋を包んだ。
気持ち悪い間に芽生えた嫌な予感が、急速に増大していく。
「皐月ちゃんのほうは大丈夫。しばらく休んでれば回復するはずよ。」
もちろんそれはうれしい事実に違いない。大腿部を撃ち抜かれて元気な見た目よりずっと危険な状況にあったはずだ。
決して楽観できなかったにも関わらず無事だったのだから、胸を撫で下ろすに値する幸運といえる。
しかし、だからといって、その返答が示す不吉さに気付かないでいることは出来そうになかった。
「あの子は・・・あの、女の子のほうは・・・?」
答えが恐ろしくて、口に出すことも憚られる問い。
それを躊躇いながらも発し得たのは、どこかで覚悟が足りなかったからかもしれない。
いつだって、危機は皮一枚で僕の傍らをすり抜けていった。この身を貫いた弾丸すらも、僕に悲劇をもたらすには力不足だった。
今回だってそうだ。次の瞬間には要女先生の顔がほころび、「大丈夫よ。軽傷だったから」と、そんな言葉が出てくるに違いない・・・
しかしそんな僕の根拠のない見通しとは裏腹に、先生の瞳から険しい光が消えることは、ついになかった。
・・・嘘だ・・・嘘だ・・・嘘だ・・・
病室を飛び出した僕は、少女の収容された病室へと向かった。重い足を引き摺りながら、それでもこの目で見るまでは、先生の話を信じることなど到底できなかった。
病室のドアノブに手をかけた僕の耳に、啜り泣くような声が聞こえてくる。
芹花さんの声だ。
もはや希望的推測は僕の頭から完全に吹き飛んでいた。
震える手に力を込めて、ドアを押し開ける。
ベッドの上には、少女の安らかな寝顔があった。
傍らにしなだれかかって伏せた芹花さんが、のそりと顔を上げる。
「龍・・・っ、龍・・・っ!!」
ふらりと立ち上がった芹花さん。病人のように歩み寄る彼女に、僕は何も声を掛けることができなかった。
僕の胸に埋めたその頭を、頼りない肩を、抱き留めてあげることもできなかった。
芹花さんが守ろうとしていた少女・・・そのか細い体躯に掛けられた毛布が、僅かながら規則的に上下しているのが分かる。
それは、少女が幸運にも一命を取り留めたことを示していた。
「どうして・・・どうしてこんなことになったんですか・・・っ!」
背後のドアに沸いた気配に向けて、僕は苛立ちを吐き捨てた。
そこにあったのは要女先生と、おそらくは少女の執刀にあたったであろう槇島さんの姿。
「あんなに余裕見せといて結局これですかっ!?あんな怪我一つ治せないなんてどんな腕してるんですか・・・っ!?」
「随分な言われようね、でも彼はあなたにそこまで見下されるような医師ではないのよ。」
反論する要女先生の冷静さが癪に障る。
「手術前、私は会話を通じてあなたの状態を確認してたの。大丈夫だと判断したからあなたに私がついた。あなたの意向を尊重して、その子のほうに最良の医師を割り当てたんだから。」
「・・・それって・・・」
「私の本来の専門は内科と薬学だしね。それなりに真似事は出来てるつもりだけど、槇島クンのような一流の外科医には流石に敵わないかな。」
少し悔しそうな口調には、空気にそぐわない子供っぽさが混じっていた。
「繰り返すけど、私たちにとってはあなたの保全が第一優先事項。あなたを差し置いてその子に槇島クンをあてたのは普通あり得ないことよ。」
「だったら・・・っ!」
「聞くところによると・・・」
食いかかる僕の言葉に被せるようにして、槇島先生が話し始める。
「あなたは窓ガラス越しにその子の腕を射撃したらしいですね。」
「・・・それが、どうかしたんですかっ。」
「いえ、私は大変感心しているんですよ。射線の計算ができないガラス越しの射撃で見事に事態を切り抜けてみせた。報告にあった状況下で少女を殺さずに薄野さんを救った。その腕前は神がかりとしか言いようがない。」
急に歯の浮くような賛辞を並べ始める槇島先生に、僕は言い知れぬ気味の悪さを感じていた。
違う、僕が今求めているのは称賛じゃない。説明だ。その神がかりがなぜ無駄になったか、その弁解だ。
腕利きの外科医じゃなかったのか?だったらなんで銃創の一つすら治せないんだ。おかしいじゃないか!
「窓ガラスを貫通するとき、衝撃で弾頭が潰れてしまっていたようです。」
そんな僕の困惑に、槇島先生の言葉が穴を空ける。
その現象がもたらす効果が、組織で銃の知識を植え付けられた僕には、何となく察することができてしまった。
「本当に、運が悪かったとしか言いようがありません。歪に変形した銃弾は、少女の体内に侵入した際に大きな抵抗を受け、運動エネルギーを周囲の組織に巻き散らしてしまいました。」
医者が発する“残念そうな声”ってのは、こんなに他人事のような、空々しい響きがするものなのか・・・それが率直な感想だった。
「上腕の腱と神経が広範囲でダメージを受け、機能を回復させるにはもう手遅れの状態でした。加えて、極めて稀なケースと言えますが、敗血症の症状がすでに出始めていました。おそらくは今回の怪我を負う前に、既に何らかの感染症を抱えていたのでしょう。」
並べられた用語の全てを理解することは出来ないが、しかし客観的にもどうしようもない状況だったことが伝わってくる。怒りの向ける先を失い、出口を塞がれた熱がぐつぐつと腹の奥で煮え暴れ始める。
「さらには栄養状態も芳しくなく、私としてはこれが精一杯でした。せめて命を救うためにも、右腕切断という選択をするしかなかった・・・力が及ばず申し訳ございません。」
深々と頭を下げた槇島先生が、見上げるようにして言葉を継ぐ。
「白峰さん。決してあなたのせいではありません。どうか自分を責めないでください。」
僕のせいじゃない? 何を言ってるんだこの先生は・・・?
僕が何をしたって・・・
そこでようやく、僕は自分の蒙昧さに気付いた。気付いたというより、知らず知らず目を背けていたのを悟ったというのが近いか。
何をした、だって?
僕じゃないか、どう考えても僕のせいじゃないか。それを棚に上げて何を他人に突っかかってるんだ。
恥知らずにも程がある。
僕だ。僕がやったんだ。
撃ったじゃないか、僕が・・・僕が奪ったんだ。あの子の、腕を・・・
「・・・ん、んんっ・・・」
ベッドのほうから、か細く消え入りそうな呻き声が、しかしこの静まり返った束の間をついてはっきりと響いた。
「・・・っ!おまえっ・・・!?」
声を上げて弾かれたように駆け出し、ベッドの側へと張り付いた芹花さんを、2人の先生が追いかけていく。
「・・・ん、んぅっ・・・ん・・・?」
少しだけ上体を起こし、少女がゆっくりと目を開いた。
状況を把握できているのかいないのか、自分を取り囲む面々に、きょとんとした表情で順番に視線を移ろわせている。
僕は、その輪に加わることができず、遠間からその様子を眺めていた。
近寄ることも、逃げることもできない。
心臓のあたりがやたらと痛い。
ついに起きた。目覚めてしまった。
いっそのことずっと目覚めないでいてくれたら・・・そんな恐ろしい考えが浮かんでしまうのは、僕の胸にそれ以上の恐怖が巣食っていたからだ。
寝起きの微睡みの中にいる少女。おそらく彼女はまだ気付いていない。
しかしもうすぐその瞬間がやってくるはずだ。
ブランケットに包まれたその身体の異変に気付く瞬間が・・・
その時、彼女は果たしてどんな顔をするのか。想像するだけでどうにかなりそうだった。
「だ、大丈夫かっ・・・?気分とか悪くないか?」
少女の膝あたりに縋り付いて必死に語り掛ける芹花さん。そんな彼女に手を伸ばそうとしたのか、少女の右肩が微かに動く。
その瞬間、少女の胸元まで深々と掛けられていたブランケットが、はらりとはだけた。
包帯で固められた、あるはずのものが無くなった先端が露わになる。
首を傾げた少女の視線は芹花さんから外れ、ゆっくりと己の右腕があるべき空間へと移った。
もう限界だ。吐きそうだった。頭がクラクラし、目の前が真っ暗になる。
少女が見せるであろう恐怖は、絶望は、錯乱は、全て僕が生み出したものだ。それらがどれ程の痛みを伴って僕の胸に突き刺さるのか、想像もつかなかった。
「うぅ・・・くぅっ・・・!ううう・・・」
耐えられずに泣きだしたのは、芹花さんだった。まるで自分の一部を失ったように悲嘆に沈む芹花さんの嗚咽が、死にたくなるほど辛い。
自分の右腕から、目の前の芹花さんに視線を戻す少女。
その眼差しは、なぜか不思議な程に静かだった。
相変わらず少し首を傾げたまま、残った左腕を真っすぐに芹花さんへと伸ばす少女。
その掌が、そっと、芹花さんの頭に触れた。
次の瞬間、少女の唇から漏れ出た言葉を、僕は一生忘れることができないだろう。
「・・・ど、したの?・・・いたい、の?・・・かなしい?」
恐怖でも、絶望でも、怨嗟でもなく、純粋な心配の色が、その声には篭っていた。
こんなことがあるのか。あり得るのだろうか。
確かに気付いた筈だ。伸ばそうとした右腕が無くなっていることに。しかし少女はまるでそれが取るに足りないことのように、微塵も興味を示さずに、逆側の手を芹花さんに差し伸べたのだ。
「・・・よし・・・よし・・・だいじょ、ぶ・・・」
カーテンの隙間から、一筋の光が二人を照らす。
慈しみという言葉を、概念そのものを具現化したような、奇跡の光景がそこにあった。
驚きの表情で少女を見詰めたまま固まった芹花さんの横顔に、要女先生がゆっくりと語り掛ける。
「その子はおそらく、傷つき、失うことが当たり前の日常を過ごしてきたのでしょう。その子にとっては、そんな自分を誰かが悲しんでくれることのほうが、はるかに想像の及ばない異常事態なのよ。
あなたなら、あなたになら分かるでしょう?芹花さん。」
芹花さんに応える余裕はない。頭上の少女の手を握り締めて、祈るように泣き続けている。
「さて、お嬢ちゃん」
要女先生はそんな芹花さんを尻目に、今度は少女のほうに呼び掛けを発した。
「あなた、お名前は?自分の名前は言える?」
「・・・な、まえ・・・?」
「そう、名前。」
「・・・なまえ・・・あたし、なまえ、は・・・『オイ』」
「え、『オイ』、ちゃん?」
「・・・うん、『オイ』」
繰り返し答える少女に、どんな字を書くのだろうという疑問が浮かんだが、直後にその回答が示す意味を理解した。要女先生も同じようだった。
この少女には、名前が無いんだ。
あったとしても、随分の間呼ばれていないのだろう。この子はただ、『おい』としか呼ばれずに生きてきたのだ。
「お嬢ちゃん、新しい名前、欲しくない?そこのお姉ちゃんが付けてくれるって。」
バッと顔を上げて何を言い出すんだと言いたげな視線を送る芹花さんを無視し、要女先生は少女を見詰め続ける。
「・・・あたら、し・・・な、まえ・・・? ねぇちゃ、が・・・?」
「そう、嫌かしら?」
「や・・・じゃ、ない・・・うれし・・・」
そう返事しつつ、ゆっくりと、少女が笑った。
僕にとって初めて見る、彼女の笑顔。
思わず息を呑む。
もし天使がいたとしたら、多分こんな風に笑うのではないか・・・そんな笑顔だった。
「うんっ、うんっ、分かった。私がばっちりな名前考えてやるよ。楽しみにしてろよな。」
堪え切れなくなったように少女を抱きしめ、芹花さんが宣言する。
少女は片腕を芹花さんの背に回すと、子犬のように目を細めて、幸せそうな表情を見せた。
「芹花さん、あなた、その子の保護者になりなさい。その子はこの先1人で生きていくことなんて到底できないでしょう。あなたが生きる価値を自分で見出せないなら、その子のために生きなさい。それは、あなたにしかできないことよ。」
肩越しに要女先生の言葉を聞きつつ、芹花さんは何度も何度も頷いていた。
トランクを引いてアジトから出ていく前の、透明な、今にも消えていってしまいそうな芹花さんの姿は、もうここにはなかった。
ようやく、終わったんだ。
苦しく戦いの果てに、今度こそ、ミッションの本当の終わりに辿り着いたのだろう。
その果てに見えた、深い傷を包み込む優しさの光景。
僕の目に、それは、残酷な現実を切り開く一筋の希望に映った。
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