第16話 傀儡 ――その①

「雪・・・か・・・」

はらり、はらりと舞い落ちる氷の花弁が、芹花の肩の上で静かに消える。

純白に染まった空に、冷たい太陽の影がぼんやりと浮かび上がっていた。


少女の手を引きつつ辿り着いたアパートは、小綺麗ながらも造りの古い2階建ての家屋だった。

書類に書かれていた芹花の部屋は1階102号室。

駐車場に面した広い窓からは、一通り必要最小限の家具が揃った室内を見通せる。

(カーテン・・・は、必要ないか・・・)

人気の乏しい閑静な地区の上にこの奥まった立地では、そうそう通りがかる人もいないだろう。何より明日を考える必要のない芹花に防犯上の配慮は無用だった。


部屋に入り、エアコンのスイッチを入れる。

寒さの感覚があやふやになった芹花がそれでも暖房を入れたのは、凍えるように自らの肩を抱く少女のためだった。


「さて、と・・・」

少女の身を包む、随分洗っていないように見える襤褸の代わりに、寄り道がてら子供服を一式ディスカウントストアで買ってきた。

こんな日だ、せめて身なりくらいは整えてやってもいいだろう。

まあしかし、目の前の少女の小汚さは、服を換えただけでどうにかなるとも思えない。

「おっ、ガスもちゃんと来てるみたいだな。おい、お前。とりあえずシャワー浴びてこい。」

ふるふると首を横に振る少女。芹花の手を掴む指に籠った力に頑なさが感じられる。

「浴びてこいよ、寒いんだろ?お湯浴びればすぐに温まるぞ。」

ふるふる。

「浴びてこいって」

ふるふる。

「あーっ、もう!オラこっち来い!女の子がそんなニオイさせてちゃダメだろ!女ってのは、男を魅了して手玉に取ってこそ一人前になれるんだよ。」

無理やり脱衣所に引き込み、少女のくたびれた衣服を剥ぎ取る芹花。

少女の手足にはあらかじめクリームを塗っておく。こうしておけばひび割れた肌にそれほどお湯が染みることも無いだろう。

浴室に入り、観念した少女を浴槽の縁に座らせ、その背に温かいシャワーを浴びせ掛ける。この時期に一緒にシャワーを浴びるのは流石に無理があるので、芹花は着衣の袖や裾を捲り上げただけの格好だ。

しばらくその背を撫でながらシャワーを掛け続けていると、次第に少女の体からは震えが消え失せ、ようやくリラックスしたように強張った筋が解れてきた。

(暴れたりする心配はなさそうだな・・・)

芹花は少女の髪を丁寧に濡らし、手に取ったシャンプーでわしわしと洗い始めた。

頭皮をマッサージしてやると、少女は気持ちよさそうに目を細めて頭を揺すった。

「どうだオネーサンの洗体テクニックは?天国の心地だろ?」

コクリ、と頷く少女。

どうせジョークの意味も分かっていないだろうが、こんなやり取りも存外楽しめるものだった。

もこもこに泡立った頭を、シャワーで洗い流していく。

泡の下から現れたのは、痛みが目立つものの年相応の艶を放つ黒髪。

「よし可愛くなってきたぞ。やっぱ女の子はこうじゃないとな!」

芹花が胸を張ったその直後、少女がぶるぶるっと頭を振るい、盛大に飛沫を撒き散らした。

「うわっ、おいおいやめろっ!犬かよ冷てぇっ!」

なんだこの死ぬほど鬱陶しい生き物は。

私はどうしてこんなに甲斐甲斐しくこいつの世話を焼いているんだ。

穏やかに薄まりゆくのを待つだけの・・・雪原のように白く染まった筈の心に、自分も知らなかった色がぽこぽこと湧き出てくるのが、どうにもむず痒い心持ちだった。


しかし、予定は何も変わらない。この少女の存在は、自分の運命に一瞬だけ交わった迷い猫、水面を僅かに揺るがせた小波に過ぎない。

シャワーを終えて少女に服を着せた芹花は、再び居間に戻り、ぺたりと床に座り込んだ。

ショルダーバックの中から拳銃を取り出す。

あいつの銃。私が最も信頼する、大切な相棒の銃・・・

芹花の目の前では、おろしたてのチュニックに身を包んだ少女が三角座りでこちらをじーっと見つめている。

(・・・そうだな、決めた。そうしよう。)

芹花は少女の手を取り、銃のグリップをそっと握らせた。

「いいか、これがトリガー。ここにこうやって指を掛ける。そう、そうだ。いいぞ・・・」

この少女にも、自分の未来は自分で選ばせる。

多くのことは理解できないであろう少女にどうやってそれを分からせるか、芹花はつい今しがたまで考えあぐねていた。

「いいか気を付けろよ。しっかり両手でグリップを固定して、そのまま指先に力を入れれば、バーン!だ。大丈夫、子供の力でも充分に引ける。」

少女の手を両側から包み込んだまま、芹花はその銃口を誘導していく。


やがて、その先端が、芹花の胸の真ん中に埋められた。


「お前が、撃つんだ。それが条件だ。」

何をやろうとしているのか、どういう結果になるのか、分かった上で自分自身についての判断をさせる。

だから、こいつにやらせる。そして、私の有様を見せる。

そうすれば嫌でも理解するだろう。

私の後に続くか、怖くなって逃げ出すか。そこからはもうこいつの勝手だ。

「それが出来ないなら、今すぐ出て行ってもらう。」

芹花が少女に与える、絶対の選択肢。

それ以外を許容するつもりは全く無かった。


芹花の胸に銃を突きつけた態勢で、しばらく固まったままの少女。

その腕は次第に脱力し、ついには銃身が床に当たってコトンと音を立てた。


「できないか・・・じゃあ出ていくしかないな。さあ立て。」

ふるふる、と首を振る少女。

「だったら撃てよ。ほらっ」

芹花は少女の手を掴んで引き上げ、銃口を再び自らの胸へと導いた。


しかしやはりその照準は僅かしかもたず、またしても銃は小さな手とともに床へと転がってしまう。


芹花は心の中で、小さく1つ溜息を吐いた。

まあ、こうなるのは当たり前だ。ハードルが高すぎたのは自覚している。

それならそれで、芹花にとっては何の問題も無かった。

「オーケー、もう時間切れだ。」

芹花は少女の腕を鷲掴みにし、強引に引き立たせた。

「う~~っ!う~~っ!」

不満げな唸り声にも、芹花は一切耳を貸さない。

仕舞いにはしゃがみ込んで抵抗する少女だったが、体力的に優秀とは言えずとも組織でハードな鍛錬を積んできた芹花の前では無意味だった。

少女を放り出し、初めの予定どおり一人で全てを済ませる。最初の計画に立ち返るだけだ。

やっぱりそれが一番だ。この少女に聞き分けが無かったことに、こうやって放り出せることに、芹花はどこかほっとしていた。

玄関のドアを開け、少女を追い詰め、なお踏ん張る少女を蹴り出そうと足を振り上げる芹花。


その瞬間、耳に届いた言葉に、芹花は思わず動作を止めた。


「・・・つ・・・からぁ・・・撃つ、からぁ・・・っ!!」


本当なら迷うまでもない。この子のためにもこのまま締め出してしまうべきだ。

そう分かってはいたものの、芹花はもう一度だけ、少女にチャンスを与えることに決めた。

“撃つ”と、少女はそう口にした。

自らの意思を、初めて明確な言葉にした。

おかげで思い出す。

これまで自分の意思を通すことなど叶うべくもなかったであろう彼女に、たとえどんな結果になろうと、自分で自分のことを決められる機会を作ってやろう・・・それがそもそもこの少女の同行を許した理由だった。


芹花は少女とともに居間に戻り、温もりの残る木の床にぺたんと2人で腰を下ろした。

さてやり直しだ。

「ほら、撃てよ。」

芹花はそれ以上何も言わない。何も導かず、黙って少女のことを見つめる。

もう一切、手伝ってはやらない。


自分で銃を取る少女。


まるで巨大な鉄球でも持ち上げるかのように難儀な様子で、しかししっかりと両手で握りしめて、少女は銃を持ち上げる。

今にも泣き出しそうな顔で、それでも相手を真っ直ぐ捉えたその視線に、芹花は幼気な少女が振り絞る決意を感じていた。

(そういう顔も、できるんだな・・・)

それはちょっとした感動だった。

もしかしたら、自分には人を見る目が無いのだろうか。

龍のことだってそうだ。出会った当初、私はあいつの強さをまるで見抜けなかった。

本当は私なんかが色々と気を回すなんておこがましいのかもしれない、誰だって、自分で歩く足をちゃんと持っているのかもしれない・・・

震えを抑え込んで自分と相対する少女は、芹花にそんな考えを抱かせた。

少女の持つ銃の照準が、芹花の胸の真ん中に据えられる。

一人の少女が自分の力で一歩を踏み出す瞬間。

倒錯的な感傷かもしれないが、それを見届けるというのは、最期の迎えかたとしてなかなか悪くないように思えた。


しかし、そんな充足感に浸りながらの終焉を、芹花が享受することはできなかった。


「う・・・う・・・うああああん!!」

遂に耐え切れなくなった少女の瞳から、大粒の涙が次々と零れ落ちた。

手中の銃は支持を失い、再び床へと力なく投げ出される。

「やらっ!やらああああっ!!」

まるで赤子のように泣きじゃくる少女を前にやれやれと頭を掻きながら、芹花は問いかけた。

「できないってことは、今すぐここを出ていくってことだ。それでいいんだな?」

「やらあああっ!!」

「じゃあ、撃てるか?」

「いやっ!いやっ!やああっ!!」

じたばた手足を振り回す姿は、もはや幼児の駄々である。

(はぁ、全く・・・)

先程の感心を返して欲しいものだ。

ぐずる少女の様子を眺めて、芹花は今度こそ心を決めた。


この子を放り出そう。やっぱり私に付いてきちゃダメだ。


別に、興が削がれたとかそういう理由ではない。

ただ黙っているだけでなく、提示された2択の中でのみ考えるわけでもなく、たとえそれがどんなに幼稚なわがままであっても、こうやって目一杯の意思表示をしてみせる少女。

理不尽を土台からひっくり返そうともがく力・・・それは、かつて放り込まれた売春宿においてさながら呼吸する屍だった自分には、欠片も残されていなかった“生きる力”だ。

むしろ拙い駄々であればこそ、やがて少女が自分自身の未来を取り戻す希望になり得るかもしれない。

たとえか細い光であっても、人生に待ち受ける過酷な風雨の前ではあまりに心許なくとも、健気に立ち上がろうとする幼木の強さを少女に感じてしまった以上、芹花はもう少女と運命を共にする気は無かった。


アパートから追い出したら、どこか近くの児童相談所に電話だけは入れておこう。

風呂にも入れて服も着替えさせてそれなりにさっぱりした見てくれにはなった。

これだけでも、受け入れ先の対応はかなり違ってくるはずだ。名分がどうあれ、厄介者には関わりたくないとばかりにぞんざいになる輩はどこにでもいるものだ。


その後どうなるかは、この子次第。


それを私が見届けることはない。


それでいい、私の存在は、もはや彼女を縛る枷でしかない。私はもうこの子の傍にいるべきではない。

(最後にお前と過ごせてよかったよ。)

芹花は立ち上がり、少女の傍らの銃を取り上げるために手を伸ばした。

「こいつはもう不要だな。返してもら・・・」


その時、芹花が目の当たりにしたのは、奇怪な光景だった。


少女の手が、銃を掴んでいる。

そして、それをゆっくり持ち上げている。


少女の視線は、芹花でなく、真っ直ぐに銃のほうを向いていた。

その瞳に浮かぶのは、疑念。

そして、恐怖。

少女自身、目の前で起こっていることが全く理解できないといった面持ちで、自らの右腕の動きを凝視していた。

その銃口の向けられた先は、芹花の胸元。

目に涙を浮かべて、違う違うと首を横に振りながら、少女は芹花に銃を突き付けた。

芹花は、この状況をどう解釈していいかまるで分からず、呆然と立ち尽くしたまま少女の所作を眺めていた。


これは、何なんだ?何が起こってるんだ?

撃たれるのか?私は・・・


止めるべきなのだろうか?いやでもどうして止める必要があるのか。

その鉛球を受け入れることは、むしろ本望ではないか。

しかしこの少女にとってはどうだ?

このまま、こんな状態で撃ってしまって、本当にいいのか?

分からない。

何が正しいのか、自分は何を望んでいるのか。コロコロ状況が変わりすぎて次第に頭が追い付かなくなってきた。

事態に向き合うだけの気力すらも、底をつきつつあった。

アジトを出た時の状態からすれば、ここまで少女の面倒を見たこと自体が奇跡に近い。


だが、もうそれも限界だった。


「いやっ!!らぁめっ!!やらあああああああっ!!」


絶叫を上げつつ銃を構える少女の、トリガーに掛かった指に力が込められるのを、芹花は他人事のように見つめていた。







パァン!! パァン!!






けたたましい銃声が、少女の叫びとともに、昼下がりの住宅街の静けさを切り裂いた。

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