第15話 追跡 ――その②

乾いた銃声が、コンクリートの壁面に反響し大きく鳴り響いた。


芹花の足元には、不幸なベトナム人売人が、驚愕の表情を浮かべたまま倒れ伏していた。

滔々と流れ出る鮮血が煤けたアスファルトを染める。

自らが生み出した骸を見下す芹花の顔に表情は無い。

それは、どこまでも透明な眼差しだった。

(さて、と・・・)

サプレッサーも通さずに撃ったのだ。これだけ喧しい音が聞こえたら、様子を見に来る輩もいるかもしれない。

今更こそこそと身を隠す理由もないが、面倒なことになるのは避けたかった。

その場を離れようと踵を返したとき、芹花が目の当たりにしたのは、


呆然とこちらを眺めている、1人の少女の姿だった。


(ちっ、見られてたか・・・)

心の中で些細な不運に悪態をつく芹花。

病的なまでに青い顔で、肩を震わせながら、少女は立ち尽くしていた。

いくらこんなゴミ溜に出入りしているとはいえ、10代半ばにも満たないように見える少女にとって人死にはショックな出来事に違いない。

(騒がれたら厄介だな。)

まあ、軽く脅しておくだけで充分だろう。

そう判断した芹花は、少女に向かってドスを利かせた声を発した。

「おい、お前。今見たことは・・・」

そこまで口にして、芹花は少女の様子に言い知れぬ違和感を覚えた。

具体的にどこがおかしいというわけでもないが、例えるならば、意思を持たないロボットがプログラミングされていない状況に遭遇し困惑しているような、そんなぎこちなさ。

よくよく見れば、芹花はその少女の顔に見覚えがあった。

あれは確か、このあたりを初めて龍を連れて回ったときだったか・・・


そうだ、あれはベトナム人売人からドラッグを買っていた“客”だ。


禁断症状の繰り返しで身も心もボロボロなのだろう。

今も相当危うい状態に見える。

ここまで中毒が進んでしまっていたら、生きていたとしてもこの先地獄が続くだけだ。

「・・・う・・・う・・・」

少女の口から微かな呻き声が漏れ始めた。真冬にも関わらず汗がダラダラと流れ落ち、反面凍えるように顎を鳴らしながら一層激しく震えている。

発作の兆候だ。

芹花は知っていた。このまま発作が酷くなったら、出口の無い悶絶の沼へと引きずり込まれたら、死をもたらす銃弾さえ救いと感じられるようになることを。

そして、その“救い”は、今、自身の手の中にあった。

これもあるいは運命なのかもしれない。

現世での目的を失い、もはや抜け殻と同じ私を操っているのは、神の意志。

この少女の魂をともにつれていくことが、私に与えられた使命なのだ。

罪悪感は無かった。

罪悪感の源となるべき“私”の存在は、芹花の中で限りなく薄まり、消滅していく。


仕舞ったばかりの鉄の塊を再び取り出すべく、ショルダーバッグに手を突っ込む芹花。

そして、手に当たった“それ”を目の前の少女に向かって差し出した。


(・・・何をやってるんだ、私は・・・)

まるで理解の及ばない自らの行為に、芹花の意識には急速に“私”が立ち返っていた。


自らの手が掴んでいたのは、発作を抑える治療薬、代替オピオイドが入ったタブレットだった。


苦しそうに呼吸を乱しながらも、不思議そうに小首を傾げてこちらを見上げる少女。

芹花がタブレットから薬を一粒取り出して掌に置くと、少女は何の疑いもなく犬のようにそれを舐め取り、嚥下した。

もはや正常にリスクを推し量る判断力すらも失われているのだろう。

どうしようもなく悲しい現実だが、今はとにかく抵抗せず飲んでくれたことが有難かった。

あの売人が捌いていたドラッグの種別は把握している。この代替オピオイドとの相性はいいはずだ。

幸いなことに投薬は功を奏し、少女の顔は徐々に色味を取り戻していった。

分かっている。薬で症状を抑えたとしても、得られるのはあくまで一時の平穏。継続的な服薬とセラピーを施さなければ何の意味もないのだ。

薬をタブレットごとくれてやったとしても少女が自制を利かせて服薬量を調整できるとは到底思えない。

少女の面倒を見続けることなどできない自分が気まぐれに手を差し伸べるのが極めて無責任な行為であることは、理解していた筈なのに・・・

「・・・ちっ」

自らの愚行を我慢できずに1つ舌打ちを漏らした芹花は、苛立ち紛れに哀れな少女を睨みつけ、身を翻した。

早くここから離れよう。

これ以上ここに留まっていたらいよいよ人が集まって来かねない。

足を踏み出そうとした芹花は、しかし、カーディガンの上に重ね着たコートに妙な重みを感じ、振り返った。


コートの裾を、少女のひび割れた小さな手が捉えていた。


気まぐれの行為が最も厄介な事態を引き込んでしまったことを、芹花は悟った。

その手を振り払うため、足を早めてぐいぐい前に進む芹花。

けれども少女は、その裾を執拗に掴んだまま離さない。

歩幅の違いで置いていかれそうになっても、必死に小走りで付いてくる。

「っ!いい加減にしろ!」

遂に耐え切れなくなった芹花は、少女の指をコートから強引に毟り取った。

「いいか!私はお前を保護してやる気なんてねえ!ちょろちょろ付いてくんな鬱陶しい!」

大声で怯ませ、その隙に逃げるように少女を引き離す。

にも拘わらず、間を置かずに背後から追いかけてくる息遣い。

か細い指が再び芹花の上着を捉えるのに、さして時間は掛からなかった。

(・・・まるで、犬だな。)

芹花は絶望的な気分で頭を抱えた。

ペットがいたらこんな感じなのだろうか・・・飼った経験のない芹花には想像しかできない。

「あのなぁ、私に付いてきても仕方ねぇって言ってんだよ。すぐにまたお前しかいなくなる。独りぼっちに戻るだけだ。意味ないだろ。」

聞いているのかいないのか、少女は説得にまるで反応を示さず、ひたすらじーっと怖いほど無垢な眼差しを向けてくる。

もはやどんな言葉も無駄に思えた。

この少女に関わってしまったことを芹花は後悔しつつも、今更無かったことにはできそうにないと諦め始めていた。

少女に向き直って膝を折り、顔を突き合わせる。

「私が向かう先には、未来なんてねぇ。結局お前が選べるのは、一緒に終わらせるか、終わらせずに1人になるか、だ。」

コクリ、と頷く少女。おそらく意味を理解してなどいないだろう。

それを察しつつも、その肯定的な反応に、芹花はようやくこの少女と意思疎通が叶ったような妙な錯覚を抱いていた。

「私はお前を導いてなんかやらねぇぞ。決めるのはお前だ。自分で決めるんだ。

それでも、来るか?」

コクリ。

(・・・やれやれ)

私は、罪深いことをしようとしている。まともな倫理観の持ち主なら、私を罵倒し、蔑むことだろう。

だけど、本当の地獄を知る者には、別の道理だってある。

肥溜めの世界に閉じ込められ、逃れる道を知らない少女・・・たとえそれがどのようなものであれ、何か1つでも別の選択肢を与えられるべきじゃないだろうか。

立ち上がって少女に背を向けつつ、芹花は後ろ手で少女に手を差し伸べた。

おずおずと手を伸ばす少女。

その掌が、遠慮がちに芹花の指先を包んだ。


振り返って少女の顔を見たとき、芹花は思わず息を呑んだ。


・・・笑ってる。


それは、さながら心の欠落した人形のようであった少女が、初めて見せた笑顔だった。




--------



「ちっ、何で俺がこいつらの尻拭いしなきゃいけねぇんだっ」

運転席で舌打ちする鉄真のぼやきを聞き流しつつ、僕はナビに映し出された赤い印・・・芹花さんの所在を示す座標を凝視していた。


鉄真の運転する車に乗り、芹花さんのいる場所へと急ぎ向かう僕ら。

後部座席にいるのは僕と水那方さん。

作戦に参加しているのは、これにディーネさんを加えた4人だ。

作戦書に鉄真の名前を見つけたときは驚きもしたが、今回、追跡の足として最も都合がいいのが車である以上、合理的な人選といえるだろう。

水那方さんも、そして一応僕も、車両運転の研修を積んではいるが、あからさまな未成年が日の高いうちから公道を運転するのはかなりのリスクがある。

鉄真の助けを借りることに多少の心理的抵抗はあったけれども、今はなりふり構っていられなかった。


芹花さんは、組織が用意したアパートにいると考えられた。

居場所の推測が可能なのは、ディーネさんのおかげだ。

芹花さんの携帯は、OSがリストアされたとはいっても、万が一の時にいち早く対処できるようディーネさんによってバックドアが仕掛けられていたらしい。

「せりりんに直接連絡取ったりもできるの!?」

水那方さんが食い掛かるようにそう尋ねたものの、ディーネさんから返ってきたのは否定の言葉だった。

『無理だね。もう電源が切られちゃってるから。システムにロギングされた最終座標はアパートの部屋だったから、今もそこにいる可能性は高いけど』

ログから得られた位置情報は、ディーネさんが構築したクラウディネットというシステムを介して、車のナビに直接投影されている。

ちなみにこの車そのものもクラウディネットに組み込まれたデバイスの1つである。

アジトの建物を出たときは、自動運転で近付いてくる無人の車に随分と驚かされた。

公道も自動走行できる性能を備えているが、複雑な交通状況における即応性ではまだ人間に分があるらしい。


『この先10km地点で検問が始まってるみたいだね。渋滞になる可能性もあるし迂回したほうがよさそう。』

各自耳に装着しているイヤホンからもたらされるディーネさんの情報を基に、鉄真が経路を選択してアクセルを踏みしめる。

僕はというと、座席に座ったままひたすら到着を待つのみだ。

ディーネさんも、鉄真でさえ芹花さん追跡のために役割を果たしている中、何もできていない自分がもどかしかった。


芹花さんの望みは、何なのだろう。

芹花さんの傍に、僕の銃があるのだとしたら・・・彼女は何を撃とうとして、それを持ち出したのだろうか。

芹花さんがアパートの自室という“落ち着ける場所”にすでに到着している事実が、僕にはどうしても不吉に思えた。

自分一人の世界に沈み込める環境が彼女に与えられ、そこで携帯の電源が落とされてから、もうかなりの時間が過ぎてしまっている。

そういう時間が続くのはまずい。

どこまでも透明でありながら、じわじわ心を蝕む・・・そんな致死性の時間があることを、僕は知っていた。

何でもいい、誰でもいいから、芹花さんの傍にいて、彼女の気を紛らわせてくれていたら・・・あり得ないと知りつつも、そう願わずにはいられなかった。


『それじゃ、ここで緊急の追加オーダーを伝えるね。』


その時、不意に発せられたディーネさんの言葉はあまりに唐突すぎて、理解するのに一瞬の間が必要だった。


「つ、追加オーダー??」

思わず間抜けな声で問いを発してしまう僕。

それに対し、水那方さんも、鉄真も、瞬時にピリッとした雰囲気を纏って続く言葉を待っている。

『そう、追加オーダー。所属不明のエージェント2名が芹花を追跡しているとの情報を入手。対象の芹花への接触を阻止し、可能であれば捕獲すること。火器その他殺傷力の高い武器での攻撃を受けた場合、対象の殺害による排除もやむなしとする。』

欠片も想像し得なかった指示に、僕はまたしても呆気に取られた。

全身を支配する緊張は、先程までのじりじりしたものから、凍て付くような悪寒へと一気に取って代わった。

「相手の位置は!?せりりんとの接触までの予測時間はっ・・・あとどれくらいっ!?ディーネっ!!」

焦りを隠せない水那方さんの問いに、ディーネさんが応答する。

『正確な位置は不明だけど、対象も現在アパートに向かって移動している模様。アパート付近で私たちと遭遇する可能性は高そう。』

待って、ちょっと待って。

エージェントが、芹花さんを・・・?

何が目的なのだろう・・・拉致?それとも、まさか・・・

不穏な予感が心臓を鷲掴みにし、息が止まりそうだった。

いつもの芹花さんならどんな相手だろうが引けを取ったりしない。

しかし今の芹花さんにはたして撃退できるのか、どうしても楽観的にはなれなかった。


「はっ!随分雑な情報じゃねぇか。そんなんでよく人を動かせたもんだな。それでどうしてその連中のターゲットが芹花だって分かるんだよ。」

鉄真の指摘は至極真っ当だ。

「何か隠してることがあるんじゃねぇか?掴んでるネタあるなら全部出せよ。」

『・・・今までと何も変わらないよ。私たちは実行部隊だから。与えられた僅かな情報を基に、自分たちで調査して、困難な任務を遂行する・・・それができるから価値があるんだ。』

ディーネさんが静かに反論する。

確かにそれも正しいように思う。作戦に付随する困難は本来自分たちで情報を洗い出し、対処するものだ。

今回のようにイレギュラーが事前に通知されることのほうが珍しい。

『隠してることは無いよ。現時点で提供できる手掛かりは1つ。現在移動中のエージェント2人の姿を捉えたとされる防犯カメラの映像だけ。今から映すね。』

車のナビとそれぞれの携帯端末に、路地裏と思しき不鮮明な映像が映し出された。

この風景には見覚えがある。

これは、芹花さんとのミッションで情報収集のために散々回った場所じゃないか?

画面の中央には、2人の男が映っていた。

いや、背格好と服装から男と推測されるというべきか。

顔をしっかり判別するには、画像の鮮明さがかなり不充分と言わざるを得ない。

まあ少なくとも服装はある程度分かるわけだから、それを目印に警戒するしか・・・


「・・・くっくっく、ふふふ・・・ふはははははっ!!」


突然の哄笑は、鉄真が発したものだった。

心底可笑しそうなその様子に、僕は何やら得体の知れない不安が胸中に垂れ込めるのを感じていた。


「アレクの野郎、これを知ってやがったのか?知ってて俺をこのミッションに加えたのか?何にせよ面白くなってきやがった。」


脳内に疑問符しか浮かばない僕と、同じくぽかんとしている水那方さんをよそに、鉄真は断言した。



「こいつらは、俺の顔なじみだ。」

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