第15話 追跡 ――その①

あらゆる枷の外れた身体で穴倉から抜け、歩み出た路地の上で空を仰ぐ。

直上に戴く太陽は冴えわたる空気を引き裂き、冷たい石畳に暖を運んでいた。


芹花は、疎らに人の行き交う街を1人、覚束ない足取りで歩き続けた。

(身体、重い・・・な・・・)

因縁から解き放たれ、青空の下で味わう4年ぶりの自由。しかし芹花は、自分の手足に鉄球が括り付けられているような感覚に囚われていた。

当然のことだが、身体の質量が急に増したりはしない。感覚の原因は、それを動かすに充分なエネルギーが湧いてこないところにあった。

(ふっ・・・やっぱ唇くらい奪っとけばよかったか・・・)

昨日の夜のことを思い出し、芹花は自嘲の笑みを禁じ得なかった。

頬にキスとか、まるでガキ同士の恋愛ごっこだ。

初心な少女じゃあるまいし、唇にキスをすることくらいなんでもないこと・・・その筈なのに、気づいたら自分の唇は逃げるように頬へと逸れていた。

逆にそれが、まるで自分がついつい本気になってしまっている証左のような気がして嫌だった。

どうしてああなったのか・・・その時は自分の行動がまるで理解できなかったが、今になって少しずつ分かってきた気がする。

私は、あいつの中に自分の存在を刻みたくなかったんだ。

私と違って、あいつは・・・龍は初心なガキだ。私にとって何ともなくても、あいつは大げさに捉えるに決まってる。

そして、私のことについて、きっとあいつは自分を責めるだろう。あいつに責任なんて何一つ無いというのに・・・

私はもう後戻りできない。だけどあいつはまだ戻れる。そもそもあいつは、こっち側の世界の人間じゃないんだ。

あいつは元の居場所に帰るべきだ。

そうであれば、私の存在があいつの重荷になっちゃいけない・・・それが、今際の縁を歩く芹花にようやく自覚できた心の裡だった。


(さて、どこに行くかな。)

やることは決まっていても、それをどこでするのかについては全くイメージが湧かない。

特に場所に拘りは持っていないが、それ故にじっくり考える気も起こらなかった。

ふらふらと目的もなく彷徨い歩く芹花。

バッグの中には、今後の住処としてアレクに渡されたアパートの契約書類の封筒が入っていた。

他に行く当てもないのだからとりあえずそこに向かうのもアリか・・・そう考えて封筒から物件の地図を取り出そうとしたとき、紙に引っかかって小さなケースが飛び出してきた 

(これは・・・タブレット?薬の?・・・何で・・・)

何でも何も、少し考えれば明らかだった。

アレクらしい余計な気遣いといったところか・・・

自分にはもはや不要なそのタブレットを目にして、芹花は寄り道しておきたい場所を思いついた。

もうどうでもいいことのはずなのに、この期に及んで色々と整理をつけておきたくなるのは、人間のさがというものだろうか。



かび臭い空気の籠った路地裏に足を踏み入れる芹花。

昨夜の騒動の影響もあってか、すれ違う人影は疎らで、あたりはひっそりと静まりかえっていた。

ここに溜まるのは皆脛に傷を持つ者ばかり、大規模なガサ入れの噂に委縮するのも当然のことだ。

しかしそれでも、この場を離れられない、ここでしか生きていけない連中もいる。

路地の突き当たりで頬杖を突き、暇そうに怪しげな煙草を燻らせているあのベトナム人も、そんな輩の1人だった。

「やーやーセリカ、また今日も松橋商会の情報を買いに来たのか?」

「いや、そいつはいいよ。もう必要ない。」

彼と重ねた会話によって、セリカのベトナム語にも南部訛りが染みついていた。

「そいつはよかった。実は昨日、その松橋商会にデカいガサ入れがあったみたいでな。奴らの事務所、今はもうもぬけの殻らしい。どこに消えちまったのか、根こそぎしょっ引かれたのか、全く何も掴めねえんだ。アンタに連中の行方聞かれたらどうしようかと悩んでたとこよ。」

「へぇ、そうなのか。」

「アンタは知らんかもしれんが昨晩は大変だったぜ?故郷くにでも聞かねえような銃声の嵐よ。パトカーもわんさか乗り込んできて、ガサってレベルじゃねえ騒ぎだったんだが・・・その割にゃ今日はもうサツをまるで見かけねえんだよな。」

「そいつは好都合だな。」

「まーな・・・と言いたいとこだが、いくらサツがいなかろうとこうも周りがビビってちゃあヤクもネタも商売になりゃしねえよ。ったく・・・」

両手を広げてやれやれと首を振る男を、セリカはただ静かに見つめていた。


「ところであんたは、いつまで売人続けるつもりなんだ?」


セリカの唐突な問いに、男はキョトンとした表情を見せる。

「さあ、いつまでだろうな。他に食い扶持が見つかるまでじぇねえか?金さえ入りゃ何でもいいんだ。好きでやってる奴なんていねえだろ。」

「例えば、お前の売ってる薬のせいで人生狂ったやつがいて、そいつと話せるとしたら、何か伝えたいこととかあるか?」

「おいおいよしてくれよ。何かあったのか?そんなくだらないこと訊いてくるなんて・・・

オレはただ上から下に商品を回してるだけだぜ。そうしねえとオレが飢えて死ぬんだ。

ここじゃあ不法移民ができる仕事なんてろくにありゃしねえ。」

苛立ちの籠った声。普段忘れてることを意識させられるのが苦痛なのだろう。

「こんなところに出入りしてオレみたいなのの売り文句に耳を貸すヤツは、オレがいなくたって遅かれ早かれヤクに嵌ってるよ。

そんな連中に掛ける言葉があるとしたら、“諦めろ”だ。心を殺して生きるか。嫌ならもう死んじまうか。」

信仰心など欠片もなさそうな男が切ってみせた十字は不器用この上なかった。

「生きてる限りいつまでも続く苦痛に比べりゃ、死ぬときの一瞬の苦痛なんて、案外ちっぽけなもんかもしれねえぜ。」

「・・・そうかもな」

その最後の言葉に、芹花は深く共感した。

こんな男にハッとさせられることがあるとは予想もしなかった。真理というのは存外こういう吹き溜まりからポンと飛び出すものなのかもしれない。

「それよりどうしたよセリカ、未開通のガキみたいなこと吐くなんざアンタらしくもねえ。ちょっと疲れてんじゃねえのか?

そんな時はコイツでもキメてハッピーになろうや。なーに、たまにやるくらいなら丁度いい息抜きさ。オレとアンタの仲だ、今回は奢るぜ。」

男の誘いに、苦笑しながら首を横に振る芹花。

「はっ、初回はタダでおびき寄せといて、嵌ったら徐々に値段を釣り上げてく、か・・・流石は根っからの売人だな。」

「おっと随分と棘あんなぁ。そんなんじゃねえよ。こいつぁ100%親切心、から・・・の・・・っ!?」


男の顔が固まる。


「おっ・・・おい、そそそりゃあ、何のマネだ!?」


その鼻先に銃口を突き付けたまま、眠たげな目で、芹花は男を見下ろしていた。


「大丈夫だ、お前だけが悪いわけじゃねぇ。それは分かってる。」


「は?・・・な、何を・・・」


「それでもまあ、お前がいなくなりゃ、お前がこれまでヤクに引き入れた人数分くらいは、この先救われるヤツも出てくるかもしれねぇよな。」


「わわ、ワケ分かんねえこと言ってねえで、お、落ち着けよ!な?」


「“整理”だよ。もうここには来れねえし、少しでもキレイにしとこうと思ってな。」


「ヤクか?渡すヤクが足りねえか?・・・なっ、何なら、手持ち全部・・・っ!」


「心配すんな、生きてる限り受け続ける苦痛に比べりゃ、こんなもん」


「た、助け・・・」



「一瞬だ。」



パァン!!



--------



「っつああああっ!」


右肩に走った激痛に、僕はたまらず声を上げた。

「よし、これで肩は嵌った。ある程度は自由に動かせるようになった筈だ。」

アレクさんに言われ、軽く腕を回してみる。多少の違和感はあるが、これなら何とかなりそうだ。

「だが所詮は応急処置だ。完全に思い通りには動かせないだろうし、若干の痛みも残る筈だ。あまり無茶はするなよ。」

「分かりました。」

「さて、しばらくは“待ち”だ。作戦書の決裁が下りるまでは動くこともできないからな。大丈夫、最優先の稟議書として提出したから1、2時間で採否の結論は出るはずさ。」

僕と水那方さんに作戦書を送ると同時に、研究者サイドにも稟議書として送信したらしい。

さっきのアレクさんの携帯操作量ではそれ以上のことなんてできる筈がない。ということは、作戦書自体は事前に用意されていたということだ。

改めて見直してみても、咄嗟に書けるレベルの内容ではあり得ない。

「こんな作戦書、一体いつの間に作ってたんですか?」

「まあ、合間にちょっとな。必要なければ破棄されるだけのただの保険だよ。いかなる状況をも想定しておくのが指揮を執る者の役目だからね。」

今のこの状況も想定内だというのか。この人はひょっとしたら世の中の全てを見通すことができるのではないかとすら疑ってしまう。


「ところで龍クン、オレの力が及ぶのはせいぜいここまで、作戦書が否決されればお前の出動を認めるわけにはいかないが、その場合はどうするつもりだ?

やはり脱退の意思は固いのか?」

「・・・はい、そうなったらもう、それしか道は無いですから。」

少し頭が冷えたことで、アレクさんが言外に含めているものも読めるようになってきた。

この問いは、単に僕に確認を取っているだけではない。

「であれば、逆に言うと、作戦書が通れば脱退の理由もない。その場合は組織に留まると解釈してもいいんだな?」

「はい、構いません。」

これは、交渉だ。

僕らではなく、この状況をモニタリングしている筈の者たちとの。

サイトを失いたくなければ計画書を通せ・・・研究者サイドに対し、そう圧力を掛けているのだ。

しかも、アレクさん自身はあくまで僕の強硬な態度に屈しただけ、という構図を決して崩さない。

そうすることで余計な警戒を抱かせないようにしているのだろう。

見事としか言いようがない。駆け引きとはこうやってやるものなのか・・・さっきの僕みたいに感情に任せて突っかかるだけでは自分の望み通りに事態を動かすなんてできないということだ。

もっと頭を使って賢く立ち回らなければいけない。僕はアレクさんからもっともっと色んなことを吸収しないとダメなんだ。

「さあ、無駄な時間は無いぞ。結果が出るまでの間に作戦の準備を万端にしてこい。」

アレクさんに促され、僕たち2人は執務室を後にした。



「どう?こんな感じで。違和感あったら言ってね。私不器用だから・・・」

「ううん、何も問題ないよ。ばっちりだ、ありがとう。」

承認待ちの猶予時間、行先として僕がまず選んだのは救護室。

いくら嵌ったといっても右肩に怪我を抱えていることには変わりない。万全を期すためにテーピングくらいはしておきたかった。

最初は1人で処置するつもりだったが、水那方さんが「じゃあ私もついてくよ。」と言って一緒に来てくれた。

こうやってテーピングしてもらってみて、もしこれを自分1人で自らの肩に施そうとしたら相当難儀しただろうと気付く。

それに、彼女自身が格闘の熟練者だからか、水那方さんの処置は的確だった。接骨院の整復師に格闘技経験者が多いというのも納得だ。動きやすさは損なわれないまま、関節がしっかりと守られている感じがする。


「ねえりうっち、りうっちは、せりりんに会ったらどんな言葉を掛けるつもり?」

不意に発せられたのは、常に直球勝負が売りの水那方さんらしくない、迷いを含んだ問い。

「・・・分からないよ。」

その問いに対する答えを、僕は持ち合わせていなかった。

「芹花さんが置かれてた境遇を理解するなんて僕にはできないし、芹花さんが何を考えてるかも分からない。理解したつもりになることはできても、結局、答えは芹花さんの中にしか無いんだと思う。」

そう、僕なんかが芹花さんの現状を理解し、導いてあげようなんて、そんな自惚れた考え方は到底できない。

「だから、とりあえず会って、話をしてみるしかないんじゃないかな。」

「・・・うん、そうだね、そうだよね。」

僕の言葉に笑顔を返してくれる水那方さん。

しかし、その瞳には拭い切れない不安の色が浮かんでいた。



水那方さんと別れて居室に戻った僕は、作戦に必要な装備の最終チェックに取り掛かった。

代用品として支給された銃を整備する僕の頭の中では、水那方さんの問いが今もぐるぐると回り続けていた。

確かに、会ってみなければ何を話していいかも分からない。

でも、本当にそれでいいのか?今のうちにもっとやれることがあるんじゃないか?

アレクさんのように、色んな想定をして、それに対応できる備えをしておくべきだ・・・そう思いつつも、事態は僕の想像が及ぶ範囲を遥かに超えていた。

芹花さんは何を考え、何をしようとしているのだろう。

例えば、寺門を調べる過程で知り得た関連組織に乗り込んで、組に携わる連中を殲滅しようとでも目論んでいるのであれば、無茶ではあるが、まだマシだ。

最悪なのは、彼女が銃を用いて成そうとしていることが、相手を必要としない行為であるケースだ。

この場合、計画や準備の期間が必要ない。いつだって彼女はそれを実行できる。

僕らに与えられる猶予は、非常に限られたものとなるだろう。

そもそも、まだ猶予なんてものが残っているのか?

1秒1秒、時間が過ぎていくたびに、焦燥感がじりじりと胸の奥を焦がす。


その時ようやく、着信を知らせる携帯アラームが鳴動した。

僕の待ち侘びたメッセージが画面に表示される。



『作戦書の承認が下りた。各自、今すぐ作戦行動に移れ。』

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